7-2
時間が止まったみたいだった。伊吹さんが目をまん丸くして、瞬きもせず、俺を見つめている。俺も自分自身の言葉に驚いていた。だが、一度言葉に出てしまったものは、もう取り消すことはできない。
かと言って、ここで誤魔化してしまうのも嫌だった。好きになったことを誤魔化すのは、まるで俺自身がこの気持ちを否定しているように感じたからだ。
「あ――……えっと、すみません。急に……変なこと言って、驚かせちゃった」
さらっと告白してしまったせいで、忘却していた緊張が、一気に波のように押し寄せてくる。伊吹さんがやっと瞬きをして――だが、目をぱちくりさせているのを見て、これはまたしくじったかもしれない、と思いながら、それでも、否定も訂正もしない。もう引き返せないところまで来ている自覚はある。それでも伝えたくて、俺はもう一度言った。
「でも、伊吹さん。俺、ほんとに好きなんです」
「あ、あの……ちょっと待っ――」
「……その、好きな人じゃなくて、俺じゃだめですか。付き合うの……」
「えっ、つ、付き――待って、待って待って……!」
途端に伊吹さんは頭を抱えて、おろおろしはじめる。だが、何度か深呼吸をしてから、咳ばらいをしたあと、おそるおそる訊ねた。
「えっと……今のは、冗談ではないんですよね?」
「うん」
俺が頷くと、伊吹さんは顔を手で覆って隠してしまった。それがどういう意味なのかわからず、俺は口を真一文字に結んだまま、伊吹さんの返事を待つ。
都合のいい返事を期待してはいない。伊吹さんに想い人がいることは、ちゃんと理解している。ただ、思わず告白してしまったのは、あまりに伊吹さんが可愛かったからだ。じゃがいも泥棒のタヌキに夢中になって、キラキラした瞳で刑事ごっこをする彼に、俺の恋愛ボルテージは爆上がりしてしまった。
俺はずっと気付いてほしかったのかもしれない。伊吹さんの恋人に俺が立候補していること。好きな人を真っすぐに想い続ける彼を素敵だと思いながら、気付かない想い人ではなく、俺を見てほしいと密かに願っていることも。
そもそも、その想い人というのも、伊吹さんの近くにいながら、彼の魅力に気付けないのだから、相当見る目のない男だ。たとえ、外見がアサヒさんのように整っていても、俺のほうが絶対に伊吹さんを幸せにできる。そんな大言壮語を腹の内側に抱えながら、俺は緊張で胸を高鳴らせ、伊吹さんが返事をくれるのを待った。
そのまま、数分経っただろうか。明らかに動揺していた伊吹さんは、ようやく落ち着きを取り戻して、顔を覆っていた手を放した。
「信じられない……紫苑さんから、好きって言ってもらえるなんて……」
「すみません。好きな人がいるって知ってるのに、困っちゃいますよね」
「ううん、嬉しいです。まだ、ちょっと半信半疑だけど……」
「嘘とか冗談じゃないっすから。俺、割と本気で惚れて……ます」
念を押すように俺は言う。すると、伊吹さんは「はぁ」とため息を吐いた。それがどういうため息なのかはわからない。ただ、なんとなく迷惑そうには見えなかった。それだけでもひどく安堵して、俺は報われたような心地になっていた。
「あのね、紫苑さん。僕は……」
「はい」
伊吹さんの返事が聞きたい。けれど、同じくらい聞きたくなくて、余計に緊張が高まる。想い人がいる伊吹さんに、いい返事をもらえるはずがないのだから、この後、俺はきっと盛大にフラれるのだろう。だが、覚悟はしている。これは自分で蒔いた種だ。後悔もない。伊吹さんを好きになったことも、告白してしまったことも。自分でちゃんと納得している。
俺はぐっと拳を握る。――だが、ちょうどその時だった。
「おーい、なーにやってんだよー!」
不意に、背後からまったく緊張感のない声が飛んできて、俺はビクッと肩を震わせる。声の主は桜介さんだ。おそらく、今日は彼が鍵当番なのだろう。伊吹さんも慌てて振り返った。
「もう鍵、閉めんぞー!」
「あっ、はい! 今、行きます!」
ひとまず、迷惑をかけてはならないと、俺は急いで返事をして、駆け出そうとした。だが――。
「紫苑さん……待って!」
「でも――」
「すぐ……すぐ済みますから」
伊吹さんがそう言うので、俺は彼に向き直る。それから数秒、伊吹さんは黙ったまま、何度か深呼吸をした。俺はごくんと生唾を飲む。極度の緊張で、体が揺れているみたいだった。だが、ほどなくすると、伊吹さんは言う。
「あのね……あの、僕も……なんですよ」
「え――?」
「僕も、好きなんです。紫苑さんのこと……」
「へぇ……っ、えっ、は……?」
素っ頓狂な声が出てしまって、心臓の鼓動が一気に速くなる。思考が止まり、なにを返せばいいのかわからない。口をパクパクさせてはみるが、言葉が出てこなかった。
「と、とりあえず行きましょうか! 桜介さん待たせてるし」
俺は頭の中が真っ白になったまま、頷く。そうして、桜介さんのところへ急いで走り、休憩室から荷物を取り出すと、伊吹さんと一緒に店を出た。
***
珍しく真面目に鍵当番をこなす桜介さんに小言を言われながら、俺は伊吹さんと店を出る。桜介さんはいつもの通り、バイクで帰ってしまったが、どうもなにか嗅ぎつけられているような気がしてならなかった。
まさか、俺の告白を聞いていたわけでもないと思うが、彼に余計なことを知られると面倒なので、しばらく警戒しておかなければならない。とはいえ、俺もまだ脳内の整理整頓が追いついていない状態で、こんがらがっている。
さっき交わした伊吹さんとの会話の記憶も、なんだか現実味がなくて、俺は勝手に自分の妄想劇を、記憶だと勘違いしているんじゃないか、と自分を疑ってもいた。――と、そんなことを考えていた時。伊吹さんが沈黙を破る。
「紫苑さん、明日ってたしか……休みでしたよね?」
「うん。伊吹さんは、遅番でしたっけ」
「そう。遅番」
互いに、シフトを確認した。妙に喉が渇いて、水筒にまだ残っていた麦茶を思い出したが、緊張のあまり、かばんを漁る気にならない。夢の中では、都合のいい展開を見せられているような、ふわふわした感覚が続いていた。だが、次の瞬間。伊吹さんは俺のふわふわした高揚感を、一瞬で吹き飛ばす提案を持ちかける。
「あの……よかったら、なんですけど。これから僕ん家へ来ませんか……?」
「え……っ!」
驚くあまりに、声を上げてしまった。その声は沼沿いの道に響き渡り、風に吹かれ、流され、暗い沼の沖合へ消えていく。途端に、伊吹さんは慌てはじめ、弁解をするように話し始めた。
「いや、あのっ、あのですね! ちゃんと話をしたくて……公園とかでもいいんですけど、この季節はあんまりよくないというか……とにかく蚊に刺されますから」
「あぁ、たしかに……」
手賀沼沿いには、あちこちに遊歩道や公園があって、ベンチも東屋もある。男同士だとしても、両想いだと判明したばかりのふたりが話をするのには、ちょうどいい場所ばかりだ。しかし、繁殖のラストスパートに入った秋の蚊は、虫よけスプレーも効かないほどがっついている。彼らの餌食になるのはごめんだ。
「それに、ラーメン屋で、ラーメンすすりながらする話でもないと思って……僕ん家なら、自転車で五分くらいなんです。……どうでしょうか?」
伊吹さんに提案されて、俺はこく、と頷いた。これから俺と伊吹さんが話すことは、公の場で談笑を交えながらすることでもない。ただ、両想いだとわかったせいで、ひどく緊張する。
「いいんですか……」
「はい……逆にあの、来てくれますか?」
「い、行きますよ、そりゃあ!」
「じゃあ、行きましょっか……」
そう言って、伊吹さんは静かに自転車にまたがり、沼沿いの道を、駅前方面へ向かって走り出す。俺も慌てて自転車にまたがり、彼の後を追った。




