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「寄せ植えの仕上がり、楽しみにしてますね」
「うん。――あの、紫苑さん」
「なんです?」
「えっと……」
伊吹さんは急に目を泳がせて、周囲を気にした。そうして、そばに誰もいないことを確認すると、声を最小限に落として言う。
「あの……明日の定休、僕、水やり当番なんですけど」
「あぁ、そうだっけ」
「終わったあと、会いませんか? お庭も今はちょっと落ち着いてるし、デートしたいなって……」
恥じらうような表情でそう言われた瞬間、ぶわっと頬が熱を帯びた。伊吹さんと付き合い始めてから、時々こういうことがある。俺は彼を見れば触れたくなるし、姿が見えなければ、同じ敷地内にいたって会いたくなるくらいには想っているが、それでもけじめがなくなってしまわないように、必死で自制して過ごしている。
それなのに、伊吹さんは時々、不意打ちで、その理性を容赦なく壊しにくるわけだ。ただし、デートの誘いは最高に嬉しいし、仕事の合間にこっそり恋人の顔に戻る伊吹さんは猛烈に可愛いので、俺はなんの抵抗もしない。理性を呆気なく崩されて、頬はふにゃふにゃに緩んでしまう。
「うん、俺もデートしたい。どっか行きたいとこあります?」
「……あのね、ちょっと距離があるんだけど、君津のローズガーデンに行ってみたくて……知ってます?」
「いや、聞いたことないかも……」
ローズガーデンというのだから、バラ園だろうと想像はつくものの、俺はそこを知らなかった。この辺りでもっぱら有名なのは、八千代市にある京成バラ園だ。そこなら、車で一時間ほどなのだが、君津まで行くとなると、ここ千葉県北西部からは、高速道路を使ってスムーズに走っても二時間はかかる。なぜ君津のローズガーデンに行きたいのか、俺は気になった。
「君津のローズガーデンって、有名なんですか?」
「うん。最近、ちょっと話題なんです。無農薬栽培のバラ園でね」
「へえ……無農薬」
バラは虫がつきやすく、病気にもなりやすい品種が多いのに、消毒なしで無農薬栽培なんて、相当な手がかかっているのではないだろうか。実際のところ、無農薬で綺麗に花が咲き揃うものなのか、俺は疑問だった。イングリッシュローズやオールドローズの品種は特に、虫や病気には弱いと聞く。
「そんなことできるんですね。バラなのに?」
「そう。なんでも、薬を使い過ぎたり、肥料をやり過ぎたりするせいで、病気を誘発してしまったり、虫がつきやすくなるっていう話があるらしくて……最近、無農薬のガーデンって結構注目されてるみたいなんです。有名なガーデナーさんも、最近は薬をなるべく使わない方向にシフトしてる人が多いみたい。その方が益虫も来てくれて、庭のバランスが整うんですって」
「へえ、そうなんだ。すごいな……」
「でしょう。今はちょうど秋バラの季節だし。きっと綺麗なんじゃないかと思って。それからね、そのガーデンに住む猫ちゃんたちがいるらしんですが、それがもう可愛くてたまんないんですよ。一匹、モフモフした猫ちゃんがいてね、真っ黒の。すごく人懐こいらしいんです」
「猫……そこで飼われてる猫なんすか?」
「そうなんです。かなり広いガーデンみたいなんで、散歩するのも楽しいと思うし。どうですか? ――あっ、運転は僕がするんで!」
伊吹さんの興味は、植物だけには留まらない。猫の話をしたとき、伊吹さんの目がキラキラと輝いたのを、俺は見逃さなかった。同時に、はじめて彼と会ったとき、タヌキの話で目を輝かせていた彼の表情を思い出す。俺はふっと笑みをこぼした。
あれから、俺と伊吹さんの関係は変わったけれど、彼は変わっていない。出会ったその日から、年の割に可愛くて、ガタイのいい男性の割にロマンチストで、乙女チックで、どこまでも愛嬌があって、優しい人だった。そんな彼の可愛いお願いごとに、NOなんて言えない。選択はひとつだ。
「いいですね。楽しそう」
「ほんとに? 付き合ってくれる?」
「うん、楽しみ」
「やった!」
伊吹さんは、土で汚れた手で小さくガッツポーズをして見せ、子どものように無邪気に笑った。俺は思わず抱きしめたくなる衝動に駆られるが、ぐっとこらえ、深呼吸をする。
俺と伊吹さんの関係は、職場のみんなには当分の間、秘密だ。スタッフの間で噂になれば、そのまま父の耳に入る可能性もあるし、そうなると、面倒なことになるかもしれない。
抱きしめられない代わりに、俺は伊吹さんの耳元で「大好き」を囁き、颯爽とその場を去った。我ながら、呆れるほどに浮かれている。
***
その日の夕方。夕暮れの花野井園芸店に、ひとりの青年がやってきた。すらりとした背格好で、比較的体格がよく、真面目そうな印象を受けるが、その表情には明らかに緊張が見える。
なんでも、彼はアルバイトのチトくんの友人で、うちの店で働きたいのだそうだ。年齢は十八歳で、都内の大学へ通っているらしい。チトくんとは同い年で、高校の同級生。チトくんの友人なら信頼性があるということで、書類選考はパスして、面接からおこなうことになった。
ところが、父はこの日、俺と桜介さんに面接官の任を命じて、整体へ行ってしまった。近頃は冷えてきたので、腰痛が悪化しているらしい。だからといって、桜介さんはともかく、もうひとりの面接官が俺でいいのだろうか――と不安だったが、桜介さんは言った。
「社長はさぁ、ちょっとずつ、店は紫苑に任せたいと思ってんだろうね」
「え……! でも、俺まだ、入社二年目とかですよ」
「そうだけどさ。いつかはここの主になるんだろ。だから、それまでにいろんな経験してほしいと思ってんだよ」
「そっか……」
「早く立派になって、社長に楽させてやんな。参謀はオレがやってやっからさ」
桜介さんはそう言って、俺の肩をポンポン、と叩く。まるで「お前を支えてやるよ」と言われているような気がした。
この人……チャランポランに見えるし、鬱陶しい絡み方するけど、ちゃんと頼りがいもあるんだよな。
普段はふざけてばかりいる、鬱陶しい先輩。けれど、可愛がってもらっていることは知っているし、仕事では伊吹さんと同じくらい、俺が頼りにしていることも確かだ。
ところが、そう思った時だった。
「まぁ、でも……あの伊吹くんを嫁にもらうつもりなら、もうちょっと頑張らないとだめですなぁ」
「え……?」
「隠してるつもりですかぁ? 次期社長」
「え……! ええぇーーーー!」
耳元で俺に囁いたあと、桜介さんはにやりと笑って、屋外エリアで作業に励む伊吹さんに、わざとらしく視線をやる。俺は慌てて桜介さんに詰め寄ったが、彼はすっとぼけて相手にしてくれず、からかうばかり。どうやら俺は、伊吹さんへの気持ちも、初恋を叶えた嬉しさも、まったく、これっぽっちも隠しきれていなかったようだった。




