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三月に入った、ある日の閉店後。レジの点検中、すでに自分の持ち場の仕事を終わらせたスタッフは、最後のレジ点検が無事に終わるのを見届けるために、レジの周りに集まっていた。
これも、うちの店のお決まりの流れだ。自分の仕事が終わったスタッフから、なぜかレジ回りに集まり、違算が出ないかどうかを見守る。だが、今夜は少しいつもよりもにぎやかだった。金勘定をしている俺は、その談笑が煩わしくて、少し苛立っていた。
「すごいなぁ、伊吹さん。今日、クリスマスローズ何個売ったの?」
「えっと……数えてないからなぁ。何個だろ……」
「常連さんにも、早速名前覚えられてましたよね。ファンだって人いましたよ、伊吹さんの」
「そうなんですか……? ちょっとなんだかそれは……恐縮しちゃうけど」
「伊吹くん、紫苑よりもよっぽど跡継ぎっぽいもんねぇ」
明らかにからかい口調でそう言ったのは、桜介さんだった。この人のこういうウザ絡みは昨日、今日にはじまった話ではないのだが、俺はしっかり彼を牽制して睨みつけておく。
「あらぁ、紫苑くんには紫苑くんのよさがあるわよ。ねぇ?」
「そうそう。名選手だからって、いい監督になれるわけじゃないですもんね」
「馬場ちゃんの言う通り。名監督ってのは、逆に選手時代に苦労した人の方がなれたりするもんよ」
女性スタッフのふたりが言う。俺を野球かサッカーの監督かなにかにたとえて、必死にかばってくれているようだが、正直なところは俺も桜介さんと同意見だった。
俺よりも、伊吹さんのほうがずっと跡継ぎみたいだと、俺自身も思う。それに、園芸店の二代目店主と、スポーツの監督が同じだとも思えないし、少なくとも、俺はこの店でたいした苦労もしていなかった。ただし、それを桜介さんに言われるのは癪に障る。それだけだ。
「馬場さん、ナイスフォロー! いやぁ、いいこと言うなぁ。オレもさぁ、一の子分の紫苑には立派になってもらいたいんだよ、実際」
「ほんとに桜介さんは……いつだって調子がいいんだから」
名ばかりで、熱量の乏しい跡継ぎ息子。俺はたびたび雑談のネタにされることがあって、それには鬱陶しく思うこともあったが、なるべく気にしないようにしていた。
からかわれているとはいっても、事実を言われているのに、反論のしようもなかったからだ。ただ、なにも言い返さなくても、心はしっかり動揺する。
特に「跡継ぎ」という言葉が出ると、なんだか触れてほしくない場所に手を伸ばされるような心地になって、ビクッとさせられるのだ。他人に自分の弱点を指摘されるような、そんな心地。できれば、そっとしておいてもらいたいが――。
「紫苑はお勉強はできるのになぁー。暗算とか、バイト時代から速かったもんね」
「たしかに、インカムで数字的なこと訊くと、だいたい紫苑くんが応えてくれますもんね。肥料の割合とか、値引き額とか」
「でっしょー? なんたってオレの一の子分だからねぇー、紫苑は」
「……誰がいつあんたの――……だぁーっ、もう数え間違えたじゃん! いっつもうっさいんですよ、桜介さんは!」
桜介さんは、俺の先輩で、俺がはじめてこの店でバイトし始めた頃の、教育係だった。たぶん、俺とは年齢がひと回りくらい離れているはずだが、この人は出会った頃から変わらない。仕事は速いし、知識量も豊富で、頼り甲斐もある。のだが、お客のいないところでは性悪な小学生男児のような人だった。
やるな、と言われたらやる。しゃべるな、と言われたらしゃべる。そんな天邪鬼な人でもある。根っからの悪ではない。ただ、ちょっと調子がよくて、意地悪なのだ。
「悪かったよー。そんな怒んなってぇ」
「怒ってねーし。もういいからしゃべんないで、おっさん」
「可愛くねえー……」
こんなふざけ合いは日常だ。だが、今日の俺はやはり虫の居所が悪く、いつもの冗談を聞き流せないでいた。
どうせ、俺は植物好きでも博識でもない、名前ばっかりの跡取り息子だよ……。
心の中でそう呟く。――といっても、それは桜介さんにではなく、彼の冗談を聞いてけらけら笑うスタッフにでもなく、もちろん伊吹さんにでもない。俺はからかわれてもなにひとつ反論できず、剥れるしかできない自分自身に、余計に苛立ちを感じていた。
***
その後、休憩室で着替えながら、あいかわらず雑談は続いていたが、不意に。スタッフのひとりが訊ねた。
「そういえば、紫苑さん。季節の寄せ植えコーナーなんですけど、三月もまたビオラとカラーリーフでいいですか?」
「あぁ、うん。いいんじゃないすかね。テキトーに売れそうな品種でざっと作っとけば。面倒だったら、寄せ植えになってるやつ、親父に頼んで仕入れてもらいますけど」
「……いえいえ、それくらいはすぐ作れるので。明日、やっときます」
「悪いっすねー」
季節の寄せ植えコーナーは、一年草の売り場の入り口にある、飾り棚のようなものだ。寄せ植えは毎月、少しずつ植え込みを変えている。
早春はたいていの場合、ビオラやパンジー、デイジー、アリッサムなどの花苗と、カラーリーフ苗を入れて作るのが、毎年のお決まりだった。この寄せ植えは、いわば見本。入れたものは、そのまま売れ筋になることも多いので、とにかく見栄えがする人気品種を植え込めば間違いない。
ピンクやオレンジの、暖色系の花でまとめた鉢と、ブルー系の花とシルバーリーフでまとめた鉢。そのふたつを何パターンか作っておけばいい。
毎年、ほとんど同じ作業なので、確認しなくてもいいくらいのことで、たぶん、その会話に違和感を覚えたスタッフは、ほとんどいなかった、はずだった。
帰り際、俺は休憩室で炭酸ジュースを飲んでから、一番最後に店を出た。自転車通勤なので、仕事終わりのビール――というわけにはいかないが、飲み慣れたジュースでも、肉体労働の後というのは格別に旨く感じるものだ。
俺は五百ミリのペットボトルの中身をカラにしてしまうと、その中身を流しで洗ってから、ゴミ箱へ放る。そうして、店の従業員用出入り口から、事務所の外に出て、いつものように自転車にまたがった。だが――その時だ。
「紫苑さん! おつかれさまです」
走り出そうとしたところを、不意に呼び留められた。振り向くと、そこには伊吹さんが立っている。
俺はぺこ、と頭を下げて「おつかれっす」と短くあいさつをしてみたものの、眉をしかめる。彼はどうやら、休憩室の外の、喫煙用ベンチにいたらしい。
タバコでも吸っていたのか――と思ったが、記憶が正しければ、伊吹さんは喫煙者ではないはずだった。しかも今日、彼が「お疲れさまでした」を言って、休憩室を出てから、割と時間が経っている気がする。もしかしたら、この人は俺を待っていたのかもしれない。
「……どうかしました?」
俺が訊ねると、伊吹さんはなんの脈絡もなく、突然「すみません」と謝った。なにか、俺に話したいことでもあったのだろうか――と思いながら、嫌な予感が過る。この展開には覚えがあるのだ。
「もしかして、大事な話っすか」
「えっと……はい。僕にとっては、わりと大事な話です」




