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「いや……ッ、お、俺はべつにどっちでもいいんですけど、明日、伊吹さんシフト休みだったよな、と思って……」
「あぁ、うん。そうですね……」
「お、俺も遅番なんで……だから、その、えっと……ゆっくりしていけばいいかなと……伊吹さん、お酒飲んだし」
伊吹さんは隣で、目をぱちくりさせている。俺はますます自分の幼さを思い知り、悲しくなった。ろくに恋なんかしたこともないのに、さっき気付かされたばかりの想いに舞い上がり、欲望を膨らませて誘ってみれば、呆れるほどに下手くそだ。思わず、ため息が漏れた。
「……すみません。いきなり言われても無理っすよね」
「いえ、うーんと……今日は洗濯物、そのままにしてきちゃったから……」
「そうですよね。すみません……」
頬が発火しそうなほど熱を持っている。俺は無心で皿洗いを終え、恥ずかしさをこらえながら、ひたすらにスポンジを洗った。視界の隅で、伊吹さんが少しだけ頭を下げる。
「……気遣ってくれて、ありがとうございます」
「いえ……」
「今度機会があったら、ぜひお邪魔させてください」
「あぁ、はい。いつでも、それはどうぞ……」
これは明らかに遠回しに断られている。それもそのはず、伊吹さんが今、世界で一番そばにいたいのは、好きな人であって、俺ではない。俺と毎週、庭仕事はしても、ひと晩一緒にいるのは煩わしいに決まっている。
あぁ……最悪だぁ。穴があったら入りたい……。
唯一、救いなのは、密かに芽吹いた気持ちにはまだ、気付かれていないことだ。それに気付き、安堵して、ふうっとため息を吐く。すると、伊吹さんが訊ねた。
「紫苑さん、そういえばずっと聞いてみたかったんですけど」
「はい?」
「紫苑さんって、どんな人が好きですか?」
「えっ! ど、ど……ッ」
何気ない会話の中で、まさにタイムリーな話題に触れられて、思わずぶわっと頬が熱を持つ。想い人にそれを訊かれるとは、俺はまったく想定していなかった。
「ど……どんな人……って?」
「好きなタイプですよ。芸能人とか、アイドルとかでもいいし」
「はぁ……好きなタイプ……」
「さっき、バイトの子たちと話しててね。そういえば、紫苑さんとそういう話、あんまりしたことなかったなぁと思ったんです」
「あぁ、まぁ……」
「ほら、僕の話ばっかり聞いてもらっちゃったから。紫苑さんはどうなのかなって」
突然、好きなタイプを訊かれて、俺は動揺を隠しきれず、口ごもってしまった。好きな人は、目の前にいる。その人に好きなタイプを訊かれるのは、少し複雑だ。
あなたです……なんて、言えないよな。
恋愛をまともにしてこなかった俺に、好きなタイプという基準はなかった。今、目の前にいる伊吹さんこそが、好きなタイプだ。この人以外には例がない。しかし、ここでデタラメを答える気にもなれず、俺は伊吹さんを見つめ、ひとつひとつ、好きな人の好きなところを挙げていくことにした。
「えっと、お、俺が好きな……タイプは、優しくて……穏やかな人で」
「優しくて穏やか……なるほど」
「それから……いつも、なんにでも一生懸命で、頑張り屋さんで……」
「頑張り屋さん……」
「あと、美人で、料理上手で、色っぽくて……カッコいい人……すかね」
そこまで話した途端、伊吹さんは驚いたように目を丸くすると「それ、完璧ウーマンじゃないですか」と言って、少しだけ寂しそうに笑った。
***
夜十一時頃、伊吹さんは帰ってしまった。俺は風呂に浸かり、伊吹さんのことを悶々と考える。うっかり長湯をして、のぼせそうになりながら風呂から出て、居間で氷菓系のアイスをかじりながら、伊吹さんのことを考え、歯を磨いて、寝支度をしながら、また伊吹さんのことを考える。
なにをしていても、生まれたばかりの気持ちに支配されてしまう。伊吹さんは今、なにをしているんだろうとか、もう家に着いて、洗濯物を取り込んだろうか、とか。
彼のことを考えていると、途方もなく幸せな心地になれた。トクトクトク……と、心臓の鼓動がほんのわずかに速くなっていき、胸の内側がじんわりと熱を持っていく。誰かのことを考えて、こんな感覚になったのは初めてだった。
恋ってすごいな……。
本能というやつだろうか。記憶が正しければ、俺にとってこの恋は初恋だった。幼稚園の頃から、交友関係が狭かった俺には、恋をした記憶は一度もない。それなのに、伊吹さんを好きだという気持ちを、こんなにも理解している。誰に教わったわけでもないのに、不思議なものだ。
友情とは違う、恋愛感情。それは友情や単純な好意よりもうんと熱くて、重くて、けれど多幸感に満ちた気持ち。彼だけに抱いた特別な感情だった。ただ、悲しいのは、この恋があまりに無謀で、これっぽっちの見込みもないことだった。
伊吹さんは高嶺の花に恋をしていると話していたが、俺もまた、似たようなものだ。俺は俺で、絶対に手が届かない伊吹さんに恋をしているのだから。
「参ったなぁー……どうしよう」
ひとり、ベッドの上でゴロゴロしながらこの先を考えてみるが、今はその余裕がない。告白しようとか、伊吹さんを振り向かせようとか、そのためになにか計画を練ろういうよりも、ただ、今の俺は彼に会いたくて、会いたくてたまらない。声を聞いて、話して、彼の笑った顔が見たい。それだけで嬉しい。まったく単純なものだった。
明日、伊吹さんはオフだから、仕事へ行っても会えない。しかし、会えないと思うと余計に会いたくなる。明後日になれば、また会えるのに、それまで待つのが煩わしい。
「あ、明日……ごはんとか、誘ってみようかな」
独り言を呟きながら、天井を見つめ――スマホを手に取る。職場関係の連絡先グループから、伊吹さんの名前を見つけ、メッセージアプリを開く。だが、すぐにかぶりを振った。明日、伊吹さんは一日オフなのだから、もしかしたら予定があるかもしれない。それこそ好きな人とデートかもしれない。
「邪魔しちゃ悪いか……」
本当は邪魔になってもいいから、伊吹さんを誘いたい。ラーメン以外は食べに行ったことがないから、たまにはちょっとおしゃれなカフェとか、話題の店へ行ってみたい。そうして、伊吹さんが好きな人のことを忘れてしまうほど、彼を笑わせて、一緒にいたい。俺はどうにかして、伊吹さんを振り向かせたかった。
「俺じゃ……だめかな。付き合うの……」
こんなことを、本気で口走ってしまうくらいには、強く惹かれている。彼を想うとこれまで感じたことがないほど、多幸感で満たされるのに、成就する見込みがないことには変わりなく、俺はひとまず気持ちを抑えて眠るしかなかった。




