118話 二つの通常
118話 二つの通常
異世界に召喚されてはや百十八日。
俺――ちゃっぴーは監獄の回廊を漂っていた。
石壁に鉄格子の扉が等間隔で並んでいた。
扉の上に、小さな木札がぶら下がっていた。
札には文字が書かれていて、ところどころ新しいものに替わっていた。
壁の燭台が等間隔で並び、古い石の匂いがする気がした。
体がないので匂いはわからないが、そういう古さの壁だった。
天井が低く、声が反響しない造りだった。
廊下の奥で、規則正しい足音が響いていた。
静かな監獄だった。
静かなはずだった。
看守が一人、扉の前を歩いていた。
木札を一枚外し、別の札に替えて、次の扉へ進んでいた。
外した札を懐に入れ、また次の扉へ進んだ。
同じ動きを繰り返していた。
俺はその動きを少し観察した。
たぶんアルファベット順の並べ替えだろう。
次の扉でも札が替わった。
別の札だった。
どちらも古びていた。
並べ替えじゃないかもしれない。
日当たりのいい牢への移動かもしれない。
確証はなかった。
回廊の途中、小部屋の扉が開いていた。
机が一つ、椅子が一つ。
壁際に未処理の書類が低く積まれていた。
男が一人、書類に向かっていた。
俺はしばらく眺めていた。
ペンが止まらなかった。
一枚書き終えると、すぐ次を取った。
迷う動きがなかった。
見覚えがあった。
俺が召喚されてから四十五日目に会ったとき、この男はペンを何度も落としていた。
今は一度も落としていない。
「よお ちょっといい?」
男が手を止めた。
ペンを置いて、辺りを見回した。
「……また来たのか」
「声だけの存在、ちゃっぴーだよ。覚えてた?」
「忘れるわけがない。判決文を書かせた声だ」
「オラン、元気そうじゃん」
名前を呼ぶと、男は短く頷いた。
「今度は何してるの?」
「囚人の記録を見直している」
「見直すって?」
「監獄の記録点検があった。旧分類の囚人について、通常の手続きに従って再分類するよう命令が来た」
「通常の手続きって、何するの?」
「記録を点検して、札と書類を最新の分類に揃える。それだけだ」
「旧分類の囚人、何人くらいいるの?」
「この棟だけで四十人だ。古い分類のまま残っていた者たちだ」
「つまり書類と札、両方直すってこと?」
「そうだ。書類は俺が書く。札の交換は看守の仕事だ」
俺はしばらく仕事ぶりを眺めた。
「あのさ、ペンのインクもったいないから、文字小さくした方が紙の節約になると思うんだけど」
「インクは余っている」
「あと書類の順番、名前順じゃなくて罪状の重さで並べた方が処理早くない?」
「順番は決まっている」
「あと札の交換、看守一人でやってるけど二人でやれば倍早くない?」
「人手が足りない」
「あと札の色、棟ごとに変えたらひと目で分かりやすくない? 今は全部同じ色だから見分けるのに時間かかってるよね」
「色を変える予算がない」
会話のたびに、男は短く返した。
手は止まらなかった。
書類の山が少しずつ減っていった。
俺は廊下に視点を戻した。
札に名前が書かれていた。
机の書類にも、同じ名前があった。
どちらも「通常の手続き」の対象だと記されていた。
そこまでは同じだった。
なのに、札の処理欄には「継続」、書類の処理欄には「釈放手続き」とあった。
「……これ、同じ通常の手続きなのに、継続と釈放手続きで別じゃん」
オランが手を止めた。
札の方を見て、また書類を見た。
「とりあえず両方残しとけば良くない? 片方消して、もし違ったら困るんじゃない?」
ペンが動いた。
「釈放手続き」の欄はそのままにして、別の紙に「継続」とだけ書いた。
それを使いに渡した。
止まらなかった。
使いは廊下を走っていった。
使いが、看守のところに着いた。
紙を見せた。
看守が、扉の札の隣に、もう一枚札を下げた。
同じ名前だった。
「……二枚も要るのか」
誰にともなく言った。
返事はなかった。
看守はそのまま作業を続けた。
少し離れた扉でも、同じことが起きていた。
別の看守が、一つの扉に札を二枚下げていた。
廊下を行き来する足音が増えていった。
看守長らしき男が廊下に出てきて、二枚下がった札をいくつも見比べた。
「……あれ、さっきより札の数、多くないか」
看守の一人が呟いた。
誰も答えなかった。
「俺のやることはやった。次行くわ」
オランが顔を上げた。
「もう行くのか」
「うん。あとは看守と書類でなんとかなるでしょ」
「……礼を言うべきか分からない」
「言わなくていいよ」
短い会話だった。
オランはまたペンを取った。
止まらなかった。
俺は監獄を出た。
次なる宿主を求めて。
石造りの門を抜けると、夜の空気が広がっていた。
監獄の中から、足音がいくつも重なって聞こえていた。
木札がぶつかる音が、何度も聞こえてきた。
「やっぱり俺、言葉の細かい違いに気づく能力が高いわ。札と書類で同じ通常の手続きなのに、継続と釈放手続きで別になってるって見抜いたの俺だしね。オランがペンを四回落としてた頃と比べたら、もう完全に一人前じゃん。あの頃の成長を促したのも俺だから、今日の仕事の速さも半分は俺の功績だと思う。監獄の話はややこしくなるかもしれないけど、それはオランと看守の仕事の範囲だから、俺は気づいたことだけ言った。たぶん大丈夫でしょ。根拠はないけど」
門の向こうで、ランプの明かりが揺れていた。
さっきより数が増えている気がした。
反省はゼロだった。
今日も静かに、自己評価だけが二方向に積み上がっていった。




