第十話 旅の終わりが近づいて
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
七月十九日、月曜日。
海の日。
京都旅行、三日目。
「……もう最終日か」
ホテルの部屋で荷物をまとめながら、思わず呟いた。
金曜日まで普段どおり仕事をしていたのに、土曜日には祇園祭を見て、日曜日には二条城や伝統工芸品を見学していた。
慌ただしい三日間だった。
着替えを畳み、リュックサックへ入れる。
昨日購入した西陣織の名刺入れは、傷がつかないように別の袋へ入れておいた。
あとは忘れ物がないか確認するだけだ。
「……よし」
部屋を見回し、最後に洗面所を確認する。
問題なし。
荷物を持って部屋を出ると、ロビーには藤宮さんが待っていた。
「おはようございます! 悠真さん!」
「おはようございます、藤宮さん」
「いよいよ最終日ですね!」
「そうですね」
「今日はお土産を買いましょう!」
「昨日も買いましたけどね」
「あれは自分用です! 今日は配る用のお土産ですよ!」
「……なるほど」
確かに、会社の人たちへ持っていくものはまだ買っていない。
普段は旅行などしないので、土産を選ぶという習慣もなかった。
「では、まずチェックアウトですね」
「はい!」
二人で手続きを済ませ、ホテルを出る。
帰りの新幹線までは、まだ時間がある。
荷物を持ったまま観光するのも不便なので、京都駅へ向かい、リュックサックを預けることにした。
「これで身軽になりましたね!」
「ええ。帰りに取り忘れないようにしないと」
「ふふっ、悠真さんなら大丈夫ですよ!」
「……そう言われると、少し不安になりますね」
「えー! 信用してくださいよ!」
笑い合いながら、俺たちは地下鉄の乗り場へ向かった。
◇
「……錦市場?」
「はい! 京都の台所って呼ばれている場所なんですよ!」
藤宮さんが地図を見せてきた。
目的地は京都市中京区。
四条通から少し北へ入ったところにある商店街らしい。
「市場ということは、野菜や魚を売っているんですか?」
「そうですよ! でも、それだけじゃありません!」
藤宮さんが嬉しそうに画面を操作する。
漬物。
乾物。
菓子。
惣菜。
ほかにも、さまざまな店が表示されていた。
「……普通のスーパーとは違うんですね」
「もちろんです! 昔から京都の食を支えてきた市場ですから!」
俺たちは地下鉄の四条駅から歩き、錦市場へ向かった。
やがて、細長い商店街の入口が見えてきた。
「ここです!」
「……おお」
通りの両側に店が並び、奥までずっと続いている。
頭上にはアーケード。
その下を、大勢の買い物客が行き交っていた。
店先には、野菜や魚、漬物などが所狭しと並べられている。
「随分と賑やかですね」
「連休ですからね!」
通りへ入ると、店ごとに違う匂いが漂ってきた。
焼き物の香ばしい匂い。
漬物の酸味を感じさせる香り。
どこかから聞こえる、店員の威勢のよい声。
昨日まで見ていた寺院や城とは、まったく違う京都がそこにあった。
◇
「あっ、悠真さん! これ見てください!」
藤宮さんが足を止めたのは、野菜を扱う店の前だった。
店先には、細長い緑色の野菜が並んでいる。
「……とうがらし?」
「万願寺とうがらしですね!」
「結構大きいですね」
普通のとうがらしよりも太く、長い。
見た目は、細長いピーマンに近かった。
「辛いんですか?」
「基本的には、辛みの少ない品種ですよ!」
「へえ」
店先の表示を確認する。
そこには、京都府産の野菜であることが書かれていた。
「……万願寺って、地名ですかね?」
「そうですよ! 舞鶴市の万願寺地区が発祥とされているんです!」
「舞鶴市……」
聞き覚えのある地名だった。
確か、京都府の北の方にある街だったはずだ。
「京都市ではないんですね」
「はい! 京都府北部です!」
気になってスマートフォンで調べてみる。
万願寺甘とう。
大正時代の終わり頃、舞鶴市の万願寺地区で栽培され始めたとされる野菜。
現在は舞鶴市のほか、綾部市や福知山市でも生産されているらしい。
「……京野菜って、京都市内だけで作られているわけじゃないんですね」
「そうなんですよ!」
俺はもう一度、目の前の野菜を見た。
京都市内の市場に並ぶ、府北部で生まれた野菜。
当然といえば当然なのだが、こうして産地を意識したことはなかった。
「……買ってみます?」
藤宮さんが尋ねてきた。
「野菜ですか?」
「はい! 帰ってから料理に使えますよ!」
「それもいいんですが、今日はまだ帰るまで時間がありますからね」
「ああ、そうでした!」
「生鮮食品ですし、持ち歩く時間も考えないと」
俺がそう答えると、藤宮さんは小さく頷いた。
「じゃあ、今日は見るだけにしましょう!」
「そうですね」
食材そのものに興味はある。
だが、持ち帰って傷ませてしまっては意味がない。
今回は、名前を覚えておくことにした。
◇
錦市場を歩いていると、さまざまな店が目に入った。
漬物を並べた店。
乾物を扱う店。
色とりどりの菓子を販売する店。
観光客向けの商品だけでなく、料理に使う食材も多い。
「……本当に、台所という感じですね」
「そうでしょう!」
藤宮さんが楽しそうに店先を眺めている。
「こういう市場って、その土地の食生活が見えて面白いんですよ!」
「確かに、普段行くスーパーとは品揃えが違いますね」
俺は漬物店の前で足を止めた。
何種類もの漬物が、綺麗に並べられている。
「……種類が多いですね」
「京漬物も京都の名物ですからね!」
藤宮さんが隣から覗き込む。
しば漬。
すぐき漬。
千枚漬。
知っている名前もあれば、初めて見る名前もあった。
「悠真さん、漬物を作るって言ってましたよね?」
「ええ。簡単なものなら」
「こういうのも作れるんですか?」
「……それは難しそうですね」
店先の商品を眺める。
色も形も、家庭で作る浅漬けとは違う。
もちろん、自分で漬ける楽しさもある。
だが、長年作り続けてきた店の味というものも、気になる。
「……一つ買ってみようかな」
「おっ!」
「帰ってから、ご飯のお供にするのもよさそうです」
「いいですね!」
俺は店員に持ち帰りの条件を確認し、日持ちする商品を一つ選んだ。
購入した袋を受け取ると、藤宮さんが満足そうに笑った。
「悠真さん、今回は結構お買い物してますね!」
「必要なものしか買っていませんよ」
「ふふっ、そういうことにしておきます!」
「……事実なんですが」
なぜか、あまり信用されていないようだった。
◇
「それにしても、長い商店街ですね」
しばらく歩いたところで、俺は振り返った。
人々の間から、通ってきた店の看板がいくつも見える。
「錦市場は、東西に約四百メートル続いているんですよ!」
「四百メートル……」
数字だけ聞けば、そこまで長く感じない。
だが、両側の店を眺めながら歩くと、なかなか先へ進まなかった。
「あっ、悠真さん! あれも美味しそう!」
「……またですか?」
「だって、いろいろあるんですもん!」
藤宮さんの視線の先には、菓子を販売する店があった。
小さな和菓子が並んでいる。
「少し食べます?」
「……昼食前ですよ?」
「ちょっとだけ!」
藤宮さんは店先の案内を確認した。
店内で食べられるものもあるらしい。
「じゃあ、ここで休憩しましょう!」
「わかりました」
俺たちはそれぞれ小さな菓子を一つ選び、店の案内に従って、その場で食べることにした。
錦市場では、買ったものを食べながら通りを歩くことは控えるよう案内されている。
大勢の人が行き交う場所なのだから、当然の配慮なのだろう。
「いただきます!」
藤宮さんが早速、菓子を口に運んだ。
「んー! 美味しい!」
「……本当に美味しそうに食べますね」
「美味しいんですもん!」
俺も一口食べる。
ほどよい甘さで、歩き疲れた身体にはありがたかった。
「……これなら、お茶が欲しくなりますね」
「わかります!」
藤宮さんが笑った。
少し休憩したあと、俺たちは市場を出た。
◇
「……そういえば、錦市場って観光客だけの場所じゃないんですよね」
商店街を離れたところで、俺は尋ねた。
「そうですよ! 地元の人も買い物に来ますし、飲食店の人が食材を仕入れることもあります!」
「なるほど」
振り返ると、先ほどの賑わいがまだ続いていた。
観光客が土産を選ぶ。
地元の人が食材を買う。
店の人が商品を並べ、客の質問に答える。
同じ場所でも、訪れる人によって目的は違う。
「……面白いものですね」
「何がです?」
「俺たちは観光に来ていますけど、あそこで働いている人たちにとっては、普段の仕事なんですよね」
「そうですね!」
俺も、普段は会社で事務作業をしている。
いつもと同じ書類を確認し、数字を照合する。
その仕事が、誰かの生活を支えているのかもしれない。
そう考えると、少しだけ見方が変わる。
「……悠真さん?」
「いえ、何でもありません」
俺は小さく首を振った。
「そろそろ京都駅へ戻りましょうか」
「そうですね!」
藤宮さんがスマートフォンを確認する。
「帰りの新幹線まで、まだ少し時間がありますよ!」
「なら、最後にお土産を買っておきましょう」
「はい!」
◇
京都駅へ戻ると、藤宮さんが何かを思い出したように足を止めた。
「あっ、そうだ!」
「どうしました?」
「少しだけ、寄りたい場所があるんです!」
「……またですか?」
「本当に少しだけです!」
彼女が指さしたのは、駅ビルの案内表示だった。
京都総合観光案内所。
京なび。
「観光案内所ですか?」
「はい! 京都府内のいろいろな観光情報が見られるんですよ!」
「……帰る直前にですか?」
「だからこそですよ!」
どういう理屈だろう。
首を傾げながらも、俺は彼女についていった。
◇
「……本当に、いろいろありますね」
京都駅ビル二階の観光案内所には、京都市内だけでなく、京都府内のさまざまな地域の観光情報が用意されていた。
俺は京都府の観光地図を手に取り、広げてみる。
京都市。
宇治市。
宮津市。
舞鶴市。
ほかにも、多くの市町村が載っていた。
「……昨日までいた場所は、京都府のほんの一部なんですね」
「そうなんですよ!」
藤宮さんが地図を覗き込む。
「悠真さん、宇治って知ってます?」
「お茶が有名なところですよね」
「そうです! 宇治茶ですね!」
地図を見ると、宇治市は京都市の南側に位置していた。
「ここには平等院もあるんですよ!」
「ああ、世界遺産の一覧にありましたね」
「覚えてましたか!」
「ええ。清水寺で調べたときに見ましたから」
あのときは、地図上に名前が並んでいただけだった。
しかし、こうして位置を確認すると、少し印象が変わる。
「……京都駅からなら、宇治へも行けるんですね」
「はい! また別の機会に行くのもいいですよ!」
藤宮さんはそう言って、今度は地図の北側を指さした。
「それから、こっちです!」
「……宮津市?」
「天橋立があります!」
「ああ!」
初日に、京都府が日本海に面していると教えてもらったときに聞いた名前だ。
日本三景の一つ。
地図を見ると、京都市からかなり北に位置している。
「……結構遠いですね」
「そうですね! 京都市内の観光とは、別に予定を立てた方がいいかもしれません!」
さらに地図を眺める。
天橋立のある宮津市。
その東側に、舞鶴市があった。
「……ここが、さっきの万願寺とうがらしの産地ですか」
「そうです!」
「舞鶴って、海に面しているんですね」
「はい! 舞鶴湾がありますよ!」
藤宮さんは観光案内を確認する。
「赤れんがの建物が有名ですし、港の景色も楽しめるんですよ!」
「へえ……」
俺は地図に目を戻した。
京都府北部。
宮津。
舞鶴。
そして、日本海。
初日に聞いた地名が、こうして一つの地図の上でつながっていく。
「……京都って、まだまだ見るところがあるんですね」
「そうですよ!」
藤宮さんが嬉しそうに笑った。
「今回行ったのは京都市内だけですから!」
俺はもう一度、地図を見つめた。
宇治。
天橋立。
舞鶴。
名前だけなら覚えられる。
だが、実際にはどんな景色が広がっているのだろう。
それを想像するのは、少し難しい。
「……この地図、持って帰ってもいいんですかね?」
「配布されているものなら大丈夫ですよ!」
俺は案内所で確認し、持ち帰り用の観光地図を一部受け取った。
折り畳んで、鞄の中へしまう。
「悠真さん、何か気になるところがありました?」
「……そうですね」
少し考える。
「舞鶴でしょうか」
「舞鶴ですか?」
「ええ。海のある京都というのが、まだ想像できないので」
藤宮さんが目を丸くした。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「ふふっ、いいですね!」
「……何がです?」
「いえ、何でもありません!」
彼女はそう答えると、観光案内所を出る方向へ歩き始めた。
俺も、その後を追いかけた。
◇
「さて! 最後はお土産ですね!」
京都駅の土産物売場へ向かうと、藤宮さんが早速商品を見始めた。
「京都といえば、八つ橋ですよ!」
「……ああ、そうでしたね」
店頭には、さまざまな種類の八つ橋が並んでいた。
焼き八つ橋。
生八つ橋。
あん入りのもの。
味の違うもの。
「……結構種類があるんですね」
「そうなんですよ!」
俺は二つの商品を手に取った。
「……こっちは硬いんですか?」
「焼き八つ橋ですね! 焼いてあるので、パリッとした食感ですよ!」
「こちらは?」
「生八つ橋です! 柔らかいんですよ!」
見比べてみると、形も随分と違う。
焼き八つ橋は、薄く湾曲した形をしている。
一方、あん入りの生八つ橋は、柔らかい生地であんを包んでいる。
「……同じ八つ橋でも、随分と違うんですね」
「どちらも美味しいですよ!」
俺は商品を手に取り、裏面の表示を確認した。
原材料。
保存方法。
賞味期限。
職場へ持っていくなら、配りやすいものがいい。
「……会社用は、個包装のものにしましょうか」
「いいですね!」
「それから、自分用にも少し買っておきます」
「おお! どれにします?」
「……生八つ橋ですかね」
「いいですね!」
藤宮さんが隣で別の商品を見比べる。
「私は、こっちにしようかなあ」
「何味ですか?」
「抹茶です!」
「京都らしいですね」
「でしょう!」
彼女は楽しそうに商品を籠へ入れた。
俺も土産を選び、会計を済ませる。
これで、職場用のお土産も確保できた。
「……これで全部ですね」
「はい!」
藤宮さんが袋を持ち上げる。
「悠真さん、お土産、結構増えましたね!」
「……藤宮さんも人のことは言えないでしょう」
「あはは! そうですね!」
確かに、二人とも来たときより荷物が増えていた。
もっとも、中身はそれぞれ違う。
俺は名刺入れと漬物、八つ橋。
藤宮さんは京友禅の小物と菓子類。
買うものにも、性格が出るらしい。
◇
荷物を受け取り、京都駅の構内へ向かう。
帰りの新幹線まで、もうそれほど時間はなかった。
「……そろそろですね」
俺がそう言うと、藤宮さんが時計を確認した。
「そうですねえ」
彼女にしては、少し落ち着いた声だった。
「……どうしました?」
「いえ、三日間って早いなあって思いまして」
「そうですね」
初日の朝。
名古屋駅で待ち合わせたときのことを思い出す。
あのときは、ただ眠かった。
旅行の予定は決まっていたものの、実際にどんなことをするのか、ほとんど想像できなかった。
それが今では、鞄の中に土産物が入っている。
スマートフォンには写真が増え、観光地図まで持ち帰ろうとしている。
「悠真さん」
「はい?」
「今回の旅行、どうでした?」
藤宮さんがこちらを見た。
昨日までなら、楽しかったです、と答えていただろう。
もちろん、今もそう思っている。
ただ、三日間を振り返ると、それだけでは少し足りない気がした。
「……知らないことばかりでしたね」
「ふふっ、そうですか?」
「ええ。京都に海があることも知らなかったですし、祇園祭も名前しか知りませんでした」
俺は鞄の中の観光地図へ目を向けた。
「それに、まだ行っていない場所もたくさんあります」
「そうですね!」
「……三日間では、全部は回れませんね」
「もちろんです!」
藤宮さんが笑った。
「京都だけでも、何度も旅行できますから!」
「……それもそうでしょうね」
俺は小さく頷いた。
地図に載っていた宇治市や舞鶴市。
実際に行くことがあるかどうかは、まだわからない。
だが、少なくとも、今までのように名前すら気にしないということはなさそうだった。
「……悠真さん?」
「はい?」
「何か考え事ですか?」
「帰ったら、地図をもう一度見てみようかと思いまして」
藤宮さんが少し驚いたような顔をした。
「……本当ですか?」
「ええ。今回行った場所も、ちゃんと確認しておきたいので」
「……そうですか」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
そして、少しだけ声を弾ませる。
「それなら、またいろいろ教えますね!」
「ありがとうございます」
俺たちは改札へ向かって歩き始めた。
京都旅行、三日目。
帰りの新幹線に乗れば、あとは名古屋へ戻るだけだ。
そして明日からは、いつもの仕事が待っている。
もっとも。
鞄の中の観光地図と、スマートフォンに残った写真を見る限り、今回の三日間をすぐに忘れることはなさそうだった。
お読み頂き、ありがとうございます。
- 京都総合観光案内所「京なび」
https://www.kyoto-kankou.or.jp/info_search/3972
京都駅ビル2階の所在地、府内全域の観光案内を行うことを確認。
- 農林水産省「米菓子、豆菓子」
https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/traditional-foods/menu/komegasi_mamegasi.html
焼き八つ橋と生八つ橋の特徴を確認。
- 京都駅ビル「よくあるご質問」
https://www.kyoto-station-building.co.jp/qa/
駅構内の手荷物預かりサービスとコインロッカーを確認。
- 京都府観光連盟「サイトポリシー」
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