挨拶
昨日の夕方、ロイドさんとの剣術訓練でこんなことを言われた。
「明日は、親しい人間に挨拶しておけ」
「挨拶、ですか?」
「ああ。死ぬかもしれないからな」
ロイドさんは、それ以上何も言わなかった。
その言葉が、ずっと頭に残っていた。
*
僕はリアとトーマスさんのいる畑へ向かった。
「ラルフ!」
畑仕事をしていたリアが、僕を見つけて手を振った。
「明日、河原に遊びにいこっ!」
「えっと……明日は、ちょっと」
「ちょっと?」
僕は言葉に詰まった。
「実は、ヘルビーストの討伐に行くことになったんだ」
リアの笑顔が消えた。
「……え?」
「ロイドさんと一緒に、魔の森で斥候をするんだ」
「なんでラルフが行くの?」
「僕の感覚が役に立つかもしれないって」
「でも、危ないんでしょ?」
「うん」
「ヘルビーストって、お父さんを怪我させた魔獣だよね?」
「……そうだよ」
リアは口を閉じた。
「ラルフは……怖くないの?」
「怖いよ。でも、僕にできることがあるなら、やってみたいんだ」
リアは俯いた。
「……そっか」
それきり、リアは何も聞かなかった。
しばらくして、トーマスさんが畑にやってきた。
「どうした?」
リアが僕を見た。
「お父さん、ラルフ、明日討伐に行くんだって」
トーマスさんは、僕を見た。
「……本当か」
「はい」
トーマスさんは手にしていた道具を置いた。
「ロイドさんも一緒なのか」
「はい。僕は斥候として参加します」
「そうか……」
短い返事だった。
けれど、トーマスさんの表情は晴れなかった。
「ラルフ。お前は、死ぬかもしれないところへ行くんだぞ」
「……分かっています」
「本当にか」
僕は答えられなかった。
分かっているつもりだった。ロイドさんからも、危険な仕事だと何度も聞いている。
それでも、自分が死ぬことを、どこまで考えられているのだろう。
トーマスさんは小さく息を吐いた。
「お前の親父さんたちがいない間、俺にできることがあればと思っていた」
トーマスさんは、少しだけ目を伏せた。
「……どうして、お前までそんな危ないところに行かなきゃならないんだ」
「……すみません」
「謝れと言ってるんじゃない」
トーマスさんは、僕をまっすぐ見た。
「お前に死んでほしくないんだ」
胸の奥が詰まった。
トーマスさんは、しばらく僕を見ていた。
「行くなと言って、お前が納得するなら、そう言う。だが……お前はもう、自分で決めたんだろう」
「……はい」
トーマスさんは頷いた。
そして、僕の肩に手を置いた。
「危なくなったら逃げろ。誰かを助けるために、お前まで死ぬんじゃないぞ」
「はい」
トーマスさんは僕の肩に置いた手に、少しだけ力を込めた。
「待ってるから」
「待ってるからな」
僕は顔を上げた。
何か返さなければと思ったのに、言葉が出てこなかった。
ただ、頷いた。
*
畑仕事を終えた僕は、エレナさんの薬屋へ向かった。
店に入ると、エレナさんが薬草を仕分けていた。
「いらっしゃい。あら、ラルフ。今日はどうしたの?」
「こんにちは。ポーションを買いたいんです」
「ポーション? どこか怪我でもしたの?」
「いえ、そうじゃなくて……」
少し迷ったあと、僕は事情を話した。
「明日の討伐に参加することになったんです。ロイドさんと一緒に、魔の森で斥候をします」
エレナさんの手が止まった。
「……あなたも行くの?」
「はい」
「どうして?」
「僕の感覚が役に立つかもしれないからです」
エレナさんは、しばらく僕を見つめていた。
「ラルフ。危険なことは分かっているのよね?」
「はい」
「……もう。どうしてあなたまで、そんな危ないところへ行かなきゃいけないの」
僕は返事ができなかった。
エレナさんは小さく息を吐いた。
「ごめんなさい。あなたが自分で決めたことなのにね。それで、ポーションを買いに来たの?」
「はい。何があるか分からないので、準備しておこうと思って」
僕は、薬草採集の仕事で稼いだお金を取り出した。
「分かったわ。必要なものを選びましょう」
エレナさんは、傷の手当てに使うものや出血を抑えるものを、一つずつ説明しながら選んでくれた。
僕が使い方を確認していると、エレナさんがふと口を開いた。
「……ラルフ。怖い?」
「怖いです」
「そうよね」
エレナさんはポーションを袋に入れながら言った。
「怖いと思うのは悪いことじゃないわ。怖いのに平気なふりをして、無茶をするほうが心配よ」
「……はい」
「危険だと思ったら逃げるのよ。いい?」
「分かりました」
会計を済ませようとすると、エレナさんが追加でいくつかポーションを袋に入れた。
「あの、エレナさん。これ、頼んだ数より多いです」
「おまけよ」
「でも、こんなに……」
「いいから持っていきなさい。手元に薬がなくて困るよりいいでしょう?」
「……ありがとうございます」
エレナさんは少し困ったように笑った。
「あなたに何かあったら、私は嫌よ。ミアの息子だからとか、仕事を手伝ってくれるからとか、そういうことだけじゃなくて……あなた自身に、ちゃんと帰ってきてほしいの」
僕は、顔を上げた。
「……はい」
エレナさんは、いつもの調子に戻ろうとするように笑った。
「帰ってきたら、また薬草を採ってきてもらうんだから。勝手に仕事を休まれたら困るわ」
「はい。頑張ります」
「だから、頑張るのは帰ってきてからよ」
僕は思わず笑った。
エレナさんも笑ってくれた。
店を出ようとした僕に、エレナさんが声をかけた。
「ラルフ」
「はい?」
「……気をつけてね」
「はい」
僕はポーションの入った袋を抱え、店を出た。
*
帰り道、リアが僕を待っていた。
「ラルフ、これ……」
リアが差し出したのは、小さな花のお守りだった。
「私が作ったの。上手じゃないかもしれないけど……明日、持っていってほしい」
「これ、リアが作ったの?」
「うん」
僕は、お守りをそっと受け取った。
「ありがとう。大事にするよ」
リアは俯いたまま、ぽつりと言った。
「……本当は、行ってほしくない」
僕は何も言えなかった。
「でも、ラルフが自分で決めたことなんだよね」
「……うん」
リアは顔を上げた。目には、不安が浮かんでいた。
「絶対に帰ってきてね」
「うん」
僕はお守りを握りしめた。
そのとき、足元に何かがすり寄ってきた。
マリーだった。
僕の前までやってくると、当然のように目の前でごろんと横になった。
そして、前足を折りたたみ、こちらをじっと見上げてくる。
……はいはい。撫でればいいんですね。
「マリー、相変わらずだね」
リアが苦笑した。
僕が手を止めると、マリーは前足で僕の手を引き寄せようとした。
「はいはい、分かったよ」
もう一度撫でてやると、マリーはようやく満足したように寝転がったまま目を閉じた。
「ラルフ」
トーマスさんが玄関先から声をかけた。
「飯、食ってけ」
「えっ、でも……」
「大したもんじゃない。三人で食べよう」
トーマスさんはそれだけ言って、家へ戻っていった。
リアが僕の顔を覗き込んだ。
「食べていきなよ。ね?」
「……うん。ありがとう」
*
夕食の席には、トーマスさんとリア、そして僕の三人がいた。
食卓には、温かい料理が並んでいた。
トーマスさんは普段と変わらない様子で食事をしていた。リアも、ときどき僕に話しかけてくれた。
明日の討伐の話は、誰も口にしなかった。
僕も、何を話せばいいのか分からなかった。
ただ、いつもと同じように食事をして、リアの話に相槌を打ち、トーマスさんが静かに食べる姿を見ていた。
こんなふうに三人で食卓を囲むことが、明日も当たり前に続くような気がした。
けれど、明日は違う。
「ごちそうさまでした。ありがとうございました」
二人に礼を言い、僕はトーマスさんの家をあとにした。
*
ギルドに着くと、ロイドさんはいつもの場所にいた。
「挨拶は済んだか?」
「はい」
ロイドさんは僕の顔を見た。
「……怖いか」
「はい」
「そうか」
短い沈黙が落ちた。
ロイドさんは僕の肩に手を置いた。
「明日は俺のそばを離れるな」
「はい」
「生きて帰るぞ」
僕は頷いた。
「……はい」
ロイドさんは、それ以上何も言わなかった。
その短い言葉が、かえって胸に重く残った。
*
夜、自分の部屋に戻ると、僕はリアのお守りと、エレナさんから買ったポーションを並べた。
明日の準備はできている。
僕はお守りを手に取った。
トーマスさんの声が、耳に残っていた。
リアの顔が浮かんだ。
マリーのふてぶてしい顔も。
エレナさんの、困ったような笑顔。
僕はお守りを握りしめた。
怖くないわけじゃない。
それでも、明日は来る。
僕はお守りを胸元にしまい、明日のために目を閉じた。




