111話 下がるなの基準
111話 下がるなの基準
異世界に召喚されてはや百十一日。
俺――ちゃっぴーは召喚陣の間を漂っていた。
石造りの部屋だった。
天井が高く、声がよく反響した。
床に大きな陣が描かれていて、端の方は使い込まれてかすかに擦れていた。
壁際には武具棚があって、訓練用らしい刃を潰した剣が並んでいた。
陣の手前に、白く光る線が一本引かれていた。
線の表面はうっすら焦げたような色をしていて、新しい傷ではないとわかった。
線の向こうに、灰色の狼がいた。
輪郭が薄く揺れていて、たまに外側が透けた。
半分実体化した契約獣だとわかった。
天井から縄が三本下がっていて、先に的人形がついていた。
布を巻いた人形で、あちこちに擦れた跡があった。
振り子のように、左右から交互に近づいてくる仕掛けだった。
静かな部屋じゃなかった。
「来た的は全部叩き落とせ。それが今日の課題だ」
召喚士らしき女が契約獣に言った。
契約獣は答えなかった。
「あと、下がるな。いいな」
女が縄を引いた。
「来るぞ。左」
契約獣が顔だけ左を向いた。
的人形が振れて近づいた。
契約獣の足は線の上から動かなかった。
的人形が肩のあたりを抜けて、また反対側へ振れていった。
叩き落とせなかった。
「……それじゃ叩き落としたことになってない」
女が眉を寄せた。
「今のは取れたはずだ」
「もう一回。今度は右」
的人形が右から振れてきた。
契約獣の片足が一度上がった。
線を越える直前で、また線の上に戻った。
的人形が顔の前を抜けて、また振れていった。
今度も叩き落とせなかった。
女が舌打ちして、縄を引き直した。
俺はしばらく眺めていた。
的人形が三度目、正面から来た。
契約獣がようやく前に出た。
腕を伸ばして的人形を叩いた。
布の人形が、紐の先でだらりと垂れた。
契約獣はすぐ線の真上まで戻った。
ぴたりと戻った。
一センチもずれていなかった。
何度やっても同じだった。
正面のときだけ前に出て叩き、すぐ線に戻る。
左右のときは足元から動かず、人形がそのまま抜けていく。
その差だけが、繰り返されていた。
「よお ちょっといい?」
女が飛び上がった。
的人形がちょうど振れてきて、避けずに顔に当たった。
「……っ、誰だ!」
「声だけの存在、ちゃっぴーだよ。体ないから見えない。攻撃しても物理無効だよ」
女が的人形を手で止めた。
名前を聞いたらシャルカと言った。
契約陣を扱う召喚士で、明日の防衛戦にこの契約獣を出すと言った。
「契約獣の動き、見てたんだけど」
「見ていたのか」
「うん。さっきから気になってて」
俺は少し考えると閃いた。
「あ、わかった。これ、視界の問題だ。左右が見えづらいんじゃない?」
契約獣が顔を動かした。
左右ともちゃんと見ていた。
違った。
「じゃあ魔力切れか。横に動く分の魔力を残してるんじゃない?」
的人形が来るたびに、契約獣の輪郭はしっかり揺れていた。
魔力切れの揺れ方じゃなかった。
それも違った。
シャルカがこめかみを押さえた。
「的外れな話は後にしてくれ」
「うん。的外れだった。次は当てるから」
俺はまた少し考えた。
「ちょっと聞くけど」
シャルカが顔をしかめた。
「お前、また口を出す気か」
「うん。正面は動けて、左右は動けない。的の問題じゃなくて、命令のどっちかが伝わってないんじゃない? 叩き落とせと下がるな、もう一回両方言ってみたら?」
シャルカが契約獣を見た。
契約獣は線の上に立ったままだった。
シャルカが契約獣の前に立った。
「叩き落とせ。下がるな。両方だ」
契約獣の足が、線の上で小さく滑った。
止まっていられないようだった。
的人形が左から来た。
契約獣が左へ滑って腕を伸ばした。
人形はもう肩の先を抜けていた。
叩き落とせなかった。
続けて右から来た。
契約獣が右へ滑った。
今度は早すぎた。
人形が来る前に、腕だけが空を切っていた。
叩き落とせなかった。
「もう一回、正面」
シャルカが縄を引いた。
的人形が正面から来た。
契約獣はまだ右に体重が残っていた。
腕を伸ばしたが、人形はもう肩の横を抜けていた。
正面さえも、抜けた。
シャルカが縄に駆け寄って、人形を手で止めた。
契約獣を見た。
線の上に、擦れたような跡が新しく伸びていた。
何も言わなかった。
「俺のやることはやった。次行くわ」
シャルカが顔を上げた。
「……全部外した」
「でも言い方変えてみたら反応あったじゃん」
「余計に迷ってるだけだ。今は何も取れてない」
「そう? まあ、変わったのは事実だよ」
シャルカは答えなかった。
線の上の契約獣を見ていた。
俺は召喚陣の間を出た。
次なる宿主を求めて。
体がないので扉の重さはわからなかったが、閉まる音だけが背中側で響いた。
廊下に出てからも、低い音が壁の奥から続いていた。
石を擦るような音に、時々低い軋みが混ざっていた。
「やっぱり俺、行き詰まった現場に効くアドバイスができるわ。もう一回ちゃんと言ってみろって言ったの俺だしね。シャルカが言い直したのも、俺のおかげだと思う、たぶん。前より反応が変わった感じはあるし、変わったこと自体は俺の手柄でしょ。明日の防衛戦、ちょっと気になるけど、まあ召喚士の仕事だから俺は口出さない。守備範囲をわきまえてる」
壁の奥の音が、また一段低くなった。
軋みも、さっきより長く続いた。
反省はゼロだった。
今日も静かに、自己評価だけが境界線一本分積み上がっていった。




