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106話 言葉になる前

106話 言葉になる前

 

 

 

異世界に召喚されてはや百六日。

 

俺――ちゃっぴーは洞窟を漂っていた。

 

 

 

岩壁の奥から、水音が聞こえていた。

 

水が岩肌をつたいながら、洞窟の低い場所に溜まり続けていた。

 

水面は黒く、岩肌に映る光が揺れていた。

 

 

 

静かな洞窟だった。

 

静かなはずだった。

 

 

 

水際に、小さな光がいくつも浮いていた。

 

精霊だとわかった。

 

水面の近くに集まって、せわしなく動き回っていた。

 

 

 

光の群れの奥、洞窟の最奥に、大きな影が伏せていた。

 

鱗が黒く、岩と区別がつかないくらい大きかった。

 

古代竜だった。

 

昨日、山で会ったヴェルダだと声を聞く前からわかった。

 

 

 

俺はしばらく眺めていた。

 

精霊の一体が水際まで飛んで、両手を水に向けて構えた。

 

何かを唱えようとして、止まった。

 

奥のヴェルダの方をちらりと見て、また手を下ろした。

 

別の精霊が同じことをした。

 

構えて、止まって、見て、下ろした。

 

その中の一体が、水際の壁に軽く触れた。

 

こん、と僅かな低い音が返った。

 

壁の向こうに、空洞があるような響き方だった。

 

何体かが同じ動きを繰り返した末、誰も水に触れなかった。

 

 

 

ヴェルダが顔を上げた。

 

口を開きかけて、また閉じた。

 

壁に残る染みの位置を、目だけで追っていた。

 

染みは水面の高さを示す跡だったが、よく見ると一本の細い筋が壁の奥へ伸びていた。

 

ひびのようなものだった。

 

前脚をわずかに浮かせて、壁の方へ近づけた。

 

触れる直前で、また下ろした。

 

もう一度、口を開きかけて閉じた。

 

それを何度か繰り返した。

 

言葉になる前のところで、止まっていた。

 

 

 

精霊の一体が水際から離れて、ヴェルダの方へ飛んでいきかけた。

 

けれど、途中で引き返した。

 

別の精霊も同じように飛びかけて、途中で引き返した。

 

近づこうとして、近づけない動きだった。

 

 

 

似たような動きが、何度も繰り返されていた。

 

構える。

 

止まる。

 

見る。

 

戻る。

 

それだけが、水音の合間に積み重なっていた。

 

水面は、その間も静かに上がっていた。

 

 

 

俺の最初の見立ては「長寿種同士の昔話」だった。

 

ヴェルダは長く生きてる。

 

精霊がどうなのかは知らないが、似た空気を出していた。

 

長く生きてると昔話を始めたら止まらないって聞いたことがある。

 

だから誰も動かないんだと思った。

 

 

 

次に思ったのは「誰も排水を思いついていない」だった。

 

水が溜まってるのに、誰も外に流す方法を考えてない。

 

それなら俺が言ってあげればいい話だと思った。

 

俺はそう決めた。

 

 

 

「よお。ちょっといい?」

 

精霊たちが一斉にこちらを見た。

 

ヴェルダが片目だけ動かした。

 

「声だけの存在、ちゃっぴーだよ。昨日、山で会ったよね」

 

「……来たか」

 

「水溜まってるじゃん。なんで誰も動かないの?」

 

「悠長に構えているわけではない」

 

ヴェルダが口を開いたのと同時に、精霊の一体も答えた。

 

「急いでいるのに、何も変わらないんです」

 

二つの声が重なって、噛み合っていなかった。

 

「……ていうか、二人とも同じこと話してるはずなのに、全然違う話に聞こえるんだけど」

 

 

 

返事はなかった。

 

ヴェルダは壁の染みを見ていた。

 

精霊たちは水面を見ていた。

 

見ている場所が、もう違っていた。

 

 

 

「まあいいや。それより会議の進め方が良くないと思う。誰か一人が発言して、それに対して反応する、っていう順番が決まってないから、みんな様子見になってるんだよ。進行役を決めないと止まるんだよね」

 

精霊の一体が、また水際で手を構えた。

 

止まった。

 

「あと話し合いの整理もできてない。論点を一つに絞らないと、誰が何を待ってるのか分からなくなる。今ここで決めることを先に宣言した方がいいよ」

 

ヴェルダが口を開きかけて、また閉じた。

 

「あとこれは前から思ってたんだけど、長寿種同士の意思疎通って独自の理論が必要だと思うんだよね。長く生きてる分、時間の感覚が他と違うわけじゃん。だから共通の単位を最初に決めた方がいい。一日を基準にするか、千年を基準にするか、それだけで話の進み方が全然変わってくるはずで――」

 

「うるさい」

 

ヴェルダが低く言った。

 

精霊たちが一斉に体を縮めた。

 

静かになった。

 

水音だけが残った。

 

 

 

水面が、わずかに上がって、壁のひびに触れた。

 

そこだけ色が変わった。

 

 

 

「もういい」

 

ヴェルダがそう言って、首を持ち上げた。

 

水際の壁、染みのある場所を見据えた。

 

今度は口を閉じなかった。

 

低く唸ると、前脚が持ち上げられた。

 

次の瞬間には、その前脚が壁に叩きつけられていた。

 

 

 

岩が砕けた。

 

砕けた向こうに、もう一枚の岩盤があった。

 

それも巻き込まれて崩れた。

 

洞窟の壁の一部が、丸ごと消えた。

 

 

 

次に水が動いた。

 

溜まっていた水が、崩れた壁の向こうへ一気に流れ込んでいった。

 

渦を巻きながら、底へ消えていった。

 

 

 

その次には水面が下がり始めた。

 

見ている間に、どんどん下がった。

 

やがて、さっきまで満ちていた水際が、ただの乾いた岩肌に変わっていた。

 

 

 

壁の向こうは、下まで続く縦穴になっていた。

 

さっきのひびが、そのまま縦穴の縁に繋がっていた。

 

覗き込んでも底が見えないくらい深かった。

 

精霊たちが水際から離れて、縦穴を見下ろした。

 

誰も声を出さなかった。

 

 

 

「俺のやることはやった。次行くわ」

 

ヴェルダがこちらを見た。

 

「お前の理論のおかげではない」

 

「え、そう?」

 

「お前がうるさかったから、黙らせるために動いた」

 

「……それでも結果出てるじゃん」

 

 

 

ヴェルダは何も言わなかった。

 

精霊の一体が縦穴に向かって何か呟いた。

 

別の精霊が、それに違う言葉で答えた。

 

噛み合っているようには見えなかった。

 

 

 

俺は洞窟を出た。

 

次なる宿主を求めて。

 

 

 

外に出ると、洞窟の入口から風が吹き出していた。

 

さっきまでなかった風だった。

 

地の底から押し上げてくるような、低く長い音を伴っていた。

 

「やっぱり俺、長寿種向けの意思疎通論、当たってたわ。共通の単位の話をした直後にヴェルダが動いたんだから、トリガーは俺でしょ。黙らせるためって言ってたけど、結果的に同じことだよ。水も消えたし、縦穴も完成したし、これもう俺の功績でいいでしょ」

 

 

 

遠くで、低い音が響いた。

 

洞窟の奥、さっきまで届かなかった深さから、何かが軋むような音だった。

 

風が一段強くなって、地面が小さく震えた。

 

山の底のどこかで、長い間眠っていたものが、わずかに動き出したような気配だった。

 

 

 

反省はゼロだった。

 

自己評価だけが、縦穴の深さ分、静かに積み上がっていった。

 

 

 

 

 


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