3-7
伊吹さんのお母さんが再び冷たい麦茶を出してくれたのだが、伊吹さんはずいぶんと張りきった様子で、麦茶をあっという間に飲み干すと、颯爽と台所へ行ってしまった。
「母さん、もうできそう?」
「うーんとね……あと三分かしら」
「ありがとうね」
伊吹さんのお母さんは、台所でなにか作っていたのだろうか。伊吹さんは棚から皿や箸を取り出している。無駄のない動きで食事の支度をするふたりの様子を、俺は居間からぼんやりと眺めていた。しばらくすると、しょうゆと出汁のいい香りが漂ってきて、俺の腹がたちまち反応し、ぐるう……と、盛大に鳴く。この香りは、煮物だろうか。
俺は自然と肉じゃがを想像する。だし汁の染みたじゃがいもやニンジン、しらたきや豚肉。つい先日、ラーメン屋で、伊吹さんは得意料理にそれを挙げていた。
腹減ってきたぁ……。
――と、想像が膨らんだ直後。「ピーッ」という音が聞こえて、伊吹さんが「でーきた、できた」と声を弾ませた。今のは電子レンジの音だ。
伊吹さんはほくほく顔で、冷蔵庫からいくつも保存容器や小皿を取り出し、それをお盆の上に乗せている。そうして、それを居間の座卓まで持ってきて、次々に並べ始めた。
「うわ、うまそー……」
思わず声に出る。すると、伊吹さんが嬉しそうに微笑み、料理を指差しながら説明をはじめた。
「今日のために、夕べから仕込んでおいたんですよ。これはツクシの佃煮。こっちは菜の花のからし和え……と、これが新玉で作った無限玉ねぎ、こっちが花豆」
「へえ……」
「それと、今あっためたのが――メインなんですけど」
そう言いかけて、伊吹さんは再び台所へ戻り、電子レンジからなにかを慎重に取り出している。それが出てきた瞬間、俺はごくん、と息を呑んだ。
皿の上には、なにやら肉料理が盛り付けてあるが、見る限り、ものすごいボリュームだ。そして、立ちのぼる湯気とともに漂うのは、絶対にうまそうな甘い醤油の香り。
「これ、僕の得意料理なんです。鶏の照り焼き。マヨネーズかけてもおいしいんですよ。もうすぐ白飯が炊けますから、そしたらごはんにしましょう!」
伊吹さんがそう言った途端、空気を読んだようなタイミングで、炊飯器のピーッ、ピーッという音が鳴り響いた。
「すげえ……伊吹さんちの炊飯器、生きてます?」
本気で疑いたくなるほど、絶妙なタイミングだった。伊吹さんはけらけら笑って「まさか」と言わんばかりにかぶりを振っている。
「お肉は今朝焼いたんですけど、しっかり下処理したから硬くなってないと思うんです」
聞けば、今日の昼ごはんはみんな伊吹さんが準備したもので、伊吹さんのお母さんは炊飯ボタンを押しただけだった――というから驚かされる。
俺は事前に伊吹さんの手料理をごちそうになると約束していたにもかかわらず、てっきり、テーブルの上に並んだそれが、伊吹さんの手料理ではなく、お母さんの手料理かと思っていた。料理上手だと聞いてはいたが、それにはまるで、旅館の食事のように丁寧に作られた雰囲気があったからだ。
「じゃあ、これ……本当に全部伊吹さんの手料理……?」
「そうです! たぶん、おいしいはず……なんですけど」
「伊吹ったら、今日のためにずいぶんと張りきってたんですよ。数日前から準備はじめちゃって」
「それは……ツクシがあったからだよ。ツクシは下ごしらえに時間かかるから」
照れくさそうな伊吹さんの言い訳に、お母さんは、肩をすくめてみせ、それから俺に会釈をして、ニコッと笑みをくれた。
「それじゃ、伊吹。私はそろそろお父さんのところに行ってくるからね」
「うん、ありがとう。いってらっしゃい」
「紫苑さん、失礼します。ゆっくりしてってください」
「あ、どうも……」
伊吹さんのお母さんは、そう言ってもう一度、今度は丁寧に俺に頭を下げると、静かに家を出て行った。どうやら、施設にいる親父さんに会いに行くようだ。
「大変ですね、お父さん……」
「うん……いや、施設に入ってからは、ずいぶん楽になりました。倒れる前は、かなり怒りっぽくなってたし、母には暴力もするようになっちゃったから、毎日どうしたもんかと思ってたけど。倒れて、施設に入ってからは、母も寂しいだろうし、会いに行くのも大変かもしれないけど、ホッとしてるとは思うんです」
「そっか……」
それから、俺と伊吹さんは向かい合って昼食をとった。伊吹さんの手料理は、どれも見た目通りにおいしかったが、なんだか懐かしい気分にさせられる。母の味とは違う、父が作る荒っぽい手料理とも違う、自分のずぼらな料理とも絶対に違う、だが、とても懐かしく、体に染み入っていくような味だった。
「おいしい。伊吹さん、料理ほんとうまいっすね。店、開けるんじゃないっすか?」
それはお世辞でもなんでもなく、シンプルな感想だった。俺はこの人の手料理が食べられる店だったら、一生でも通い詰められそうだと本気で思ったのだ。
「本当ですか? 嬉しいな。実は昔、ちょっとだけ料理には凝ったことがあって、その名残りでひと通りのものは作れるようになったんです」
伊吹さんはそう言って嬉しそうに微笑んだ。食事をしながら、俺は想像する。きっと、この人はなにに対してもこうやって、丁寧に真っすぐ取り組んで、素敵なものを作るのだ。そうして、誰も彼もを、幸せな気持ちにさせてしまうのだろう。
「伊吹さんって、モテそう」
「え……!」
「あ……すいません、声に出てた……」
心の中だけで呟いたはずだったのに、俺はうっかり声に出して呟いていた。伊吹さんも、いきなりそんなことを言われて驚いているのだろう。目をぱちくりさせて、こっちを見つめている。
「なんとなく……そう思って。料理できて、寄せ植えとか、ああいう細々したものでも器用に作れて、人あたりも柔らかくて、見た目もかっこよくて、誰にでも優しいし」
「いや、ちょっと……ほ、褒めすぎですよ……」
「実際、店のみんなは伊吹さんのこと大好きだと思いますよ。少なくとも、スタッフのなかでは絶対モテてます」
伊吹さんは、お客にはもちろん、スタッフにも人気が高い。みんな伊吹さんがオフの日には寂しがっているし、休憩時間のタイミングがかぶると嬉しそうにしているスタッフもいるのを、俺は知っている。伊吹さんさえその気なら、おそらく引く手数多なのだろうが、伊吹さんは困ったような顔で笑みをこぼした。
「いやぁ……参っちゃいますね。でも、残念ながら僕、昔から好きな人には選ばれないタイプなんですよ」
伊吹さんはそう言って、へらっと笑みを見せる。その表情がひどく切なげに見えて、俺はとっさに頭を巡らせた。
これまで俺にはまともな恋愛経験がなかったし、こういう話題には特に疎い。こんなときなんて言ってあげたらいいのか、正解がわからなかった。ただ、伊吹さんが過去に、悲しい恋をしたのだということだけを、なんとなく察していたのだ。
「失恋とか、したんですか?」
「そうです……まぁ、最初からわかっていたことではあるんですけどね」
「失恋するって? 最初から?」
「ええ、ほら……高値の花ってやつですよ。僕に釣り合う人ではなかったから」
「ふうん……」
伊吹さんが恋していた相手は、どんな人だったのだろう。俺は勝手に脳内で想像してみる。
伊吹さんの生活のすべてを俺は知らないが、伊吹さんは俺から見てもかっこいいし、優しくて穏やかで、悪いところなんかひとつも思い浮かばない。それなのに、恋が叶わなかったなんて、相手は相当、理想が高い人だったのだろうか。そんなことをぼんやり考えていると、伊吹さんが訊いた。
「紫苑さんは?」
「え……俺っすか?」
「うん。紫苑さんこそ、クールに見えて実は彼女いそうです」
にこにこ顔で伊吹さんはそう言った。だが、俺は笑みを引きつらせる。残念ながら、これまで彼女はおろか、女友だちだって、できた例がない。同性の友人なら何人か思い当たるが、高校を卒業して以来会っていなかった。
「……それ、本気で言ってます?」
「はい、割と」
「いないっすよ。俺、そういうのと本当に縁がないタイプなんで」
「そっか……でも、きっとこの先、紫苑さんを好きになる人はいますよ。絶対に。僕が保証します」
伊吹さんはふふ、と笑みを浮かべてそう言うと、お椀の中に残っていたご飯をたいらげる。
どうしてなのか、理由はわからないが、俺はそのとき、ほんの一瞬、妙な違和感を得た。だが、その違和感は、会話が流れていくにつれ、消えていく。それは、伊吹さんの手料理がおいしかったのと、伊吹さんとの会話が楽しくて、彼と過ごす時間が、本当に心地よかったからだ。
ただ、俺はその時、呆れるほど鈍感で、伊吹さんがくれた言葉の中にある、とても小さく控えめなサインに、まったく気がつかなかった。




