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「えっと、それで……伊吹さん。訊いてもいいっすか」
「はい」
「前の店を辞めたのって、やっぱその……さっき言ってた親父さんのことが原因なんですか」
気になっていた話題にようやく手を伸ばした俺が訊ねると、伊吹さんは餃子を摘まんで、ひと口で頬張り、頷きながらあっという間にそれを食べてしまう。それから、グラスの水をひと口飲むと、静かに話し出した。
「実は、僕が勤務してた店っていうのは、親父の店なんです。だから勤めてたってよりも、僕は……親の仕事を手伝ってたって感じで……」
伊吹さんの前職。駅前のアーケード内にあった、にぎやかで便のいい、だが季節感はあまり感じない、切り花メインの店舗。そこは彼の親父さんが営んでいたのだという。
「そうだったんすか……じゃあ、辞めたっていうのは退職じゃなくて――」
「そうなんです。僕、閉めちゃったんです。親父の店を……」
ずしん、と胸の辺りが重くなったような心地になった。勤務先を退職するのと、父親と一緒に営んでいた店を閉めるのは、似ているようでまったく違う。それは、名ばかりの跡取り息子である俺にも、痛いほどよく理解できた。俺だってそれをしたくないから、名ばかりでも、跡取り息子になることを選択したのだ。
「僕ひとりでも、続けられないことはなかったんですけどね。去年の冬、父が脳梗塞で倒れたとき、母に言われまして。長年、お父さんのこと手伝ってきたんだから、これからはちゃんと、自分がやりたいことを選んだらって。あぁ、見抜かれてたんだなぁって、思いました」
「へえ。お母さんも、一緒に花屋やってたんですか」
「昔は。親父はへんくつな人で、ここ数年は脳梗塞の兆候だったんでしょう、母にだけ、かなり当たりがきつかったんで、もう僕が店に来るのを止めてたんです。家ではもちろんですけど、お店でも、お客さんがビックリするくらい母のこと怒るもんだから」
聞けば、親父さんは元々、かんしゃく持ちだったらしい。とはいえ、決して理不尽に怒ることはなく、常に正しさを求めるような、生真面目なタイプだったようだ。そんな親父さんだが、いつからか、だんだんと変わってしまったのだという。
自分で物を失くしたのにお母さんのせいにしたり、小さなことにいつまでも執着して、まるで腹いせのようにお母さんを怒鳴ったりするようになったようだった。
「そういうのも、その――脳梗塞のせいだったりするんですか?」
「そうみたいですね。元々の性格もあったと思うけど、ここ一年くらいは特にひどかったから」
伊吹さんはそう言って苦笑してみせ、また餃子を頬張った。
伊吹さんちのお店は、立地の良さも手伝って、固定客が多かったらしい。年々、忘れっぽく、怒りっぽくなっていた親父さんだが、いつもお客さんにだけは愛想よく振舞っていたので、伊吹さんもお母さんも、それを異常だとは思わず、老化のせいだと信じて疑わなかったようだ。しかし、親父さんはある日突然、倒れてしまったのだという。
「正月明けの、寒い日でね。朝、一階の台所からものすごい音がして、飛び起きたら、そこで倒れてたんです。なんで気付いてやれなかったのかなぁって、今でも思うけど、そばにいると、気付きにくいんだそうですね。だんだん悪くなっていくもんだから。自然な老化現象だって思っちゃうみたいで」
「そういうもんなんですか……」
「うん……って、お医者さんには言われました。僕らに気を遣ってくれたのもあったんだろうけど」
親父さんの脳梗塞は、重度だったようだ。救急車で病院へ運ばれた際、今まで老化現象だと思い込んでいたそれが、実は年齢のせいではなく、脳梗塞が原因の、認知症の症状であったとわかったらしい。それを聞いた俺は、母の病気がわかったときのことを思い出した。少しだけ、胸が苦しくなる。
「それからはもう、記憶があんまりないんです。ケアマネさんに来てもらって、施設を必死で探して、お金の工面をして……幸い、酒もギャンブルもしないで、堅実にお金を貯めるタイプの人だったんで助かったけど、お店を続けるなんて、とてもじゃないけど考えられなかった」
親父さんの病状はかなり悪かったという。倒れてからは、伊吹さんとお母さんのことすら、認知できない状態だったそうだ。
おまけに自分では服も着られず、トイレにも行けず、食事もまともにとれない。介護をするにも、体が大きい人だったから、家の中でお母さんが看るわけにもいかず、かといって、伊吹さんが介護に付きっきりになれば、経済的に苦しくなる。それでやむを得ず、施設を探すことになったという。
店の最終日には、大勢のお客さんが来てくれて、店の花はほとんど残らなかったと、伊吹さんは悲しげな笑みを浮かべて話してくれた。その表情が痛々しくて、俺は目を伏せる。それから、思い出したように餃子を摘まみながら、なんとか話題を親父さんのことから離したくなって、頭を巡らせ――また訊ねた。
「だけど、その……なんでそこから、うちへ来ることになったんです?」
この辺りでは、たしかに花野井園芸店は大きい店舗だ。だが、都内に行けば、うちみたいな店よりも、もっとおしゃれな店が山ほどある。勤務するにしても、うちの店よりも給料だっていいはずだ。それなのに、縁故があったとしたって、なぜ伊吹さんがうちの店を選んだのか、俺は疑問だった。
「市場であいさつ回りをしてたとき、花野井社長に声かけてもらったのがきっかけでしたが……実は恥ずかしながら、僕は長年、社長によくしてもらってたのに、一度も花野井園芸の店舗を見たことがなくてですね。お話をいただいてから、まず、ネットで花野井園芸店を見まして。それから、ひとりでお店を見に来たんです。それでもう、店の前に立った瞬間、ここで働きたいって思ってしまって、それからはもう、何度も足を運びました」
そう話す伊吹さんは、まるで今、まさに面接を受けているような口調だった。それほど、うちの店を気に入ってくれたのだと思うと、嬉しい反面、やはり跡を継ぐ人間に植物の熱がほとんどないことには、がっかりさせたのではないか――と、申し訳なくなる。
「すいませんでした、そんなに気に入ってくれてたのに……」
「なんで謝るんです?」
「いや……息子ってだけで、跡継ぎとして店にいるのに、植物にたいして熱がないなんて、きっと失望させちゃったと思うんで」
俺の言葉を聞くなり、伊吹さんは微笑み、かぶりを振った。
「いえ、僕は紫苑さんの気持ち、わかりますよ。誰かがずっと守ってきたものを継承するって、息子といえども、そんなにカンタンなことじゃないはずですからね」
伊吹さんの口調がこれまでになく優しくて、不覚にもじいんとしてしまった。きっと苦笑されて「たしかに意外でしたよ」なんて言われて、俺は「夢ぶっ壊しちゃってすいません」なんて言葉を、冗談めかして、笑顔で返す準備もできていたのに、伊吹さんは本当に優しかった。




