第四話 そうだ、京都へ行こう
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
七月十七日、土曜日。
午前五時。
「……眠い」
スマートフォンのアラームを止め、布団から身体を起こした。
普段なら、休日にこんな時間から起きることはない。
だが、今日は京都へ旅行に行く日だ。
しかも、つい先日まで赤の他人だった女性と。
「……改めて考えると、変な話だな」
顔を洗い、朝食を済ませ、着替える。
昨晩まとめておいた荷物を、最後にもう一度確認した。
財布、スマートフォン、モバイルバッテリー、着替え、折り畳み傘。
藤宮さんから教えてもらった持ち物も、忘れずに入れてある。
「……よし」
戸締まりを確認し、家を出た。
まだ朝早いというのに、外は既に蒸し暑い。
今日は随分と暑くなりそうだ。
そんなことを考えながら、名古屋駅へ向かった。
◇
「悠真さーん!」
名古屋駅の待ち合わせ場所に到着すると、聞き覚えのある声が響いた。
視線を向けると、大きなリュックサックを背負った藤宮さんが手を振っていた。
初めて出会ったときと同じ、元気いっぱいの姿だ。
ただし、今日は段ボールを持っていない。
「おはようございます、藤宮さん」
「おはようございます! いよいよですね!」
「そうですね。無事に着ければいいんですが」
「そこは大丈夫ですよ! 新幹線も予約してますし!」
「まあ、そうですね」
藤宮さんは俺の顔を覗き込んだ。
「あれ? 眠そうですね?」
「五時起きでしたから」
「私は楽しみで四時間しか寝られませんでした!」
「……もう少し寝た方がいいですよ」
「旅行の日って、わくわくするじゃないですか!」
「小学生ですか」
「よく言われます!」
よく言われるのか。
それはそれで問題な気がする。
「それじゃあ、行きましょう!」
「はい」
二人で新幹線の改札へ向かう。
今日から三日間。
俺にとっては、久しぶりの観光旅行だ。
どんな三日間になるのか、今はまだ想像もつかない。
◇
新幹線に乗り込むと、藤宮さんは早速窓側の席に腰を下ろした。
「新幹線って、何度乗ってもわくわくしますよね!」
「そうですか?」
「はい! これから遠くへ行くんだなあって!」
俺は隣の座席に荷物を置き、予約内容を確認する。
列車も座席も間違いない。
しばらくすると、発車を知らせる案内が流れた。
新幹線がゆっくりと動き出す。
駅のホームが後方へ流れ、徐々に速度が上がっていった。
「……速いですね」
「新幹線ですから!」
「それはそうなんですが」
普段は車ばかり使っているため、窓の外を流れる景色が新鮮だった。
建物が並んでいたかと思えば、やがて田畑が広がる。
遠くに山が見え、川を渡る。
地図で見れば、名古屋から京都まで一本の線でつながっている。
だが、その間にも街があり、人々の生活がある。
当たり前のことなのに、実際に移動していると妙に気になった。
「藤宮さんは、いつも新幹線を使うんですか?」
「いえ! 高速バスも在来線も使いますよ! 行き先と予定次第ですね!」
「今回は祇園祭があるから新幹線、でしたね」
「そうです! せっかくなら山鉾巡行を見たいですから!」
今回の旅行で、彼女が一番楽しみにしているもの。
山鉾巡行。
写真で見た巨大な山鉾が、実際に街を進んでいく光景。
俺も少し興味がある。
「ところで、京都って新幹線だと大阪の手前でしたよね?」
「はい! 名古屋から向かうと、京都の次が新大阪です!」
「そうでしたね」
予約するときにも確認したが、実際に乗っていると駅の位置関係を意識する。
名古屋。
京都。
新大阪。
今まで俺の頭の中では、それぞれ別の場所として存在していた。
それが今、一つの路線でつながっている。
「……地図で見るのとは違いますね」
「でしょう!?」
藤宮さんが嬉しそうに笑った。
「でも、まだまだですよ! 京都に着いたら、もっと面白いものが見られますから!」
「それは楽しみです」
そう答えると、彼女は少し驚いたような顔をした。
「……悠真さん」
「何ですか?」
「今、普通に楽しみって言いましたね!」
「……言いましたけど」
「ふふっ、何でもありません!」
何だろう。
どうにも、俺が旅行を楽しみにすることが嬉しいらしい。
そんな彼女を横目に、俺は再び車窓へ視線を向けた。
◇
「京都に着きましたよー!」
藤宮さんに続いて新幹線を降りる。
京都駅。
名前は知っていたが、実際に降り立つのは初めてだった。
ホームには大勢の人がいる。
キャリーケースを引く旅行客。
大きな荷物を背負った人。
外国語で会話する人たち。
「……人が多いですね」
「今日は祇園祭ですからね!」
改札へ向かいながら、構内の案内表示を確認する。
JRの在来線。
近鉄線。
京都市営地下鉄。
さまざまな路線が乗り入れている。
「近鉄って、奈良方面にも行けるんですよね?」
「そうですよ! 日帰りで奈良観光をする人もいます!」
「京都から奈良まで行けるんですか」
「はい! 電車で移動できますよ!」
そう言われ、スマートフォンで地図を開いた。
京都、大阪、奈良。
名前は知っているが、それぞれの位置関係は曖昧だった。
画面を拡大し、周辺の府県を確認する。
「……ああ、こうなっているんですね」
「何を見てるんですか?」
「京都府の位置です。大阪府や滋賀県と接しているんですね」
「そうですよ! それに、京都府には海もありますから!」
「……海?」
思わず顔を上げた。
「京都って、海があるんですか?」
「ありますよ! 北側は日本海に面してます!」
改めて地図を見る。
京都市から北へ視線を移すと、確かに京都府の先に日本海が広がっていた。
「……本当だ」
「北の方には天橋立っていう有名な景勝地もあるんですよ!」
「天橋立?」
「日本三景の一つです!」
日本三景。
その言葉は知っている。
ただ、三つすべてを答えろと言われたら、正直自信がない。
「それも京都府なんですね」
「そうなんです! 京都って、お寺や神社だけじゃないんですよ!」
京都府。
京都市。
日本海。
天橋立。
それぞれの言葉は聞いたことがあっても、こうして位置を確認したことはなかった。
「……少し意外でした」
「ふふっ、こういう発見も旅行の楽しみですよ!」
確かに、実際に京都へ来なければ、わざわざ地図を開いて調べることもなかっただろう。
「さて! 今日は京都市内を楽しみましょう!」
「はい」
地図を閉じ、藤宮さんの後に続いた。
◇
駅の外へ出ると、巨大な建物が目に入った。
「……これが京都駅ですか」
「そうですよ!」
目の前には、ガラスや鉄骨を使った近代的な駅舎が広がっている。
正直、少し意外だった。
「京都って、古い建物ばかりのイメージでした」
「そんなことないですよ! 普通に人が暮らしている街ですから!」
「……まあ、それはそうですよね」
言われてみれば当然だ。
歴史のある街だからといって、すべての建物が昔のままというわけではない。
駅前には大きな建物が並び、車が行き交い、観光客だけでなく地元の人々も歩いている。
ここには、普段の生活があるのだ。
「それじゃあ、そろそろ移動しましょうか!」
「山鉾巡行ですね」
「はい! もう始まってますから、急ぎましょう!」
藤宮さんがスマートフォンで地図を確認する。
「今回は地下鉄で移動します!」
「バスではないんですか?」
「今日は交通規制がありますし、道路も混んでますからね!」
「それなら地下鉄の方がよさそうですね」
大勢の人が集まる祭りでは、普段どおりに道路を移動できるとは限らない。
地上の混雑を考えれば、地下鉄で近くまで向かうという判断は納得できる。
「では、案内をお願いします」
「任せてください!」
藤宮さんが嬉しそうに胸を張った。
こういうとき、京都に来た経験のある彼女は頼もしい。
俺一人だったら、地下鉄の路線図とにらめっこしていたことだろう。
◇
地下鉄を降り、地上へ出た。
途端に、蒸し暑い空気が身体を包む。
「……暑い」
「京都の夏ですからねえ!」
烏丸御池駅から御池通へ向かうと、周囲の雰囲気が変わった。
歩道には大勢の観覧客が集まり、警備員が人々を誘導している。
遠くには、祭りの関係者らしい衣装を着た人たちの姿も見えた。
「すごい賑わいですね」
「今日は山鉾巡行ですから!」
藤宮さんは周囲を見渡しながら、進む方向を確認していた。
「先頭の山鉾はもう通り過ぎていますけど、後続が見られそうですね!」
「よかったです」
ここまで来て、何も見られなかったら残念だ。
彼女に続いて歩いていると、古い町家のような建物が目に入った。
その隣には近代的なビルが建っている。
さらに先には飲食店や商店が並び、人々が行き交っていた。
「……面白い街並みですね」
「そうですか?」
「古い建物と新しい建物が、普通に並んでいるので」
「ああ、確かにそうですね!」
先ほど見た京都駅もそうだ。
昔の建物だけが残っているわけではない。
長い歴史の中で、新しいものが加わりながら街が続いてきたのだろう。
「そういえば、京都が都になったのは七九四年でしたっけ?」
「はい! 桓武天皇が平安京に都を移したんですよ!」
「ああ、鳴くよウグイス平安京、ですね」
「懐かしいですね!」
学校で習った語呂合わせだ。
まさか、こんなところで思い出すことになるとは思わなかった。
千年以上前に都が置かれた街。
その中を、今こうして自分が歩いている。
そう考えると、目の前の景色も少し違って見えた。
「あっ!」
突然、藤宮さんが足を止めた。
「どうしました?」
「悠真さん、聞こえませんか?」
「……何がです?」
彼女が耳を澄ませる。
俺も立ち止まり、周囲の音に意識を向けた。
観覧客の話し声。
足音。
警備員の案内。
その向こうから、何かが聞こえる。
コンチキチン。
コンチキチン。
「……ん?」
独特の音色だった。
金属を打ち鳴らすような音に、笛の音が重なっている。
規則的なようで、聞き慣れない調子。
不思議と耳に残る。
「これが祇園囃子ですよ!」
「祇園囃子?」
「はい! 祇園祭で演奏されるお囃子です!」
藤宮さんの声が弾む。
「さあ、行きましょう!」
人の流れに沿って歩き始める。
進むにつれて、お囃子の音が大きくなっていった。
やがて、建物の向こうに何かが見えた。
高く伸びる柱。
色鮮やかな装飾。
その周囲を取り囲む、大勢の人々。
「……あれは」
写真で見たものと同じだった。
いや、違う。
画面では、これほど大きく見えなかった。
「……でかいな」
思わず、そんな言葉が漏れた。
隣で藤宮さんが笑う。
「ようこそ、祇園祭へ!」
目の前には、巨大な山鉾がゆっくりと進んでいた。
豪華な装飾が夏の日差しを受け、鮮やかに輝いている。
周囲に響く祇園囃子。
大勢の人々の掛け声。
車輪が動くたびに伝わってくる、独特の迫力。
写真でも、映像でもない。
自分の目の前に、本物の山鉾がある。
俺はしばらく、その光景から目を離せなかった。
藤宮さんが隣から声をかけてくる。
「どうですか、悠真さん!」
「……すごいですね」
「でしょう!」
彼女は満足そうに笑った。
俺はもう一度、巨大な山鉾を見上げる。
確かに、これはわざわざ見に来る価値がある。
まだ京都に到着したばかりだというのに、早くもそんなことを思っていた。
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