7-1
花火大会の夜。俺の初恋の芽が出てから、約ひと月が経った。すでに夏は過ぎ、秋の彼岸シーズンに入っている。日の入りも早くなり、もう五時を過ぎると暗くなる。閉店時間も早まって、来月からは六時閉店だ。
伊吹さんの片想いは今も継続中で、相変わらず、相手は誰だかわからない。時々、気になって進展を探ってみるが、伊吹さんはいつも「変わりないですね」と答えるだけだった。ただ、進展していないことがわかると、俺はいつも途方もなく安心した。
伊吹さんの恋は伊吹さんの中で、俺の恋は俺の中で、密かに静かに、順調に根を張り続けている。見た目にはわからないかもしれないが、着実に育っている。少なくとも、俺の初恋の芽は、ひと月前よりもずいぶんと成長して、大きく育っていた。
ただし、ひと月、片想いを続けてわかったことがある。恋というやつはものすごく煩わしいのに、ひどく幸せな心地にもさせてくれる、麻薬ようなものだということだ。
俺は伊吹さんに会えると嬉しくて、彼と少しでも同じ時間を過ごせると、それだけで胸がいっぱいになる。それが仕事でも、休日の庭仕事でも関係ない。今にも飛び跳ねたいような心地になったり、嬉しいあまりに勝手に顔がにやけたりもする。だが、その一方でむしゃくしゃするような煩わしさもあった。
伊吹さんと一緒に仕事を熟すチトくんや、ほかのアルバイト、パートさん、桜介さんにまで妬いてしまうのだ。楽しそうに仕事をしている姿に見惚れながら、どうしようもなく彼の視界に入りたくなったり、なんの話をしているのか気になって、こっそり耳をそばだてたりもした。俺は案外、嫉妬深い方なのかもしれない。あまりにカッコ悪くて嫌になるけれど、伊吹さんのことになると、俺はどうしても感情的になってしまう。
そんな日々をやり過ごしながら、俺の中で、初恋はなおもゆっくりゆっくり育っていく。あるときは嫉妬のストレスに耐え、あるときは伊吹さんとの庭仕事で癒され、手料理をごちそうになれば、多幸感で満たされ、少しずつだが、確かに。養分を蓄えていた。
ところが、そんなある日。十月の上旬。園芸店内では、九月の終わりから、秋植え用じゃがいもの種イモを、何者かにかじられるという事件が立て続けに起こっていた。――とはいえ、こんなことはよくある話で、犯人はおおかた、タヌキかハクビシンか――野ネズミあたりだ。
どんなにバリケードを張っても、彼らを防ぐことは難しく、毎年少なからず被害を受けている。父も「多少は仕方ない。動物も腹が減ってるんだろうさ」と、野生動物には寛容だった。そんな矢先のことだった。
「紫苑さん……ッ!」
「え――」
「ちょっ、ちょっと来てください!」
仕事終わり、休憩室で帰り支度をしていた俺のところへ、伊吹さんがすっ飛んでやってきた。彼は俺の手を取り、強引に引いて休憩室を飛び出していく。彼は外の見回りをしていたはずだが、なにかあったのだろうか。
「伊吹さんッ、どうしたんすか……!」
「しッ、静かに」
伊吹さんは、俺の手を掴んだまま、口元に人差し指を当てて、声をひそめた。そうして、外の苗売り場の奥――果樹の辺りまで来て、立ち止まる。俺は眉をひん曲げた。
「いったいなにが――」
「しッ! あっ、ほら」
伊吹さんが暗闇に向かって指を差す。見れば、果樹売り場の陰、アスファルトの上に光るものがあった。一つ、二つ、三つ、四つ。あれは――動物の目だ。
「あぁ、あれ――」
「秋じゃがの犯人ですよ。タヌ公の番じゃないかと思うんです……!」
伊吹さんが言う。声のボリュームを最小限に落としながら、ずいぶん気合いの入った表情だ。俺は思わず、噴き出しそうになった。暗がりではあったが、店の外灯に照らされて、伊吹さんの瞳がキラキラと輝いているのがわかったからだ。しかし、ここでゲラゲラと笑い声を上げれば、番のタヌキが逃げてしまうかもしれない。寸でのところで俺は呼吸を整えて言う。
「……あいつらが食ってるとこ、見たんですか?」
「いえ。でも、さっき秋じゃがの残りを見たら、新しくかじったあとがありました。そのすぐそばに彼らがいたんで、おそらく間違いないでしょう」
「なるほど、状況証拠ってことか」
「でも、ほかに考えられませんよ。少なくとも、今日の犯行は彼らです。――灯りで照らしたら逃げちゃうかなぁ。もうちょっとよく見たいんだけど……あっ!」
俺と伊吹さんがこそこそ物陰から見ていることに気付いたのか、丸いふわふわしたシルエットがふたつ、すたこらさっさと足早に遠ざかり、敷地内から出ていく。その後ろ姿を見つめながら、伊吹さんはがっくりと肩を落とした。
「あーもう……逃げちゃったぁ……」
「……ぶはッ」
伊吹さんの落胆した様子を見て、俺はもう堪えきれなかった。我慢していたせいで、笑いが止まらない。今の彼はまるで、犯人に逃げられた刑事のようだが、体格はいいのに、あまりに情けない声がアンバランスでなんだか可愛い。声を上げ、腹を抱えてゲラゲラ笑っていると、伊吹さんも釣られて笑い始める。
「いきなりなにかと思ったら……タヌキ!」
「す、すみません……! だって僕、タヌ公見たことなかったから……ちょっと興奮しちゃって」
「いや、なんか突然、刑事ごっこみたいになって……ッ、伊吹さんすげえ気合い入ってるし!」
「えっ、そうでした?」
俺は笑い転げるあまり、もう言葉も出なくなってしまって、ひたすら腹を抱えて笑う。伊吹さんは恥ずかしそうに頬を掻きながら、タヌキの番が去っていった方を見つめている。
「秋じゃが、おいしかったですかねぇ。あれ、アンデスレッドでしたよ」
アンデスレッドは、皮がさつまいものように赤く、中は黄色のじゃがいもの品種だ。熱を入れるとホクホクになって、栗のような甘みがある。うちの店では比較的人気があって、被害に遭ったアンデスレッドはたしか――量り売りで残った、最後の端数分だったはずだ。
「アンデス食ってったんすか? まーた旨いやつを……」
「彼らも案外グルメなのかもしれませんね。でも……残してたってことは、ちょっと硬かったのかも」
ふふ、と笑みをこぼした横顔が途方もなく愛おしい。その瞬間、俺の胸はきゅうっと縮んだように苦しくなって、ほんのわずかに息を止めた。だが、すぐに吐き出した。直後、口からこぼれ出たのは、夏の終わりに芽生えたばかりの、まだ生育途中の気持ちだった。
「あぁー! だめだ……やっぱすげえ可愛い……」
「ですねぇ。僕もはじめて見たけど、タヌキのお尻があんなに可愛いとは――」
「違うって、伊吹さんのこと」
「……へ?」
伊吹さんはきょとんとして、俺を見つめている。言葉の意味がわからなかったのだろう。俺はタヌキのお尻のことを言ってるんじゃないと、彼に理解してもらいたくて、もう一度、言った。ただ、それが同時に、恋の告白をしていたということに気付いたのは、言葉が出たあとだった。
「伊吹さんって、ほんっと可愛いですよ。俺、すげえ好きです」




