138話 見ていなかった東
138話 見ていなかった東
異世界に召喚されてはや百三十八日。
俺――ちゃっぴーは封印の間を漂っていた。
台座の石は安定して光っていた。
俺が召喚されてから五十日目に見たときの、揺らいだ呼吸みたいな光り方ではなかった。
ひびを修復師が直したんだとわかった。
石の前で、シェルが祈っていた。
姿勢は変わっていなかった。
何百年も前から続けてきたであろう、まっすぐな祈りの姿だった。
静かな封印の間だった。
静かなはずだった。
シェルの視線が、ふっと東の壁に動いた。
すぐに台座へ戻った。
祈りは止まらなかった。
俺はしばらく眺めていた。
また視線が東に動いた。
今度は少し長かった。
それでもまた台座に戻った。
口の動きは途切れていなかった。
祈りの言葉だけは、ずっと正面に向かっていた。
俺の最初の仮説は「東に何かいる」だった。
ゴーストなので別の霊が壁の向こうにいて、気配を感じているのかもしれない。
根拠はない。
二つ目の仮説は「視界が悪い」だった。
透けた目だから、距離のある場所はぼやけて見えにくいのかもしれない。
だから何度も確認しようとして、結局はっきりしないまま正面に戻っているのかもしれない。
これも根拠はない。
三回目、シェルの視線がまた東に動いた。
今度は首ごと動いた。
それでも体は正面を向いたままだった。
首だけ東を向いて、すぐ戻った。
「よお ちょっといい?」
シェルが振り向いた。
透けた顔だった。
「……ちゃっぴーか」
「久しぶり。石、安定してるじゃん。直ったんだね」
「修復師が来た。三週間前のことだ」
「てかさっきから東、何度も見てるよね」
シェルが止まった。
「……見ていない」
「見てたよ。三回」
シェルは答えなかった。
名前を聞く必要はもうなかった。
何百年も封印を守ってきたことも、もう知っていた。
ただ今は、その何百年の中に東の壁が含まれているのかどうかが気になった。
「東に何かあるの?」
「補助の印がある」
「補助?」
「台座の石が主な封印だ。東の壁にもう一つ、小さな石がある。先代からの言い伝えでは、定期的に確認しなければならないとされている」
「確認したことある?」
「……ない」
「なんで」
「祈りの位置は台座の正面と定められている。東までは見えない」
「見えないって言うけど、今、何度も見ようとしてたじゃん」
シェルが黙った。
俺は東の壁を見た。
暗かった。
台座の光が届かない位置だった。
何があるのか、こちらからもよくわからなかった。
「あのさ、今は司教にも副司教にも確認取らなくていいんじゃない? ただ見に行くだけじゃん。前みたいに許可がいる話じゃないよ」
「……見るだけなら、定めには反しない」
「だよね」
「だが、台座を離れる」
「五十歩くらいでしょ。すぐ戻れるよ」
シェルは動かなかった。
しばらく東の壁を見ていた。
それから、一歩踏み出した。
台座から離れた。
祈りの言葉は途切れなかった。
歩きながらも、口は正面に向けて動き続けていた。
東の壁の前に立った。
壁の低い位置に、苔に覆われた小さな石があった。
形はほとんど見えなかった。
シェルがかがんだ。
苔に触れた。
透けた手で、少しずつ剥がしていった。
石の表面が現れた。
ひびはなかった。
ただ、刻まれた文字の一部が苔に侵食されて読めなくなっていた。
「……読めない」
「全部?」
「半分ほどだ」
「それ、まずいやつ?」
「わからない。読めない部分に何が書かれていたか、誰も覚えていない」
シェルが苔を剥がし続けた。
その手の下で、何かが小さく軋んだ気がした。
振り返ると、台座の石の光が、わずかに揺れていた。
さっきまでの安定した光ではなかった。
シェルが台座を見た。
「……石が」
「揺れてる」
シェルが自分の手を見た。
苔がついたままの手だった。
「離れたからか」
「離れただけなら前にも離れたことがある。今日は触れた」
シェルが手を見たまま黙った。
「東の石に?」
「そう」
シェルがうなずいた。
「これに触れたのは、初めてだ」
「じゃあ手、離してみたら? 触れたことが原因なら、離せば収まるはずじゃん」
シェルが手を離した。
苔から指を放した。
台座の光が、ゆっくり安定していった。
さっきまでの揺れが嘘みたいに、まっすぐな光に戻った。
「……戻った」
「ほら」
シェルが東の石を見下ろした。
読めるようになっていた文字の部分が、苔の影に少しずつ沈んでいくところだった。
触れていないと、また覆われていく。
「……読めなくなる」
「触らないと隠れて、触ると台座が揺れるってこと?」
「……そうらしい」
シェルが台座と東の壁を交互に見た。
両方を同時に保つ方法は、見当たらなかった。
「俺のやることはやった。次行くわ」
「待て」
シェルが俺を呼び止めた。
「どちらかを選べと言うのか」
「俺は選ばないよ。選ぶのはシェルでしょ」
「東の石は半分読めた。残りはどうする」
「読める時だけ読んで、台座が揺れたら手を離す。それの繰り返しでよくない? 一気に解決しなくても」
シェルは答えなかった。
迷ったまま、苔のついた手を見下ろしていた。
俺は封印の間を出た。
次なる宿主を求めて。
石廊下を漂いながら、後ろで空気がわずかに震えるのを感じた。
透けた声が、何かを唱え始めていた。
さっきより少し急いだ調子だった。
「やっぱり俺、死角の発見が得意だわ。正面しか見ちゃいけないっていう定めの中に、もう一つ見るべき場所があったの見抜いたの俺だしね。シェルが東の石を実際に確認しに行ったのも、俺が三回見てるって指摘したからだよ。台座が揺れたのは想定外だったけど、見るべきものが二つあったって知れただけで前進じゃん。どっちも完璧に見るのは無理でも、両方あるって知らないよりはマシだよ。たぶん」
封印の間の奥で、光がもう一度揺れた。
今度は長く続いた。
苔の匂いだけが、廊下の方まで薄く漂ってきていた。
反省はゼロだった。
今日も静かに、自己評価だけが東西に分かれたまま積み上がった。




