113話 決まらなくても出していい
113話 決まらなくても出していい
異世界に召喚されてはや百十三日。
俺――ちゃっぴーは薄暗い研究室を漂っていた。
机に紙が積まれていた。
床にも紙が積まれていた。
椅子の上にも紙が積まれていた。
座る場所がなくなっていた。
カーテンが半分だけ閉まっていた。
光は机の端にしか当たっていなかった。
壁に大きな図が貼られていた。
丸い点と四角い点と三角の点が、線でつながれていた。
魚の形をしていた。
図の下に、二本の線が引かれていた。
左側、「人為」。
右側、「偶然」。
どちらにも、細かい字がびっしり並んでいた。
男が机に向かっていた。
背中を丸めていた。
広場で会った時より、ずっと縮んでいた。
ひげが伸びていた。
机にカップ麺が三つ並んでいた。
どれも蓋が開いていなかった。
「……人為、八十二。偶然、八十一」
男がつぶやいた。
ペンを持った。
紙には触れなかった。
「一件差で出すわけにはいかない」
俺は男の横に寄った。
見覚えがあった。
俺が召喚されてから六十一日目に会った、広場で石を数えていた男だった。
「よお 久しぶり」
男が顔を上げなかった。
「……誰だ」
「声だけの存在、ちゃっぴーだよ。あの時も声だけだったでしょ」
「ああ……お前か」
「論文、まだ終わってないんだね」
「終わっていない」
「五十二日経ったよ」
「知っている」
男が図を見た。
「人為」と「偶然」を見た。
ペンを置いた。
「あと一件で、どちらかに決まる」
「じゃあ多い方に決めれば?」
男の手が止まった。
「……は?」
「八十二の方が多いじゃん。決定でいいんじゃない?」
「数の多さで歴史的判断を下せるか!」
かなり強い声だった。
「一件の差は誤差の範囲だ。それで断定したら、後世の研究者が全部やり直すことになる」
「ふうん」
「ふうんじゃない」
俺は部屋を見回した。
床に手紙の束があった。
封が切られていなかった。
かなり積まれていた。
カレンダーに丸がついていた。
その丸に、バツが重ねて書かれていた。
「あれ、返事してないの?」
「……確定していないものに、返事は出せない」
「手紙の返事と魚の図、関係なくない?」
「ある。今の俺は、何も確定していない人間だ」
男がカップ麺を見た。
三つとも見た。
「どれを開けるか、まだ決めていない」
「それも関係ないでしょ」
「同じだ」
男の目が落ちた。
机の下を見ていた。
俺もそっちを見た。
紙くずが丸めて捨てられていた。
一つだけじゃなかった。
何個も転がっていた。
「あれ何?」
「捨てたやつだ」
「なんで捨てたの」
男が黙った。
「……数えると、どっちにも入らない石があった」
「入らないなら、入れなくていいじゃん」
「入れないと、列が汚れる」
「汚れるって?」
「人為と偶然、どちらかに分類できないと、表が成立しない」
俺はその紙くずを見た。
拾うことはできなかった。
体がなかった。
ただ、見える範囲で、字が読めた。
『……石、未完成』
『魚、途中で止まっている』
『彫り、片側だけ浅い』
三枚とも、似たようなことが書かれていた。
「これ、ただの未完成ってこと?」
「未完成かどうかも、確定していない」
「だから捨てたの?」
「捨てたんじゃない。保留にした」
「五十二日、保留にしてるじゃん」
男が止まった。
紙くずを見たまま、止まった。
「……保留のまま、五十二日」
小さい声だった。
男が紙くずを一つ拾った。
広げた。
別の紙くずも拾った。
広げた。
机の上に並べた。
「人為」と「偶然」の間に、新しい列ができた。
「……これは、人為でも偶然でもない」
「うん」
「分類できないこと自体を、書けばいいのか」
男の声が変わった。
「人為、八十二。偶然、八十一。未確定、十七」
「数えたの」
「今数えた」
「早いね」
「数えること自体は、得意だ」
男がペンを持った。
今度は紙に触れた。
迷いがなかった。
『結論:人為とも偶然とも判定できない、未確定領域を含む記念物』
書き終えると、男が立ち上がった。
カーテンを最後まで開けた。
光が部屋全体に入った。
机の上のカップ麺を見た。
三つとも同じに見えた。
一番手前のを取った。
迷わなかった。
「決められたね」
「これは味で選んだだけだ。確定とは関係ない」
「さっきまでそれも決められなかったじゃん」
男が答えなかった。
蓋を開けた。
「俺のやることはやった。次行くわ」
「待て」
「なに」
「……決まらなくても出していいと、最初に言ったのはお前だ」
「言ってないよ。多い方にしろって言っただけ」
「それで十分だった」
男が手紙の束に手を伸ばした。
一通、封を切った。
俺は研究室を出た。
次なる宿主を求めて。
廊下は静かだった。
窓の外はもう暗かった。
「やっぱり俺、決断力に関わる才能あるわ。多い方にしろって言ったの俺だしね。未確定を書いていいって発見、ほぼ俺のおかげだよ。直接言ったわけじゃないけど。たぶん」
研究室の方から、カップ麺の蓋を剥がす音が聞こえた。
次に、封を切る音が聞こえた。
立て続けに、何枚も。
五十二日分の保留が、一晩で動き出していた。
反省はゼロだった。
自己評価が、カップ麺一つ分積み上がった。




