112話 鳴らない鐘
112話 鳴らない鐘
異世界に召喚されてはや百十二日。
俺――ちゃっぴーは神殿の本堂を漂っていた。
天井から差し込む光が、石畳に長い筋を作っていた。
祭壇に蝋燭が並んでいた。
香の匂いがした気がした。
体がないので匂いを感じるかどうかは例によってよくわからないんだが、そういう匂いがする場所だと認識していた。
静かな神殿だった。
静かすぎる神殿だった。
内陣の扉の前に、白い法衣の人影があった。
ゼフスだった。
俺が召喚されてから三十七日目は、手順表に取り消し線を引いた教皇。
俺が召喚されてから八十六日目は、信徒と話が噛み合わなかった教皇。
今日はまた別の顔をしていた。
扉の布に手をかけた。
くぐらずに、離した。
もう一度かけた。
また離した。
本堂の入口近く、鐘楼に続く縄の前に、若い神官が立っていた。
縄に向かって手を伸ばした。
指先が触れる直前で止まった。
さらに外、表門の前にも人がいた。
カンヌキに手をかけ、力を込めかけて、抜いた。
俺はしばらく眺めていた。
鐘の神官が、また縄に手を伸ばした。
また同じところで止まった。
もう一度。
そんな調子で、何度も繰り返していた。
止まる位置だけはいつも同じだった。
これは緊張だ、と俺は思った。
引くタイミングが怖いんだ。
門の神官を見た。
カンヌキにかけて、抜いて、戻していた。
これはカンヌキが重すぎるんだ、と俺は思った。
道具の問題だ。
ゼフスを見た。
まだ同じ動きを繰り返していた。
布をつまんで、離して、帯を直して、また布をつまむ。
これは帯が窮屈なんだ、と俺は思った。
身体の問題だ。
三つとも見当が外れている気がしたが、見ただけでは確証がなかった。
「よお ちょっといい?」
ゼフスが空中に視線を投げた。
「……またそなたか」
「覚えてたじゃん」
「忘れようとしたが無理だった」
「三十七日目の取り消し線、まだ機能してる?」
「している。確認は今もしていない」
「八十六日目の信徒とは?」
「……まだ噛み合っていない」
「今日、儀式の日でしょ。なんで誰も動かないの」
「順番がある」
「どんな順番?」
「鐘が鳴ったら、私が扉をくぐる」
「鳴ってないじゃん」
「鳴る前にくぐる作法はない」
「鐘の人は何待ち?」
「門が開いた音だ」
「門の人は?」
「私の姿だ。見えたら開ける」
俺は少し止まった。
「……ふーん、鐘も門もちゃんと順番があるってことね。律儀じゃん」
「律儀の話ではない」
「いや、でもそれ、誰が最初に決めた順番なの?」
「先代の代からの作法だ」
「ふーん。まあ、ちゃんと守ってるのは偉いと思うよ。知らないけど」
ゼフスは答えなかった。
扉の布に手をかけ直した。
かけて、止めた。
俺は鐘の神官の方に漂った。
「ねえ、その握り方、手首固定して肘から動かした方がいいと思うんだけど」
神官は答えなかった。
縄に伸ばした手を、また止めた。
俺は門の神官の方にも漂った。
「そのカンヌキ、油差した方が軽くなるよ。さっきから重そうにしてるじゃん」
門の神官も答えなかった。
カンヌキにかけた手を、また戻した。
止まる理由は技術でも道具でもなかった。
たぶん。
俺は鐘の神官のところに戻った。
握り方、立ち方、縄の長さ、俺は話しかけ続けた。
神官の顔が、だんだん固くなっていった。
神官の首が、門の方にわずかに傾いていた。
音を聞こうとする傾き方だった。
俺の声はまだ隣で続いていた。
傾いていた首が、まっすぐに戻った。
縄に手を伸ばした。
止めなかった。
引いた。
鐘が鳴った。
ゼフスが顔を上げた。
扉の布を払って、内陣をくぐった。
本堂の奥まで、まっすぐ歩いた。
門の神官が、本堂の奥にゼフスの姿を見た。
カンヌキを抜いた。
門が開いた。
外の光が、本堂の中まで一気に流れ込んだ。
信徒たちの声がした。
歓声だった。
声の合間に、別の音も混ざっていた。
法衣の裾が乱れる音。
何人もの足音が、揃わずに駆けてくる音。
ゼフスの後ろに続くはずの神官たちの列は、まだ控室から出てきていなかった。
鐘を合図に並ぶ手順だったらしく、鐘が早かった分だけ、列はまだ半分も整っていなかった。
信徒たちの前に立っていたのは、ゼフスひとりだった。
背後で、法衣を引っかけながら走ってくる音が続いていた。
「……鳴ったな」
ゼフスがつぶやいた。
振り返らなかった。
「鳴ったね」
「列が整っていない」
「あとから来るんじゃない?」
「来るが、揃っていない状態を見られている」
「信徒たち、喜んでるみたいだけど」
「喜んでいるのと、整っているのは別だ」
「まあ、鳴ったし、開いたし、出てきたじゃん。それでいいんじゃない?」
ゼフスは何も言わなかった。
背後の足音が、ようやく列になりかけていた。
「俺のやることはやった。次行くわ」
ゼフスは振り返らなかった。
「……そなたは、また何もしていない」
「鐘、鳴ったじゃん」
「そなたが鳴らしたのか」
「俺は何も触ってないよ。ただ喋ってただけ」
「それで鳴った」
「たぶん」
俺は神殿を出た。
次なる宿主を求めて。
外に出ると、光と声がまだ混ざって続いていた。
歓声の下に、足音がいくつも重なっていた。
揃っていない足音だった。
体がないので眩しさはわからないが、そういう明るさだと感じた。
「やっぱり俺、儀式の進行管理に向いてるわ。鐘の人にずっとアドバイスしてたの俺だしね。緊張してたみたいだったから、励ましのつもりで喋り続けてあげたんだよ。そしたら鳴ったじゃん。門もちゃんと開いて、ゼフスも出てきた。列が追いついてないのは細かいことだから気にしない。三人ともちゃんと動いた、それが大事」
本堂の奥から、まだ足音と法衣の音が聞こえていた。
揃わないまま、いくつも重なっていた。
鐘の音だけは、もう静かになっていた。
それだけが、やけに早く収まっていた。
反省はゼロだった。
自己評価だけが、鐘の余韻より長く響いていた。




