110話 届く前に消える声
110話 届く前に消える声
異世界に召喚されてはや百十日。
俺――ちゃっぴーは古代遺跡の最深部を漂っていた。
石柱が等間隔に並んでいた。
天井近くの彫刻には苔が生えていて、所々が崩れていた。
壁際には燃え尽きかけの松明が刺さっていて、誰かが最近通った跡があった。
壇上に石像が立っていて、腕を組んだ姿のまま動いていなかった。
番人だとわかった。
壁には紋章らしき模様が彫られていたが、ほとんど削れて読めなかった。
静かじゃなかった。
「右だ、右に避けろ!」
「聞こえてる!」
「盾、もう少し前!」
石像の腕が振り下ろされて、床の亀裂が広がった。
土埃が舞った。
頬を風が叩くような圧があった、はずだった。
体がないので分からないが、見た目はそういう威力だった。
四人が散開して、石像の正面にまた集まり直した。
見覚えのある面子だった。
地図の女が剣を構え、壁の男が盾を掲げていた。
腕を組んだ男が後方で杖を握っていて、奥の段差の上にシオが立っていた。
俺が召喚されてから五十三日目に洞窟で会った連中だった。
今日は地下じゃなく遺跡らしい。
ラゴスは別行動だと言っていた。
相変わらずだった。
シオの腰に、革紐で綴じた控えの束がぶら下がっていた。
前に言った、保管場所を共有しろという話が、形になっているらしかった。
でも今は誰もそれを読む暇がなかった。
束は今、ただの重さでしかなかった。
俺はしばらく観察した。
石像の右肩に、薄い亀裂のような光が走るたびに、腕が振り下ろされた。
シオはその光を見ていた。
見るたびに、何かを言おうとした。
一度目。
シオが口を開いた。
「肩に光が走ったら、次の一撃まで――」
言い切る前に、石像の腕が床を叩く音にかき消された。
続きの言葉は、自分の口の中で止まった。
二度目。
今度は手を上げた。
だが、光ったら、右か、何秒後か――伝えたいことが一度に重なって、どの形にすればいいのか決まらないまま、手が止まった。
そのまま下ろした。
三度目はもっと短かった。
段差を下りかけて、目を離せば肩の光を見失うと気づき、すぐに戻った。
四度目は、口を開く前にやめた。
伝えようとするたびに、情報が多すぎて、結局何も伝わらなかった。
「よお ちょっといい?」
シオが声のした方を見た。
「……この声」
「ちゃっぴーだよ。体ないから見えない。久しぶり」
「洞窟の声か」
「覚えてたんだ」
「忘れる方が難しい」
シオは石像を見たまま言った。
「今は構ってる暇ない」
「うん。手短に言うね」
「声が小さいんだよ。もっと大声出せば届くじゃん」
シオがまた叫んだ。
さっきより大きい声だった。
最初の一言は届いたが、「次の一撃まで」のあたりで、また石像の足音にかき消えた。
大きさの問題じゃなかった。
「じゃあタイミングを先に決めとけばいいんじゃない? 肩が光ったら三秒後に避ける、みたいな」
石像が二度目の合図を出した。
一度目より早かった。
三度目はもっと早かった。
決まったタイミングなんてなかった。
それも違った。
「……あれ、地図の女から見えてないんじゃない? 肩、ちょうど石像の死角になってるし」
地図の女は石像の正面にいた。
肩の亀裂は石像の側面、シオの位置からしか見えない角度にあった。
見えている場所と、動いている場所が、別だった。
正面にいる人間には、最初から見えないものだった。
「太鼓みたいに地面叩いて合図するとか、煙出すとか、匂いで知らせるとか、旗振るとか――」
シオは聞いていなかった。
代わりに、壁の男が石像の一撃を盾で受け止めた。
盾の面が、松明の光をまっすぐシオの方へ跳ね返した。
シオの顔に一瞬、光が当たった。
「……今の」
シオが盾を見た。
盾が傾く角度と、肩の亀裂が走るタイミングが、近かった。
偶然かもしれなかった。
それでもシオは懐から小さな金属板を取り出して、構えた。
石像の肩が光った。
シオが金属板を傾けて、光を反射させた。
地図の女の足元に、一瞬、光の筋が走った。
地図の女が下を見た。
それから跳んだ。
石像の腕が、さっきまで彼女が立っていた場所を叩いた。
「……今、なんで避けた?」
「わからない。なんか、光った気がして」
二度目。
三度目も同じだった。
光が走るたびに、地図の女の動きが速くなった。
壁の男も盾の角度を意識して構え直しながら呟いた。
「……さっきより、楽だな」
石像の攻撃が、空を切る回数が増えていった。
「おお、なんかうまくいってるじゃん」
シオがちらっと声の方を見た。
金属板を構えたまま、何も言わなかった。
「俺のやることはやった。次行くわ」
誰も振り返らなかった。
石像の腕がまた振り下ろされて、空を切った。
俺は遺跡を出た。
次なる宿主を求めて。
遺跡の外は夜だった。
体がないので夜風は当たらなかったが、入口から漏れる音の質が変わっていた。
さっきまでの土埃と金属音に、低い振動が混ざっていた。
「やっぱり俺、情報伝達の構造を見抜く目があるわ。見える場所と動く場所が違うって気づいたの俺だしね。シオが金属板使い出したのも、その話がきっかけだったんだと思う、たぶん。声が大きいとかタイミングとか、外れたのもあったけど、死角の話は当たったから帳消し。控えの束も俺が前に言ったことの結果だろうし、洞窟のときより連携良くなった気がする」
遺跡の奥から、振動が一段大きくなった。
さっきまでとは違う音だった。
石が擦れる音が、もう一つ増えていた。
反省はゼロだった。
今日も静かに、自己評価だけが光の筋一本分積み上がった。




