新しい目標
騎士団の詰所を出ると、すでに夕暮れとなった街に、いつもと変わらない人々の営みがあった。
店先で商品を片づける商人。家路を急ぐ人々。通りを走り回る子供たち。
つい先ほどまで、五万人の領民を守るための話し合いが行われていたとは思えないほど、街は日常の姿を保っている。
ラルフは隣を歩くロイドを見上げた。
「……ロイドさん」
「なんだ?」
「エドガー様って、すごい人なんですね」
ロイドは横目でラルフを見た。
「そう思ったか」
「はい。街のことも、騎士団のことも、商人のことも……。いろんなことを考えて、何をするべきか決めていて。僕には、何をどう考えればいいのかも分かりませんでした」
会議の間、ラルフはほとんど口を開けなかった。
次々と報告される被害の状況。ヘルビーストという未知の脅威。街を守るために必要な戦力と物資。そして、交易が止まった場合に生じる問題。まるでついていけない別世界のお話のようだった。
一つの問題を考えれば、別の問題が浮かび上がる。
何かを優先すれば、何かを後回しにしなければならない。
エドガーは、それらを一つずつ整理し、次に何をすべきかを決めていた。
エドガーが自分と大して変わらない十五歳だと聞いても、ラルフには信じられなかった。
「領主代行だからな。考えなきゃならないことが多いんだ」
「……僕には、とても無理です」
「今のお前に、あの仕事をやれと言う奴はいないだろう」
ロイドは苦笑した。
「それに、あの方だって最初から何もかも分かっていたわけじゃない。立場が人を育てることもある」
「立場が……」
「もっとも、あそこまでできるやつも滅多にいるわけじゃないがな」
ロイドの言葉に、ラルフは再び考え込んだ。
自分には、エドガーのように街全体を動かす力はない。
ヘルビーストをどうするのかも、交易をどう立て直すのかも分からない。騎士団の人たちがどれほどの危険を背負うのかさえ、正確には理解できていない。
けれど、一つだけ分かっていることがあった。
「……僕は、早く強くなりたいです」
口にしてから、ラルフは少しだけ視線を落とした。
「父さんと母さんのところに、行きたいんです」
ロイドは歩みを緩めず、静かに耳を傾けていた。
「父さんは、まだ目を覚ましていないんですよね。母さんも、ずっと父さんのそばにいるんですよね」
「ああ」
「母さん、一人で大丈夫かな……」
声が小さくなった。
母は回復魔法を使える。父が生きていることも分かった。
それでも、重傷を負った父のそばで、母がどんな思いで過ごしているのかを考えると、胸の奥が落ち着かなかった。
今すぐ会いに行きたい。
父の顔を見たい。母の顔も見たい。
けれど、会いに行くことさえ、今の自分にはできない。
「ロイドさん。僕、もっと頑張ります」
「……そうか」
「剣も、薬草採集も、畑の仕事も。ちゃんとできるようになりたいです」
ロイドは横目でラルフを見た。
「欲張りだな」
「そうですか?」
「そうだ。だが、悪いことじゃない。たまにはな」
「はい」
「ただし強くなることと、無茶をすることは違う。」
ラルフはうなずいた。
今の自分にできることは、まだ少ない。
だからこそ、一つずつ身につけていくしかないのだ。
◇
リアの家に着くと、トーマスがラルフを出迎えた。
「ああ、ラルフ。どうしたんだ?」
「トーマスさん、リアはいますか?」
「いるよ。おーい、リア! ラルフが来たぞ!」
家の奥から、ぱたぱたと足音が聞こえてきた。
「ラルフ?」
顔を出したリアは、ラルフの姿を見るなり、少し不安そうに眉を寄せた。
「どうしたの? 何かあった?」
「ううん。今日は、二人に伝えたいことがあって」
ラルフは一度、息を吸った。
騎士団の詰所で聞いた言葉を、もう一度、自分の口で伝える。
「父さんと母さん、生きてたよ」
「……え?」
リアの目が大きく開かれた。
「本当に?」
「うん。ダライにいるんだって。父さんは大きな怪我をしていて、まだちゃんと目を覚ましていないらしいけど……母さんがそばについてるって」
リアはしばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……よかった」
その声は、今にも泣き出しそうだった。
「よかったね、ラルフ。本当に……よかった」
「うん」
ラルフも笑おうとした。
けれど、うまく笑えているかは分からなかった。
リアはそんなラルフの顔を見つめ、それから一歩近づいた。
「お母さんも、お父さんも、生きてるんだね」
「うん」
「じゃあ、きっと帰ってくるよね」
「……うん。母さんが、父さんと一緒に必ず帰るって」
リアは何度もうなずいた。
「そっか。よかった……」
トーマスも、ほっとしたように肩の力を抜いた。
「それは何よりだ。まだ心配は残るだろうが、二人が無事だと分かっただけでも大きいな」
「はい。ありがとうございます」
「礼なんていらないさ。お前も、少しは安心できただろう?」
ラルフはうなずいた。
安心した。
本当に、よかったと思う。
父と母が生きている。それだけで、胸の奥にずっと居座っていた冷たいものが、少しだけ薄くなった気がした。
リアは、そんなラルフの顔をしばらく見ていた。
「ラルフ、無理しないでね」
「え?」
「最近、ずっと頑張ってるから。剣の練習もしてるし、お仕事もしてるし……」
「大丈夫だよ」
反射的に答えてから、ラルフは少し考えた。
「……うん。でも、ちゃんと休むよ」
リアは安心したように笑った。
「約束だよ?」
「うん。約束」
そのやり取りを見て、トーマスが小さく笑った。
「リアのほうが、よほどしっかりしているな」
「お父さん!」
リアが頬を膨らませる。
ラルフも思わず笑った。
久しぶりに、心から笑えた気がした。
しばらく話した後、ラルフは二人に別れを告げた。
家を出るとき、リアはもう一度、ラルフに言った。
「お父さんとお母さんが帰ってきたら、また一緒に遊ぼうね」
「うん。絶対に」
ラルフはそう答え、夕暮れの道を歩き出した。
◇
翌朝、ラルフはエレナの薬屋を訪ねた。
「おはようございます。エレナさん」
「あら、ラルフ。いらっしゃい。早いわね。珍しいどうしたの?」
店内では、開店準備の中、乾燥させた薬草の香りが漂っていた。
いつもと変わらない光景に、ラルフは少しだけ気持ちが落ち着いた。
「エレナさんに、伝えたいことがあって」
「伝えたいこと?」
「父さんと母さんが、生きているって分かったんです」
エレナの手が止まった。
「……本当?」
「はい。二人ともダライにいるそうです。父さんは怪我をして、まだ目を覚ましていないみたいですけど……母さんが、そばについているって」
「そう……」
エレナは胸元に手を当て、ゆっくりと息を吐いた。
「よかったわ。本当に、よかった」
その表情には、安堵とともに、友人を案じる気持ちが浮かんでいた。
「ミアが無事だったのね……。ベルクさんも、生きているのね」
「はい」
「ラルフ、知らせてくれてありがとう。私も、ずっと気になっていたの」
エレナはラルフの前に回り、そっと肩に手を置いた。
「まだ心配なことはあるでしょうけれど、二人が生きていると分かったのは大きな一歩よ」
「……はい」
「あなたも、少し安心できた?」
ラルフは深くうなずいた。
「はい。でも……早く会いに行きたいです」
「そうよね」
エレナはそれ以上、何かを言い聞かせることはしなかった。
「お父さんのことも、お母さんのことも、心配でしょう。でも、あなたがここでできることもあるわ。薬草のことも、畑のことも、剣のこともね」
「……はい」
「焦る気持ちがあるのは当然よ。ただ、その気持ちに振り回されないようにね」
ラルフは、エレナの言葉を胸に刻むようにうなずいた。
「僕、もっと頑張ります」
「ええ。期待しているわ」
エレナはいつもの笑顔を見せた。
「でも、無理は禁物。薬草採集で倒れられたら、私が困るもの」
「大丈夫です!」
「その返事は、少し心配ね」
エレナが笑い、ラルフもつられて笑った。
薬屋を出るころには、胸の中にあった焦りが消えたわけではなかった。
けれど、少しだけ前を向けるようになった気がした。
◇
家に帰ると、ラルフはいつものように畑へ向かった。
土の状態を確かめ、水をやり、育ち具合を確認する。
特別なことは何もない。
昨日までと同じ仕事だ。
それでも、今日は一つ一つの作業に、いつも以上に意識が向いていた。
水をやりすぎれば根を傷める。土が乾きすぎれば、作物は十分に育たない。
ラルフは丁寧に葉の裏を確かめ、土に触れ、必要な手入れをしていった。
父が戻ってきたとき、畑を見て安心してもらえるように。
母が戻ってきたとき、少しでも元気な姿を見せられるように。
そう考えると、自然と手が動いた。
畑仕事を終えると、今度は薬草採集の準備をした。
採取用の袋を確かめ、必要な道具をそろえる。
覚えることは、まだたくさんある。
それでも、少しずつ分かることが増えてきた。
薬草を見つけることができれば、エレナの薬屋を手伝える。
薬を必要としている人たちの役にも立てる。
それに、薬草を探すために森や草地を歩くことは、自分の周囲をよく見る訓練にもなる。
今の自分にできることは、目の前にあることを一つずつ積み重ねることだ。
エドガーのように、街全体の未来を考えることはできない。
ヘルビーストをどうするべきか、自分にはさっぱりわからない。
けれど、自分にもできることはある。
その実感が嬉しかった。
◇
翌日の特訓で、ロイドはラルフの様子を見守っていた。
木剣を構え、教わった動きを繰り返す。
足の位置。身体の向き。剣を振るう軌道。
一つ一つを確認しながら、何度も繰り返していた。
普段と変わらない光景に見える。
ロイドは腕を組み、しばらくその様子を眺めた。
ここ最近のラルフはずっと何かを考え続けていた。
両親の行方。自分の無力さ。これからどうすればいいのか。街で起きたことも、幼い頭で抱え込もうとしていた。
剣を振っていても、意識のどこかが別のことに向いている。焦りが先走り、身体の動きが乱れることもあった。
…今は違うな。
ラルフの目には、迷いがなかった。
何かを忘れたわけではない。悩みが消えたわけでもない。
それでも、今この瞬間に何をすべきか。それだけに意識を向けている。
失敗すれば、原因を探す。
原因が分かれば、修正する。
修正した動きを、もう一度試す。
その繰り返しに、余計なものが入り込む隙がなかった。
「……ほう」
ロイドは、思わず小さく声を漏らした。
ラルフが木剣を振るう。
先ほどよりも、わずかに軌道が安定していた。
また振るう。
今度は足の運びが改善されている。
両親が生きていると分かったことが、これほど影響するとは。
安心したのだろう。少なくとも、もう二度と会えないかもしれないという不安からは解放された。
そのうえで、次に何をすべきかが、本人なりに定まったのかもしれない。
今の自分にできることをやる。
その思いが、ようやく余計な迷いを振り切ったのだ。
ラルフが再び構えた。
ロイドは、その目を見て、口元をわずかに緩めた。
「……眼が変わったな」
以前の集中力は、どこか危うかった。
焦りに追い立てられ、無理に自分を動かそうとしているようなところがあった。
だが今は、目の前の課題を捉え、そこから目を離さない。
自分に何が足りないのかを見極め、それを埋めようとしている。
この集中力が続くなら、こいつは――。
ロイドは、そこで考えるのをやめた。
まだ早い。今はまだ、剣を振るう一人の少年にすぎない。
それでも。
「……想像以上に化けるかもしれんな」
小さく呟いた声は、ラルフには届かなかった。
無心で動きを繰り返していた。
少しでも強くなるために。
今の自分にできることを、確実に増やすために。
◇
翌日、ラルフは薬草採集に出かけた。
エレナから教わった薬草の特徴を頭の中で整理しながら、草地を歩いていく。
葉の形。茎の色。生えている場所。似た植物との違い。
以前なら見落としていたような小さな違いにも、自然と目が向く。
「あ、これもそうだ」
しゃがみ込んで採取する。
少し先にも見つけた。
その隣にも、もう一株。
ラルフは周囲を見渡し、群生している場所を見つけると、効率よく採取していった。
この場所には何が生えているのか。どこを探せば見つかりやすいのか。採取した場所と、まだ探していない場所はどこか。
気がつけば、予定していた範囲をすっかり回り終えていた。
「……こんなものかな」
ラルフは袋を持ち上げた。
ずっしりと重い。
少し採りすぎただろうか。
そう思ったものの、せっかく採れた薬草を無駄にするわけにもいかない。傷んでいないことを確かめながら、袋を抱えて薬屋へ戻った。
「エレナさん、採ってきました!」
「おかえりなさい、ラルフ。今日はどうだった?」
「はい。教えてもらった薬草が、たくさん見つかりました」
ラルフは得意げに袋を差し出した。
エレナは受け取ろうとして、その重さに一瞬手を止めた。
「……ん?」
袋を開く。
中には、種類ごとに分けられた薬草がぎっしりと詰まっていた。
エレナは一つを取り出し、状態を確かめる。次に別の種類を確認する。どれも採取の仕方に大きな問題はなく、傷みも少ない。
質はいい。
それは間違いない。
だが。
「ラルフ」
「はい?」
「これ、全部今日採ったの?」
「はい!」
「……一人で?」
「はい!」
元気のいい返事だった。
エレナはもう一度、袋の中を見た。
そして、ゆっくりとラルフに視線を戻した。
「……ラルフ。私、薬草をたくさん採ってきてとは言ったけれど、薬屋を開けなくなるほど採ってきてとは言っていないわよ?」
「えっ?」
ラルフはきょとんとした。
「そんなに多かったですか?」
「多いわよ!」
思わず声が大きくなる。
ラルフは驚いて袋を見下ろした。
「……ちょっと、やりすぎました?」
「ちょっと、で済む量かしらね……」
エレナは額に手を当てた。
採取した薬草の質は申し分ない。種類ごとに分けられているし、必要な部分を傷めないように採ってある。教えたことも、きちんと守っている。
むしろ、採取そのものは驚くほど上手だった。
だからこそ、余計に困る。
「ラルフ。薬草は採れば採るほどいい、というものじゃないの。必要な分を採って、残りは次のために残しておくことも大切なのよ」
「……はい」
「それに、これだけの量を一度に処理するのも大変なの。乾燥させる場所にも限りがあるし、全部をすぐに使えるわけじゃないでしょう?なによりこれを調合する私はいつ寝るのかな?ラルフ君?」
「……はい」
ラルフは、しゅんと肩を落とした。
エレナはその様子を見て、思わず笑ってしまった。
「ふふっ。そんなに落ち込まなくてもいいわ。採取自体は、とても上手よ。ただ、次からは量も考えましょうね」
「分かりました。次は気をつけます」
「ええ。期待しているわ」
そう言ってから、エレナは袋の中をもう一度見た。
……本当に、どこでこれだけ見つけてきたのかしら。
ラルフは、まだ自分がどれほど異常な量を採ってきたのか、よく分かっていないようだった。
エレナは小さく息を吐いた。
「……まったく。教えがいのある子ね」
その声には、呆れと、隠しきれない感心が混じっていた。




