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伊吹さんは俺とは違う。親の仕事を手伝っているうちに、この業界に入ってしまって、成り行きでなんとなく親の店に勤めている俺とは。きっと、この人は、昔から植物が好きで、だからこの仕事に就きたくて、必死で勉強して、自ら望んで業界に入り、経験を積んできた人だ――と、俺は勝手にそう思い込んでいた。
しかし、どうやらそういうわけでもなさそうだ。嫌々でやりはじめ、長くやらざるを得なかったのだとしたら、俺は彼と仲良くなれるような気がした。――とはいえ、どんなに考えても、伊吹さんが植物にハマった、それらしいきっかけは思いつかなかった。
「全然わかんないです」
「実はね、親父の認知症がきっかけだったんですよ」
「そ――……うだったんですか」
「はい」
想像を超えた重い理由に、一瞬、言葉が詰まった。思えば、伊吹さんが以前、勤めていた店をどうして退職したのか、俺は知らなかった。――いや、もしかすると聞いたのかもしれないが、覚えていなかったのだ。
「すみません、その、俺……もうその話聞いてましたっけ……」
「いえ、まだお話してないと思います。親父のことは社長にしか――」
伊吹さんがそう言いかけた途中で「グォウ……」と、低く情けない音がした。重低音のようで、もっと悲しげな音。伊吹さんの腹の虫が鳴いた音だった。
「あはは……なんだ今の! すっごい音でしたね!」
伊吹さんは恥ずかしそうに腹をさすり、笑みをこぼして言う。腕の時計を見れば、時刻はいつの間にか八時になろうとしていた。腹が減るのも当然だ。気付けば、俺の腹の虫もすでに似たようなもので、空腹のピークを一度通り過ぎ、鳴くのを諦めたあとだった。今は大人しくなっていたものの、空腹なのは同じだ。
「腹、減りましたよね。もう八時だし」
「ええ、すみません。こんなに長話するはずじゃなかったんですけど……」
「ラーメンでも行きます?」
俺が訊くと、伊吹さんは少し驚いたような顔で、わずかに肩をすくめたようだった。それからすぐに「えっと、あの……」と困ったように頭を掻く。
その反応に、俺は今すぐ、自分の言葉を取り消したくなった。それほど仲がいいわけでもない俺とサシでラーメンなんか食べに行ったって、伊吹さんが楽しいはずがない。彼からすれば、俺は若輩の教育係という煩わしさ満点の存在。気を遣って、ストレスがたまるだけかもしれない。
「いや、ごめんなさい。無理ならべつにいいんですけど――」
「いえ! まさかその……紫苑さんに誘ってもらえるとは思わなくって、こういう日に限って、今日は変なTシャツを着てきちゃったな、と……」
「え? あぁ――」
暗がりの中で、彼のTシャツに目をやる。そこには、バイオランテ――と書かれ、口を開けたワニのような怪物のイラストがプリントされていた。なにか特撮系の怪獣なのだろう。
「いいんじゃないすか、かっこいい……バイオ、ランテ?」
「知ってますか?」
「あぁ……いや」
いつもの俺なら、会話が面倒で、雑に知ったかぶりをして済ませるのだが、伊吹さんにはそれも通じないような気がして、かぶりを振った。すると、伊吹さんは「バイオランテの話も、ぜひラーメン屋さんで」と言ってから、店から一番近くにあるラーメン屋を提案してくれた。
思えば、店に就職してから、俺は誰かとラーメンなんか食べに行ったこともなかったことに気付く。教育係だった桜介さんとも、外食したことはほとんどなかった。
「すいませんでした、俺が言い出しっぺなのに、店決めてもらっちゃって」
「いえいえ」
ラーメン屋は、地元で人気のあるチェーン系の店だった。そこは、ボックス席が多く、いつも家族連れでにぎわっているイメージがある。そういうにぎやかな雰囲気が苦手だった俺は、ここへ一度も行ったことがなかったのだが、どうやら伊吹さんの行きつけの店らしい。
平日とあって、店内は比較的空いている。俺と伊吹さんは窓際のボックス席に案内されて、向かい合わせに座った。
「僕ねぇ、ここの中華そばが大好きなんです。素朴なんだけど、ホッとする味で。定期的に食べたくなるんですよ」
「へえ」
「最近は味噌ラーメンがリニューアルしたんです。この――北海道味噌バターとか、おすすめです」
伊吹さんはそう言いながら、慣れた手つきでテーブルの上のピッチャーを取り、グラスに水を注いでくれる。
「……あざす。味噌バター、そんなうまいんすか?」
「うまい! 僕はここの味噌は好きですね! バターもすごく大きいし」
少し長い髪を結び直しながら、そう言って見せた伊吹さんの笑みが、あまりに無邪気だったので、俺はおすすめのそれを注文することにした。それから餃子を二人前とメンマ、伊吹さんは大好きな中華そばを注文した。
「そうそう、それで、このTシャツなんですけどね」
「あぁ、はい……」
正直なところ、俺が気になっているのは伊吹さんが着ているTシャツのバイオランテという怪獣ではなく、彼の親父さんの話や、親父さんの病気がどうして植物への興味に繋がったのか――という話だったのだが、伊吹さんのキラキラした表情のせいで、従うほかなくなった。
「これは特撮の「ギャジラ」っていう怪獣映画に出てくる怪獣なんです。バイオ怪獣っていって、ある学者が、亡くなった娘さんの遺伝子細胞と、バラの細胞を掛け合わせたところに、さらにギャジラの細胞を掛け合わせて誕生させた、謂わば人造怪獣なんですよ」
「へぇ、そんなのいるんだ。ギャジラってあれでしょ、昔の映画の。最近リメイクしてましたよね」
「そうそう。子どもの頃、僕、バイオランテの大ファンだったんです。ソフビとかもたくさん持っててね。でも、昔は植物なんか好きじゃなかったのに、それでもバイオランテが一番好きだったのは、不思議なんですけど」
俺は残念ながら、ギャジラにはあまり詳しくない。記憶を辿っても、子どもの頃に観た記憶はなく、思い浮かぶのはもっぱら、戦隊ものの特撮ヒーロー系だった。
「ギャジラかぁ……ちょっとわかんないな」
「ですよねぇ、僕もちょっと世代的には違うんですが、従兄の影響で」
「あぁ、なるほど」
そんな会話の途中で、餃子が運ばれてくる。伊吹さんはすぐに割り箸を取って俺に手渡してくれ、取り皿を並べてくれた。その手際のよさは、まるで主婦のようだ。
「ありがと、ございます……」
「いえいえ」
俺は自然と想像する。この人は、普段から家のことをこうして、当然のように熟しているのだろう――と。
もちろん、俺も家事くらいはする。ただ、その手慣れた感じは、仕方なく必要最低限のことだけをやっているのではなく、長年の習慣として染みついている感じがあった。それはどこか、母が生前、俺や親父の世話を焼いてくれていたような手つきと似通ってもいて、そのせいか俺は、伊吹さんにこれまでにない安心感を抱いていた。




