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「――あ、よかったら、僕も伊吹でいいです。畠山って、苗字が長いので……」
「あぁ……たしかにそうっすね。じゃあ、そうします」
抑揚のない口調でそう返しながら、ロッカーを開け、俺はホッと息を吐く。ともかくして、どうやら今回の中途スタッフ、伊吹さんは、腰が低くて礼儀正しいおっさんのようだ。
この業界で勤続十年を超えるベテランが中途採用で、しかもオーナーである父のコネで入ってきたのだから、それなりに経験も知識も豊富で、プライドだってそれなりにあるに違いない。それなのに、この店の中でも最も若輩で、経験も未熟な俺の下で働くなんて、本当は納得がいかず、嫌味を言われてマウントでも取られるかもしれない――と、俺は彼の心情を勝手にネガティブに想像していた。実際、経験がある人の中には、そういったケースがかなり多いのだ。
ところが、伊吹さんの第一印象は、かなりよかった。どう見ても、彼が俺をバカにしたり、マウントを取ってくるようには見えない。ついでにいえば、美人。――いや、それは仕事上どうでもいいわけだが。
「何度か、こちらのお店には来たことがあったんです。ここはいい店舗ですよね。周辺環境も自然がいっぱいだし」
ふたりきりの休憩室で、沈黙が気まずくなったのだろうか。伊吹さんが話し出した。
「そうですかね……ただ、田舎なだけっすよ」
この店舗を褒める人は、必ずそれを言うが、その多くが、この町の夜を知らない。ネオンの輝く都会に慣れている人は、夜になると、この近辺の外灯の少なさに驚いて「田舎もほどほどがいい」と言い出すのがオチだった。だが――。
「いえ、俺がいた店舗は、街中のアーケード街の中の花屋だったんで、季節感もあまりなくて。こういうお店にはずうっと憧れていたんです。だから、本当に夢みたいで……」
「へー……」
「さっき、木村さんに聞いたら、夜にはタヌキやハクビシンが出るんだそうですね」
木村さん――というのは、さっき、俺が出勤してくるなり、伊吹さんが美人だという要らない情報を伝えた先輩スタッフ、木村桜介さんだ。彼は悪人ではないが、ひと回りも歳下の俺が心配になるくらい、おちゃらけている。俺は眉を上げた。
「あぁ、そんなもん、そこら辺にうじゃうじゃいま――」
気のない返事をしながら、振り返る。だが、その瞬間。途端に目を瞠った。伊吹さんが目をキラキラさせながら、こっちを見つめていたからだ。こんなに目をキラキラさせて声を弾ませる三十五歳は珍しい。その表情は、まるで少年のようだった。
「うじゃうじゃ……! うわぁ、すごい。見てみたいなぁ……僕の実家の方も田舎なので動物は出ますけど、近年は開発が進んでるせいか、だいぶ減っちゃってるんですよね」
「いや……タヌ公はともかく、ハクビシンは冗談抜きで狂暴だし、危ないっすよ。そんじゃなくても病気いっぱい持ってるんで――」
「タヌ公……?」
「あぁ、えっと……タヌキはノロくてかわいいんで。あだ名みたいなもんです……」
「あだ名かぁ。僕もタヌ公って呼んでもいいですか?」
「べつに、俺のタヌキじゃないんで、好きにしてください」
「そうさせていただきます」
物腰が柔らかそうな雰囲気を感じるのは、人のよさそうな笑顔のせいだろうか。細めた二重の瞳は澄んでいて、きらめきが見え、表情のひとつひとつがとても華やかに見える。
ゆるいクセのついた茶髪も、明るすぎなくて品がいい。さらに、がっしりとした肩幅とたくましい筋肉がついた体が、この業界のベテランの風格を感じさせた。それなのに、この人のよさそうな感じが、妙に親しみやすい雰囲気を漂わせている。
園芸部も切り花部も、花の仕事は重いダンベルを上げ下げするような仕事ばかりだ。切り花の桶の中身は、そのほとんどが水。苗がびっしり入れられたトレーは、そのほとんどが土。
水を通したホースだって、持って歩くとなかなかに重さを感じる。それらを毎日扱うので、ただ働いているだけで、自然と筋肉がついていく。男性、女性関係なく、この業界に入ると、みんながみるみるたくましくなっていくものなのだ。
ベテランであればあるほど、背中や首の後ろにつく筋肉がたくましく育つ。その体つきを見れば、たしかに経験を積んできたのだとわかる。そんな彼を前にして、俺はなんだか恐縮してしまった。
「伊吹さん、すいませんね。一応、おれが教育担当なんですけど……」
「はい、お聞きしてますが……どうして謝るんです?」
「いえ。俺みたいな若僧に教育されるんじゃ、嫌かなぁと思って」
エプロンをつけて、腰紐を結びながら、俺は言う。すると、伊吹さんは慌ててかぶりを振った。
「いえ、そんなことはありません。もちろん、経験はそれなりに積んできましたけど、ここでは僕は、あくまで新人だと思ってますから」
しっかりとした口調で、伊吹さんは答える。それは用意してきた言葉を並べたように完璧な受け答えだったが、明らかに感情がこもり、信念が込められていた。おそらく本心なのだろう。疑いようもなく、伊吹さんは善人だった。
「……嫌じゃないなら、よかったっすけど。ひとまず、この店のエリアの確認と、スタッフを紹介しますね」
「はい、お願いします」
俺は作業用エプロンに名札をつけ、ガーデニング用のポーチを腰につけると、伊吹さんを連れて休憩室を出た。そうして、事務所でインカムをつけて、伊吹さんにもそれを渡す。
「営業中、基本的にはこのインカムで情報を共有します。店内が広いので、大声で誰かを呼ぶと、お客さんがびっくりしますから、基本的にヘルプが欲しかったり、確認することがあれば、インカムでお願いします。このボタンを押して話すと、インカムをつけているスタッフになら、全員に伝わりますから」
「はい……」
やや弱い返事と表情で、俺は思う。彼はアーケード内の小さな店舗に勤務していた、と話していたから、こういう機材には、あまり慣れていないのかもしれない。
「こういうのは使ったこと、ありますか」
「いえ……実ははじめてで……」
「じゃあ、テストしましょう」
実際、こういうケースは珍しくない。俺は、インカムが正常かどうかをテストして見せたあとで、レジを案内した。最初は戸惑っても、慣れてしまえばどうということはないだろう。




