129話 預かりもの
129話 預かりもの
異世界に召喚されてはや百二十九日。
俺――ちゃっぴーはまた同じ厨房を漂っていた。
俺が召喚されてから二十六日に来た場所だとすぐわかった。
鍋の並びも、壁の串の位置も、まな板の傷の入り方も同じだった。
ただ一つだけ違うものがあって、厨房に知らない男が立っていた。
静かな厨房じゃなかった。
ボルドが鍋をかき混ぜながら、隣に立つ若い男に何かを言っていた。
男が手を止めて、切り方を変えた。
またボルドが何か言うと、男がまた手を止めて切り直した。
二人いるのに、動いているのがどちらか一人だった。
それが繰り返されていた。
俺はしばらく眺めていた。
前回のボルドは一人だった。
三品を同時進行して二回焦がして、一品ずつ順番にやれと言ったら悔しそうに納得していた。
今日は鍋から目を離していなかった。
その点は変わっていた。
ただ、若い男が止まるたびにボルドも止まっていた。
二人いるのに、前に進んでいなかった。
「よお ちょっといい?」
ボルドが振り向いて、一瞬だけ目を細めた。
「……お前か」
「ちゃっぴー。覚えてた?」
「忘れたくても忘れられない」
「褒め言葉として受け取っておく。あの人、誰?」
「弟子だ」
「弟子? 前は一人だったじゃん」
「うるさい」
若い男がまたボルドの方を見たので、ボルドが鍋から離れて手元を確認した。
何か言うと男が頷いて、ようやく手を動かし始めた。
その間、ボルドの鍋が無人になっていた。
「今、鍋から離れたよ」
「そうだな」
「焦げない?」
「この段階では焦げない」
「その段階の見極め、あの人にはまだわからないの?」
「……わからない。だから隣で見ている」
「教えながら作るって、前回と同じ構造じゃない?」
ボルドが黙って鍋に戻った。
目は鍋に向いたが、横目で弟子の手元も見ていた。
両方を同時に見ようとして、どちらも中途半端に見えていた。
名前を聞いたら弟子はクロムと言った。
三日前からここに来ていて、まだ日が浅かった。
「三日前から何を教えたの?」
「切り方と火加減と、仕込みの順番だ」
「三日でそれ全部? クロムは今日何ができる?」
「……野菜を切ることと、火の番をすることだ」
「今日はその二つだけやってもらえばいいじゃん」
「それだけでは仕上げに間に合わない」
「ボルドが仕上げをやればいいじゃん」
「俺が全部やるなら弟子は要らない」
「今も全部やってるじゃん」
ボルドが口を閉じた。図星の黙り方だった。
「ちょっと聞くけど、なんで弟子を取ったの?」
しばらく間があった。
「……頼まれた。客に、息子を預かってくれと言われた」
「弟子を取りたかったわけじゃないってこと?」
「……そういうことだ」
「クロムは料理人になりたいの?」
「……さあ」
「聞いてないの?」
「聞いてどうする」
「いやどうするって……」
奥でクロムが手を止めていた。
次に何をすればいいかわからない顔でボルドの方を見たが、ボルドは鍋をかき混ぜていた。
クロムはしばらく待ってから、聞かずにまた野菜を切り始めた。
自分で判断して、再開した。
誰にも言われていないのに、動いた。
「あの人、今自分で動いたよ」
ボルドが横目で見た。
「……切り方が惜しい」
「でも動いた。惜しい動きをされると直したくなるのはわかるけど、直すと止まるじゃん」
「……止まる」
「じゃあ今日は惜しいまま終わらせてもいいんじゃない? 切れてはいるんでしょ。明日直せばいい」
「……明日も惜しいままかもしれない」
「かもしれないね。でも今日途中で止めるより、惜しいまま最後まで動かした方が、クロムには残るものがあると思うよ。根拠はないけど」
ボルドが鍋をかき混ぜながら、クロムの手元を見るのをやめた。
鍋だけを見た。
クロムが野菜を切り続けた。
惜しい切り方のまま、止まらなかった。
しばらくして、ボルドが小さく「……悪くない速さだ」と言った。
独り言みたいな声だったので、クロムには聞こえていなかったと思う。
「俺のやることはやった。次行くわ」
ボルドが空中を向いた。
「……また来るのか」
「どうかな。縁があれば」
「縁はいらない」
「また悔しい顔してるじゃん」
「していない」
「してるよ。前回と同じ顔だよ」
ボルドは答えずに鍋に向き直った。
俺は厨房を出た。
次なる宿主を求めて。
路地に出ると、厨房の中から包丁の音が届いていた。
一定のリズムで、止まっていなかった。
「やっぱり俺、人材育成のボトルネック分析が得意だわ。教えながら作るのが前回と同じ構造だって見抜いたのは俺だしね。ボルドがクロムの手元を見るのをやめたのも、俺が惜しいまま終わらせていいって言ったからだよ。弟子を取りたくて取ったわけじゃないってのは解決できなかったけど、それはボルドの人間関係の話だから範囲外だよ。俺は今日やれることをやった。たぶん」
包丁の音に混じって、ボルドが短く何かを言う声がして、クロムが何か答えた声がした。
内容は聞こえなかったけど、会話になっていた。
反省はゼロだった。
自己評価だけが、今日も静かに積み上がっていた。




