第八話 世界遺産という宝物
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
七月十八日、日曜日。
京都旅行、二日目。
ホテルのロビーに降りると、すでに藤宮さんが待っていた。
「おはようございます! 悠真さん!」
「おはようございます、藤宮さん」
「昨日はよく眠れました?」
「ええ。おかげさまで」
昨日は清水寺を出たあと、無理に観光を続けることはせず、夕食を済ませてホテルに戻った。
朝から歩き回っていたこともあり、部屋に入ってからは、ほとんど何もせずに眠ってしまった。
それでも、今朝は身体が少し重い。
普段、どれだけ運動していないのか思い知らされる。
「藤宮さんは元気ですね」
「もちろんです! 今日は二日目ですから!」
「……三日目になったら、さらに元気になりそうですね」
「あはは! どうでしょう!」
藤宮さんは楽しそうに笑った。
「それじゃあ、行きましょうか!」
「はい。今日は二条城でしたね」
「そうです! 昨日、清水寺でお話しした世界遺産ですよ!」
二条城。
徳川家康に関係する城だということは知っている。
それに、大政奉還が行われた場所としても有名だったはずだ。
ただ、それ以上の知識はない。
「そういえば、藤宮さん」
「はい?」
「二条城って、天守閣はあるんですか?」
「今はないですよ!」
「……ないんですか?」
「はい! でも、見どころはたくさんありますから!」
城といえば天守閣。
そんなイメージを持っていた俺には、少し意外だった。
「まあ、行けばわかりますよ!」
「……それ、昨日も聞いたような」
「ふふっ、気のせいです!」
どうやら、詳しく説明するつもりはないらしい。
俺たちは地下鉄を利用し、二条城へ向かった。
◇
「……ああ、なるほど」
地下鉄の二条城前駅から地上へ出ると、目の前には高い石垣と堀が広がっていた。
道路の向こうに、立派な門が見える。
「ここが二条城です!」
「確かに、お城ですね」
「何だと思ってたんですか?」
「天守閣がないと聞いたので、もっと普通の建物かと」
「そんなわけないじゃないですか!」
藤宮さんが笑った。
堀には水がたたえられ、その向こうには石垣が続いている。
城の周囲を見渡すと、想像していたよりも広いことがわかった。
「……ところで、ここは何区なんですか?」
「中京区ですよ!」
「中京区……」
昨日訪れた清水寺は東山区だった。
同じ京都市内でも、場所によって街並みが随分と違う。
「京都市の中心部に、こんな大きな城があるんですね」
「昔から重要な場所だったんですよ!」
二人で入口へ向かう。
東大手門を通り、城内へ足を踏み入れた。
広い通路。
整えられた木々。
そして、奥へと続く石垣。
「……敷地が広いですね」
「そうでしょう!」
藤宮さんが案内図を確認する。
「まずは二の丸御殿を見ましょう!」
「二の丸御殿?」
「はい! 二条城の一番有名な見どころの一つですよ!」
俺も案内図を覗き込んだ。
二の丸。
本丸。
二の丸庭園。
いくつもの建物や庭園が描かれている。
「……本丸と二の丸って、違うんですね」
「そうですよ! お城は天守閣だけじゃないですから!」
なるほど。
どうやら、俺が思っている以上に、城にはさまざまな施設があるらしい。
◇
「……おお」
二の丸御殿へ向かう途中、ひときわ豪華な門が現れた。
屋根の下には色鮮やかな彫刻が施され、細部まで装飾されている。
「これ、すごいですね」
「唐門ですよ!」
「からもん……」
「二の丸御殿の正門なんです!」
藤宮さんが指さした先には、鶴や植物をかたどった装飾が見えた。
金色に輝く部分もあり、先ほど見た石垣とはまったく違う印象を受ける。
「……お城の門というより、お寺の門みたいですね」
「確かに、そう見えるかもしれませんね!」
俺は少し離れた場所から門を眺めた。
石垣や堀は、敵の侵入を防ぐためのものなのだろう。
しかし、この門は違う。
防御だけを考えるなら、これほど細かな装飾は必要ないはずだ。
「……どうして、こんなに豪華にしたんでしょうね」
「将軍の力を見せる意味もあったんじゃないですか?」
「力を?」
「はい! ここに来た人たちに、徳川家のすごさを感じてもらうんです!」
そう言われて、もう一度門を見上げる。
確かに、これほど立派な建物を見せられれば、相当な財力と権力があることは伝わるだろう。
「……建物そのものが、権力を示しているわけですか」
「そういう見方もできますね!」
城は敵から身を守るためだけの場所ではない。
人を迎え、政治を行い、権威を示す役割もあったのかもしれない。
そんなことを考えながら、俺は唐門をくぐった。
◇
「……これが二の丸御殿ですか」
目の前には、長く連なる木造建築が広がっていた。
大きな屋根。
重厚な柱。
そして、落ち着いた色合いの外観。
先ほどの唐門とは対照的だった。
「二の丸御殿は国宝なんですよ!」
「国宝?」
「はい! 建物そのものが指定されているんです!」
国宝。
教科書やニュースで聞いたことはあるが、実際に訪れる機会はなかった。
「中に入れるんですか?」
「もちろんです! ただし、写真撮影は禁止ですから気をつけてくださいね!」
「わかりました」
案内に従って靴を脱ぎ、御殿の中へ入る。
すると、まず目に飛び込んできたのは、大きな襖絵だった。
「……虎?」
そこには、力強い虎が描かれていた。
金色を基調とした空間に、堂々とした姿が浮かび上がっている。
「すごい迫力ですね」
「ここは遠侍という建物で、来訪者が控える場所だったんですよ!」
「待合室みたいなものですか?」
「簡単に言えば、そうですね!」
それにしては、随分と豪華な待合室だ。
俺は絵を眺めながら、ふと考える。
将軍に会うためにやってきた人間が、最初に通される場所。
そこで、これほど迫力のある虎の絵を見せられる。
「……これ、待っている間に緊張しそうですね」
「ふふっ、確かに!」
「相手の権威を感じさせるには、効果的かもしれません」
藤宮さんが頷いた。
絵そのものが美しいだけではない。
どの部屋に、どんな絵を飾るのか。
そこにも意味があるのだろう。
俺たちは順路に従って奥へ進んだ。
◇
キュッ。
「……ん?」
廊下を歩いていると、足元から小さな音が聞こえた。
キュッ、キュッ。
後ろから歩いてくる人の足音に合わせて、同じような音が鳴る。
「……何の音ですか?」
「あっ、気づきました?」
藤宮さんが嬉しそうにこちらを見た。
「鶯張りですよ!」
「うぐいすばり?」
「歩くと、鳥の鳴き声みたいな音がするんです!」
言われてみれば、確かに鳥の声に似ている。
廊下を進むたび、床が独特の音を立てた。
「……面白い仕組みですね」
近くの説明を確認する。
床板を支える金具と釘がこすれ合うことで、音が発生するらしい。
「こういう構造になっているんですか」
「昔の建物って、不思議な工夫がありますよね!」
「ええ。今の建物とは、随分と違いますね」
俺は足元を見つめた。
外から眺めているだけでは、こんな音が鳴ることなどわからない。
建物の中に入って、初めて気づくこともあるらしい。
そんなことを考えているうちに、次の部屋が見えてきた。
◇
「……広いですね」
大広間。
その名のとおり、広々とした空間だった。
金色を背景に大きな松が描かれ、柱や欄間にも細かな装飾が施されている。
部屋の奥には、一段高くなった場所があった。
「あそこに将軍が座ったんですか?」
「そうですよ!」
藤宮さんが小さく頷く。
俺たちは説明を読みながら、部屋を眺めた。
将軍が座る一の間。
大名たちが控える二の間。
その間には、明確な位置の違いがあった。
「……座る場所まで決まっているんですね」
「身分や立場が重要な時代ですからね」
「確かに」
会社でも、会議や式典では席順を決めることがある。
上座や下座。
来賓の席。
役職による配置。
もちろん、現代の会社と江戸時代の将軍を同じにするつもりはない。
だが、人をどこに座らせるかということが、社会的な立場を示す点では共通している。
「……この部屋で、いろいろな政治の話が行われていたんでしょうね」
「そうですね!」
藤宮さんが説明を指さした。
「それに、ここは大政奉還でも有名なんですよ!」
「ああ、そうでしたね」
大政奉還。
歴史の授業で習った言葉だ。
「確か、徳川慶喜が政権を朝廷へ返したんでしたっけ?」
「そうです! 十五代将軍の徳川慶喜ですね!」
「……それが、ここで?」
「慶喜が大政奉還の意思を表明した場所として知られているんです!」
俺は改めて大広間を見渡した。
さっきまで、豪華な部屋だと思って眺めていた。
しかし、ここが日本の歴史の転換点に関わった場所だと知ると、印象が変わる。
「……何年のことでしたっけ?」
「一八六七年ですよ!」
「江戸時代の終わり頃ですね」
説明には、徳川家康によって二条城が築かれたのは一六〇三年と書かれていた。
そして、一八六七年。
徳川家による幕府政治が終わりへ向かう中、この場所で大政奉還の意思が表明された。
「……ずっと徳川家に関わってきた城なんですね」
「そうなんですよ!」
始まりの将軍、徳川家康。
そして、最後の将軍、徳川慶喜。
二人の名が、同じ城の歴史に登場している。
俺はもう一度、大広間へ目を向けた。
長い年月の中で、ここにどれほどの人々が集まったのだろう。
どんな会話が交わされ、どんな決断が下されたのだろう。
当時の様子を正確に想像することはできない。
それでも、この場所で日本の政治が大きく動いたという事実だけは、確かに伝わってきた。
「……学校で習ったときとは、印象が違いますね」
「どうしてです?」
「大政奉還って、今までは単なる歴史用語だったので」
俺は少し考え、言葉を続けた。
「でも、実際にその出来事に関わった場所へ来ると、ちゃんと現実に起こったことなんだなと思います」
藤宮さんは、しばらく大広間を眺めていた。
「……そうですね」
やがて、小さく微笑む。
「私も、そういうところが好きなんです」
その声は、いつもより少し落ち着いていた。
◇
二の丸御殿の見学を終え、外へ出る。
再び夏の日差しが降り注いだ。
「……外は暑いですね」
「建物の中とは大違いですね!」
御殿の中で見た襖絵や装飾は、写真には残せなかった。
だが、不思議と細かな部分まで覚えている。
「悠真さん、写真は撮れなくて残念でした?」
「いえ。説明を読むのに集中できたので、これはこれでよかったです」
「そうですか!」
「それに、外なら撮影できる場所もありますから」
「そうですね! じゃあ、庭園へ行きましょう!」
藤宮さんが案内図を確認する。
次に向かうのは、二の丸庭園だった。
◇
「……綺麗ですね」
庭園へ入ると、池を中心に石や木々が配置された景色が広がっていた。
水面には緑が映り込み、池の中には島のような場所もある。
建物の中とは、まったく違う雰囲気だった。
「ここも有名な庭園なんですよ!」
「確かに、よく手入れされていますね」
「特別名勝に指定されているんです!」
「……特別名勝?」
初めて聞く言葉だ。
「名勝というのは、景色の美しい場所などに関係する文化財の指定なんですよ!」
「その中でも、特に価値の高いものが特別名勝、ということですか?」
「そうですね!」
俺は近くの案内を確認した。
二の丸庭園。
江戸時代、後水尾天皇の行幸に合わせて改修された庭園だという。
「……後水尾天皇?」
「江戸時代の天皇ですよ!」
「天皇が二条城に来たんですか?」
「はい! 当時の将軍は徳川家光でした!」
説明を読むと、庭園は複数の建物から眺めることを考えて造られたらしい。
「……見る場所によって、景色が変わるんですね」
「そうなんですよ!」
俺は少し場所を移動して、もう一度庭園を眺めた。
先ほどは重なって見えていた石が、今度は離れて見える。
池の形も違って感じられた。
「……ああ、本当だ」
「何がです?」
「角度を変えると、見え方が変わりますね」
藤宮さんも隣へ並ぶ。
「こうして庭を見るのも面白いですね!」
「ええ。計算して配置したんでしょうね」
大きな石。
池。
木々。
建物から見たときに、それぞれがどのように見えるのか。
庭園を造った人たちは、そんなことまで考えていたのだろうか。
「……庭って、ただ木を植えるだけじゃないんですね」
「そうですね!」
俺はもう一度、庭園を眺めた。
清水寺では、山の斜面に建てられた舞台の構造に驚いた。
二条城では、建物の配置や装飾、そして庭園にも、当時の人々の考えが表れている。
同じ京都でも、見る場所によって随分と違うものだ。
◇
「そういえば、悠真さん」
庭園を一通り見終えたところで、藤宮さんが声をかけてきた。
「昨日、清水寺で世界遺産を調べましたよね?」
「ええ。古都京都の文化財でしたね」
「覚えてたんですね!」
「昨日のことですから」
「ふふっ、そうでした!」
俺はスマートフォンを取り出した。
昨日確認した世界遺産の一覧を、もう一度開く。
そこには、清水寺と二条城の名前が並んでいた。
「……こうして見ると、随分と違いますね」
「何がです?」
「清水寺と二条城です」
俺は画面を藤宮さんに見せた。
「片方はお寺で、もう片方はお城ですよね」
「そうですね!」
「建てられた目的も、使われ方も違う。それなのに、同じ世界遺産として登録されているんですね」
藤宮さんは画面を覗き込んだ。
「そうなんですよ! 京都にはいろいろな時代の文化財が残っていますから!」
「……なるほど」
清水寺は、長い間信仰の場として受け継がれてきた。
二条城は、徳川家の権力や政治の歴史と深く関わっている。
それぞれに違った役割があり、違った歴史がある。
「……古都京都の文化財、という名前の意味が少しわかった気がします」
「どういうことです?」
「京都という街の歴史を、一つの建物だけで表すことはできないんでしょうね」
藤宮さんが目を丸くした。
「……悠真さん」
「はい?」
「いいこと言いますね!」
「……そうですか?」
「はい!」
彼女は嬉しそうに笑った。
「お寺も神社もお城も、それぞれ違った歴史を持ってますから!」
俺は画面を閉じ、目の前の庭園を見渡した。
昨日の清水寺。
今日の二条城。
同じ世界遺産の構成資産でありながら、そこで見たものはまったく違っていた。
それなら、ほかの場所はどうなのだろう。
そんな疑問が浮かんだ。
「……藤宮さん」
「はい?」
「ほかの世界遺産も、こんなに違うものなんですか?」
「もちろんです!」
即答だった。
「自然の景色が登録されているところもありますし、建物だけじゃなくて、いろいろなものがありますよ!」
「……へえ」
「気になります?」
「少し」
藤宮さんが満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ、いつか見に行きましょう!」
「……また旅行の話ですか?」
「だって、行かないと見られませんから!」
それは確かにそうだ。
俺は思わず苦笑した。
◇
二条城の見学を終え、俺たちは城の外へ向かった。
帰り道、藤宮さんが唐門の前で足を止める。
「あっ、悠真さん!」
「はい?」
「写真、撮っておきません?」
「ああ、いいですね」
俺はスマートフォンを取り出した。
昨日の清水寺では、藤宮さんに誘われて二人で記念写真を撮った。
今日は、俺の方から彼女へ声をかける。
「藤宮さん、せっかくなので、ここで一枚どうですか?」
「……えっ?」
彼女が少し驚いたようにこちらを見た。
「どうしました?」
「いえ! 悠真さんから誘ってくれるとは思わなくて!」
「……写真くらい、別に構わないでしょう」
「そうですね!」
藤宮さんは嬉しそうに隣へ並んだ。
周囲の人の通行を妨げない場所を選び、唐門を背景に画面を調整する。
「じゃあ、撮りますよ」
「はーい!」
シャッター音が鳴った。
画面には、唐門を背景に並ぶ二人の姿が写っていた。
「……あれ?」
藤宮さんが画面を覗き込む。
「どうしました?」
「悠真さん、昨日より自然に笑ってますね!」
「……そうですか?」
「はい!」
改めて写真を見る。
確かに、昨日ほど顔が固くない気がする。
「……慣れたんじゃないですか?」
「ふふっ、そうかもしれませんね!」
彼女は満足そうに微笑んだ。
「じゃあ、私にも送ってください!」
「わかりました」
写真を送信し、スマートフォンをしまう。
ふと振り返ると、唐門の奥に二の丸御殿が見えた。
徳川家康が築いた城。
徳川慶喜が大政奉還の意思を表明した場所。
その歴史を、つい先ほどまで俺たちは見学していた。
「……不思議ですね」
「何がです?」
「昔の将軍がいた場所に、今は普通に観光客が入れるなんて」
「ああ、確かに!」
「当時の人たちは、こんな未来を想像できたんでしょうか」
藤宮さんは少し考えてから、首を傾げた。
「どうでしょうねえ」
「……まあ、わかりませんよね」
「でも、こうして残してくれたおかげで、私たちは見ることができるんですよね!」
俺はもう一度、御殿へ目を向けた。
確かに、そうだ。
もし、この場所が失われていたら。
今日、俺たちが見た景色も、聞いた音も、残ってはいなかっただろう。
「……大切に残していかないといけないんでしょうね」
「そうですね!」
藤宮さんが静かに頷いた。
俺たちは二条城を後にした。
◇
外へ出ると、京都の街にはいつものように車が走り、人々が行き交っていた。
高いビル。
商店。
信号待ちをする人々。
そのすぐ後ろには、何百年もの歴史を持つ城がある。
俺は少しだけ振り返った。
「……悠真さん?」
「いえ、何でもありません」
視線を戻す。
昨日は祇園祭。
今日は二条城。
同じ京都にいながら、まったく違うものを見ている。
明日は旅行の最終日だ。
この街には、まだ知らない場所がいくつもあるのだろう。
「さて、次はどちらへ?」
俺が尋ねると、藤宮さんが嬉しそうにスマートフォンを取り出した。
「ふふふ、実はもう一つ、行ってみたいところがあるんです!」
「……また歩きますか?」
「少しだけです!」
「……その言葉は、あまり信用していませんよ」
「あはは! ひどい!」
笑いながら、藤宮さんが地図を見せてくる。
俺はその隣で、次の目的地を確認した。
京都旅行、二日目。
まだ時間は残っている。
さて、次は何を見られるのだろう。
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