7-4
「僕は男で、紫苑さんも男です。しかも、二十代前半の君からすれば、僕は間違いなくおじさんだ。あと五年で四十で、その先も、あっという間に年を取ります」
「わかってますよ」
「それに、男性同士で恋をするってことは、リスクだらけです。家族と――紫苑さんの場合は、社長からの理解を得られるかどうかって問題も出てくるかもしれないし、社会的にはあまり大っぴらにできないことも、歓迎されないことも多いと思う。最近はパートナーシップとか、行政が変わってきたことも多いけど、それでも少数派であることに変わりはないですから」
「はい」
「あと、どんなに好きで愛し合っても、僕たちに子どもはできません。愛し合うにしてもリスクが伴うし、男女間のように簡単ではないこともあります」
「それもわかってます」
「ほんとに?」
俺は頷いたが、半分は嘘だった。特に、男同士の行為にリスクがあるということに関しては、情けなくなるほどに無知だったし、男女の行為すら、経験のない俺には、まるっきり想像がつかない。
だが、そこにどんなリスクがあろうと、俺は伊吹さんとの関係を諦めたくなかった。この人が俺を選んでくれるなら、俺はとことんまで、この人のそばで、この人を幸せにしたいと思うのだ。
「子どもができなくて、男同士の関係が社会に認められなくても、好きな人と一緒にいるのがだめってことはないでしょ。俺は伊吹さんが好きだから、恋人になりたいんです」
そう言うと、伊吹さんはたちまち目を潤ませ、鼻をすすった。そうして、仕切り直すようにコーヒーに口をつけると、深いため息を吐いた。
「はぁ……本当なんですね。本当に紫苑さんは、僕のこと好いてくれてるんだ」
「そりゃあ、部屋にまで来て嘘なんか言いませんよ」
「すごいなぁ……こんなことってあるんだぁ」
伊吹さんはひとりで感動している。とても実感が湧かない――といったふうで、俺の顔を見ずに、何度かコーヒーに口をつけている。俺はどこか他人事でいるような伊吹さんの視界に入りたくなって、彼の顔を覗き込んだ。
「ねぇ、ほんとに嘘だと思ってたんすか?」
「いや……紫苑さんが嘘を言うとは思えないからこそ、びっくりしたというか……帰り道もずっと、夢なんじゃないかと思ってました」
「俺だって夢かと思った。だって、伊吹さんが好きな人、絶対俺じゃないと思ってたし」
「そっかぁ。僕、すっごく頑張ってアプローチしてたつもりだったけど、意外と気付かれないもんなんですねぇ」
「いや、気付かないでしょ。だって、俺は……たいした人間でもないし、十二も年下なんですよ」
性別的に恋愛対象になる可能性はあっても、眼中にはないだろう。俺はそう思い込んでいた。そもそも、伊吹さんは好きな人のことを「高嶺の花だ」と話していたから、その相手が自分じゃないか、なんて、そんな能天気な想像はできるはずもない。
だが、実際のところは、俺が「高嶺の花」の正体だったということだ。それには答え合わせが済んだ今も、半信半疑だった。だって、どう考えても俺が「高嶺の花」であるはずがない。けれど、伊吹さんは言う。
「そうですよね。……紫苑さんは僕よりひと回りも年下で、まだ若い。これから先、いろんな人に出会って、いろんな経験をして、きっと素敵な恋をするんだろうなって思ってたんです。恋愛に興味はなさそうだったけど、それでもいい人に出会ったら、きっと誠実に相手を大事にするんだろうなって。そしてきっと、僕はそれをそばで見守るんだなって、ずっとそう思いながら、片想いしてました」
「だから、高嶺の花……って言ってたんですか」
「そう。僕にとって紫苑さんは、手の届くはずのない人だったんです。君はべつに同性が好きってわけでもなかったでしょ」
「まぁ、それは……」
「それなのに、手が届いちゃったんですよ。いやぁ……生きてると、本当になにが起こるかわからないもんですねぇ」
そう言って笑みをこぼし、伊吹さんはコーヒーに口をつける。いつまでも、年上だ、おっさんだと、自分を蔑むような言葉を続ける伊吹さんに、俺は仏頂面をしてみせた。
「なんか今のは……ジジくさかったっすけど」
「あれ、そうでした?」
「うん」
伊吹さんはこんなに素敵な人で、誰もが彼を慕っているのに、その魅力を自分で全然わかっていない。
「伊吹さんはカッコいいし、素敵です。じゃなきゃ俺、こんなに惚れませんよ」
俺の言葉に、伊吹さんは困り顔で笑みをこぼした。頬が赤くなっているのは、たぶん気のせいではないだろう。
「俺からしたら、伊吹さんのほうが高嶺の花なんですからね。伊吹さんは人気者だし、俺はアサヒさんみたいにカッコよくないし」
「なに言ってるんですか! アサヒなんかより、紫苑さんのほうが数百倍はカッコいいですよ!」
「はは……それはさすがに嘘でしょ。ダウト」
「嘘じゃないってば! 少なくとも、紫苑さんは僕の好み、ドンピシャなんです……! 教育係として顔を合わせたときも、若いのに落ち着いてて、硬派でカッコいいと思ってたし、数字訊かれたときも、お客さんにアドバイス求められるときも、すぐ答えられるところとか、こっちに的確に指示くれたり、さりげなくフォローに回ってくれるところとか……」
「お……おっす」
「しかも、あんまり誰とも深く関わっていなさそうで、そこがまた硬派な感じでいいなと思ってたのに……それなのに、桜介さんとはすっごく仲良さそうで、僕……一時期、桜介さんが本気で羨ましかったんですからね」
「お……ッす」
不意打ちで、しかも責められているかのように口説かれ、言葉を失う。同時に伊吹さんも恥ずかしそうに顔を伏せ、無言になった。互いに無言のまま、照れくささを誤魔化すように、コーヒーを飲む。
伊吹さん、桜介さんにヤキモチ焼いてたんだ……。
恥ずかしくて、けれど嬉しくて、もうずっと、心臓は早鐘のごとく高鳴っていた。ふと、隣の伊吹さんを見れば、長く伸びた髪の隙間に見える、耳のふちが真っ赤に染まっている。きっと彼も同じだ。照れくさくて恥ずかしくてたまらなくて、けれどずっと心の中に秘めていた想いを、今、言葉にして伝えてくれた。
「伊吹さん」
俺が名を呼ぶと、伊吹さんがゆっくりと顔を上げて、視線をこちらに移す。遠慮がちで――だが、たしかに熱のこもった視線がいじらしくて、可愛くてたまらなかった。
「俺は、あなたが初恋なんです。だから、たぶん……不慣れなことばっかで、めんどくさいことも多いかもしれないっすけど……でも、絶対伊吹さんのこと、めちゃくちゃ大事にするって約束しますから。だから……付き合ってくれませんか。俺と」
俺の言葉に、伊吹さんが頷く。満面な笑みに、ひと粒の涙が目尻で光ったあと、瞬きと同時に頬を転がって落ちていく。俺は思わず、彼の体を抱きよせ、ぎゅうっと抱きしめた。
「どうしよ……すっごく嬉しい。だって絶対、絶対……無理だと思ってたのに……」
腕の中で、伊吹さんが呟くように言った。震えるような声に、きゅうっと胸の奥が苦しくなって、俺はめいっぱい強く、その体を抱きしめる。
「俺も、やばいです……心臓爆発しそう」
そのまま、しばらく伊吹さんを抱きしめていたが、やがて。伊吹さんは顔を上げる。これまでになく近づいた距離に、これまでになく心臓は高鳴って、体じゅうに熱を送っていた。
「あの、紫苑さん」
「はい……」
「キス、しても大丈夫?」
訊かれた瞬間、体の熱がぶわっと急上昇するような感覚に陥った。ねだるような声と、見たこともない色気のある視線にドキドキが止まらない。視線は彼の瞳から、自然と唇へ移ってしまう。見慣れた口元のほくろまでが、艶やかに見えてならず、体が力んでしまう。
「だめかな……」
「キ……ッ、はい、大丈夫ッす……!」
高揚感と熱に浮かされて答えると、伊吹さんが嬉しそうに目を細めた。そうして、俺の瞳から、唇へゆっくりと視線を移していく。それだけのことなのに、ゾクゾクするほど色っぽい。この人が男だとわかっているのに、わずかに腹の下が疼きはじめている。俺は今、この人が欲しいのだ。
ゆっくり顔が近づいて、俺は反射的に目を瞑る。その瞬間、唇にそっと、柔らかな熱が重なった。呼吸を止めたのは、おそらくわずか数秒。だが、その数秒間は、時間が止まったような感覚があった。
唇が離れて、目を開けると、伊吹さんが「ふふっ」と笑みをこぼした。照れくさそうな笑みが年齢を感じさせないほどに可愛くて、気付けば俺まで頬が緩んでしまう。だが、好きな人とのキスの感触は、恋愛初心者な俺に、危険な欲望を植えつけた。
もう一度。今度はもっと長く……してみたい。
心の声が伝わってしまったのだろうか。伊吹さんは俺の頬をそっと撫でて訊く。
「もうちょっと、してみる?」
「うん……あの、目とか……閉じてていいんすかね、こういうときって……」
「どっちでも。僕は目を閉じてたほうが好きかな。唇の感触とか、そのほうがちゃんと感じられる気がして」
「へぇ――……」
気の抜けた声で、相槌を打ったあと。俺の唇は再び伊吹さんにふさがれる。俺は目を閉じた。キスはさっきよりも少し長くて、さっきよりもうんと柔らかく、温かく感じる。その感触にうっとりとしながら、胸の奥がきゅうっと苦しくなる。
「キス、二回もしちゃったね」
そう言って、恥ずかしそうに笑みをこぼす伊吹さんは、途方もなく可愛くて、愛おしい。けれど、初恋を叶えたばかりの俺はまだ、あまりに恋に不慣れだ。猛烈に照れくさくて、恥ずかしくてたまらず、言葉も出なくなって、彼を抱きしめるだけで精一杯だった。




