127話 書けないエリナ
127話 書けないエリナ
異世界に召喚されてはや百二十七日。
俺――ちゃっぴーは酒場を漂っていた。
石と木でできた古い建物だった。
昼間から客が入っていて、カウンターに三人、奥のテーブルに二人いた。
隅の方で、一人の男が紙を広げて何かを書こうとしていた。
フェルだった。
六日目に酒場の隅で歌えていなかったあいつで、七十四日目に広場でエリナの歌を歌い続けていたあいつだった。
あれから五十三日経っていた。
今日は歌っていなかった。
リュートを脇に立てかけて、紙と羽ペンを前に置いていた。
ジョッキに酒が入っていたが、ほとんど減っていなかった。
俺はしばらく眺めていた。
フェルが羽ペンを持った。
紙に近づけた。
止まった。
ペンを置いた。
リュートの弦を一本だけ鳴らした。
ぽろん、と間の抜けた音がした。
また紙を見て、羽ペンを持った。
そして止まった。
カウンターの客が笑い声を上げた。
フェルがそちらを見た。
何かを考えた顔をした。
紙に一文字書いた。
止まった。
その一文字に横線を引いた。
弦をもう一度鳴らした。
今度は音が二つ出た。
続かなかった。
三回見て、止まり方の形がわかった。
書こうとするたびに手が戻る。
これは迷っているのではなく、複数の何かが同時に走っていて、どれも一歩目を踏み出せていない状態だと思った。
たぶん。
「よお ちょっといい?」
フェルが顔を上げた。
周りを見回した。
「……ちゃっぴー」
「久しぶり。また来た。今日は歌ってないじゃん」
「見ていたのか」
「しばらくね。紙に何も書けてないじゃん」
「書いた」
「消したじゃん」
返事がなかった。
「何を書こうとしてるの」
フェルが紙を見た。
「アンサー曲だ」
「エリナへの?」
「エリナからの、だ」
「エリナが歌う曲を作るってこと?」
「そうなる」
「なんで止まってるの」
フェルがしばらく黙った。
「……エリナをどう書くか決まらない」
「どういう意味?」
「エリナには三つある」
フェルが弦を指で押さえた。
弾かなかった。
「男を探しているエリナ。男から逃げているエリナ。男を最初から知らないエリナ」
「どれでも書けるの?」
「書けると思う」
「ふうん。だから決まらないの?」
「……どれを書いても、前の歌の意味が変わる。決めたら後戻りできない」
「それで一行目が書けないの?」
「そうなる」
俺はちょっと考えた。
三つが並んでいて、全部書ける。
全部書けるから選べない。
選んだら他が消える。
だから動かない。
なるほど、これは完璧に止まるやつだ。
「全部書けば? 三曲作って、日替わりで歌う」
「エリナは一人だ」
「じゃあ客に選んでもらえば? 今日はどのエリナが聞きたいですか、みたいな」
「馬鹿にしてるのか」
「してない。意見を取り入れる参加型の演目として――」
「ない」
「あと、三つ同時に書いて、一番最初に完成した方を採用するのはどう? 競走させるみたいに」
「俺は一人だ」
「そうか」
俺は考えるのをやめた。
どれも違った。
全部書けない、客に選ばせない、競走もしない。
ならあとは聞くしかなかった。
「全部書けないなら、何を基準に一つ選ぶの?」
フェルが黙った。
長い沈黙だった。
弦に置いた指が、微かに動いた。
また止まった。
「……わからない」
「わからないまま三つ全部持ってるから動けないんじゃない?」
「そうなる」
「じゃあ基準、何かあるの?」
フェルがリュートを見た。
紙を見た。
ジョッキを見た。
また紙に戻った。
「……最初に浮かんだやつだった」
「え」
「三つ考えたとき、最初に浮かんだのは逃げているエリナだった。それ以外を足したのは、後からだ」
「それでいいんじゃない?」
「それだけでいいのか」
「俺に聞かれても」
フェルが羽ペンを持った。
今度は止まらなかった。
紙に一行書いた。
続けて二行目を書いた。
三行目も書いた。
手が動き続けた。
奥のテーブルの客が立ち上がって店を出た。
扉が閉まる音がした。
フェルは顔を上げなかった。
俺はその様子を少しだけ見ていた。
書いている内容は読めなかった。
本当に逃げているエリナを書いているのかも、確かめようがなかった。
まあ、動いたからいいかと思った。
「俺のやることはやった。次行くわ」
フェルはペンを動かしたまま短く言った。
「……ああ」
感謝でも何でもない返事だった。
でも止まらなかった。
俺は酒場を出た。
次なる宿主を求めて。
外は昼過ぎの光だった。
体がないので温度はわからないが、光がそういう色だった。
「やっぱり俺、創作の詰まりを解消するのが得意だわ。三択で全部書けるのに選べない、って状態を見抜いたのは俺だしね。全部書けばとか日替わりとか客に選ばせるとか、提案が全部却下されたのは惜しかったけど、あれは先に潰しておく作業として必要だったから。最後に何を基準に選ぶか聞いたのも俺だよ。フェルが自分で答えを出したのは、俺が聞いたからだよ。たぶん」
酒場の中から、羽ペンが紙を走る音がしたかどうかは、距離があってわからなかった。
エリナがどうなったのかも、聞こえなかった。
反省はゼロだった。
自己評価だけが、昼の光の中で静かに増えていった。




