もう一つの天秤
夜も更け、騎士団の詰め所には、紙をめくる音と、ときおり交わされる報告の声だけが残っていた。
スタンピードによる被害の確認。負傷者の状況。街門の修復に必要な人員。交易路の情報収集。
やるべきことはいくらでもあった。
エドガーもまた、机に向かって報告書を確認していた。目を通した書類を脇へ置き、次の一枚を手に取る。そこに記された数字を追い、必要な指示を書き加える。
何度目かの書類を置いたとき、扉がノックされた。
「入れ」
「失礼します」
入ってきたのはヘーゼルだった。
彼もまた、騎士団の再編と街の防衛体制の立て直しに追われていた。鎧こそ外しているものの、疲労の色は隠せていない。
「騎士団の状況をまとめた報告です。負傷者の復帰見込みについては、まだ確認が必要な者が残っています」
「分かった。そこは無理に結論を出さなくていい。確認できたものから進めてくれ」
「承知しました」
ヘーゼルは報告書を机に置いた。
それで用件は終わりだった。
だが、すぐに部屋を出ようとはしなかった。
エドガーは書類から目を上げた。
「……何かあるのか?」
「いえ。エドガー様こそ、いつまで仕事を続けるおつもりですか」
「君に言われるとは思わなかったな」
「私も、エドガー様に言うことになるとは思っていませんでした」
ヘーゼルの返答に、エドガーは小さく息を吐いた。
笑ったというほどではない。けれど、会議の場では見せなかった表情だった。
しばらく、二人とも口を開かなかった。
窓の外から、夜番の騎士が交代する足音が聞こえた。
「……ヘイズ」
エドガーが、ふいに呼んだ。
公の場での呼び方ではなかった。
ヘーゼルは顔を上げる。
「何でしょう、エド」
返ってきた呼び名もまた、昔のものだった。
エドガーは机上の書類に目を落としたまま、ぽつりと言った。
「僕は、間違っているのだろうか」
ヘーゼルはすぐには答えなかった。
何について尋ねているのか、分からないはずがなかった。
「何をもって、間違いとするかによります」
「そういう答えが欲しいわけじゃない」
「でしょうね」
ヘーゼルは椅子を引き、机を挟んだ向かい側に腰を下ろした。
「では、何を聞きたいのですか」
エドガーは、しばらく黙っていた。
「兄上のことだ」
その名を口にしたとき、ヘーゼルの指が書類の端で止まった。
「兄上は、あの場にいた者たちを逃がすために命を落とした。僕は、そのことを今でも誇りに思っている」
一度、言葉を切る。
「それでも……あの判断が正しかったとは思えない」
ヘーゼルは何も言わず、続きを待った。
「兄上が生きていれば、救えたかもしれない者がいた。兄上が生きていれば、今の僕が背負っているものも、違っていたかもしれない」
声は静かだった。
責めるような口調でも、誰かに答えを求めるような口調でもない。
「目の前にいる者を救うために、自分の命を差し出す。それは美しいことなのだろう。救われた者たちにとっては、きっとそうだ」
エドガーは顔を上げた。
「だが、兄上が守るべきだったのは、あの場にいた者たちだけだったのだろうか」
ヘーゼルの表情がわずかに動いた。
「兄上が生きていれば、もっと多くの者を守れたかもしれない。あの場で命を落とした者たちを救うことと、その先にいる者たちを守ること。その二つを、兄上は天秤にかけたのだろうか」
答えはなかった。
八年前、そこにいた者たちが何を考え、何を見て、どんな覚悟で行動したのか。今となっては、誰にも完全には分からない。
エドガー自身、兄が何を思っていたのかを知ることはできなかった。
「僕は、兄上を責めたいわけじゃない」
その言葉だけは、はっきりしていた。
「ただ……僕は、同じことをするわけにはいかない」
ヘーゼルは、目の前のエドガーを見つめた。
幼い頃から知っている少年の面影は、確かにそこにあった。
「エド」
ヘーゼルは、昔と同じ呼び方で声をかけた。
「あなたは、兄君の選択を否定したいのではないのでしょう」
エドガーは答えなかった。
「あなたが恐れているのは、自分が同じ選択をすることではない。自分が別の選択をした結果、誰かを失うこと。そして、その判断を自分で引き受けなければならないことではありませんか」
エドガーの指が、書類から離れた。
しばらくして、彼は小さく笑った。
「……君は、昔から余計なところまで見抜く」
「あなたが隠すのが下手なのです」
「それは初めて聞いたな」
「何度も申し上げています」
今度は、エドガーも確かに笑った。
ほんの一瞬だった。
けれど、その表情が消えたあと、彼は再び口を開いた。
「ヘイズ。もし僕が、君を死地に送り込むことになったら……君は僕を恨むか」
ヘーゼルは、目をそらさなかった。
「命令の内容と、その理由によります」
「僕が領地を守るために必要だと判断した。それでも?」
「それだけでは、答えになりません」
エドガーは黙った。
「私はあなたの命令に従うためだけに、ここにいるのではありません。あなたが何を守ろうとしているのかを知り、その判断を支えるためにいるのです」
ヘーゼルは静かに続けた。
「ですが、あなたの判断が正しいと、最初から盲信しているわけでもありません」
「……厳しいな」
「師として教えた覚えはありませんが、殿下は昔から、間違いを指摘されるのがお嫌いでしたから」
「初めて聞いた」
「何度も申し上げています」
先ほどと同じやり取りに、エドガーは今度こそ苦笑した。
ヘーゼルも、わずかに口元を緩めた。
「エド。私は、あなたが何を選ぶのかを見届けます。そして、あなたが見落としているものがあれば、伝えます」
ヘーゼルは、まっすぐにエドガーを見た。
「それでもあなたが決断するのなら、私はその決断を支える。ただし、あなたが一人で背負う必要はありません」
エドガーは何も言わなかった。
その言葉を、すぐに受け入れられるほど簡単な問題ではなかった。
誰かに責任を分け与えたところで、決断した事実が消えるわけではない。結果として命が失われれば、その判断を下した者の責任は残る。
それでも。
「……ありがとう、ヘイズ」
エドガーは、昔の呼び方で答えた。
「少し、楽になった」
「それなら、今夜はもう休んでください」
「結局、それが言いたかったのか?」
「はい」
ヘーゼルは即答した。
エドガーは肩の力を抜き、机の上に残った報告書を見た。
まだ仕事は残っている。明日になれば、新しい報告が届き、新しい判断を求められるだろう。
それでも、今夜だけは。
「分かった。あと一枚だけ確認したら休もう」
「その一枚が十枚にならないことを願っています」
「努力しよう」
「努力ではなく、約束してください」
エドガーは困ったように笑った。
「……約束するよ」
ヘーゼルは立ち上がり、一礼した。
「おやすみなさい、エド」
「おやすみ、ヘイズ」
扉が閉じる。
再び静かになった部屋で、エドガーは机上の書類に目を落とした。
領主代理として、彼は選ばなければならない。
誰を守り、何を優先し、何を失う可能性を受け入れるのか。
その答えを、誰かに代わってもらうことはできない。
けれど、その天秤を見つめる自分の隣に、同じ重さを理解しようとする者がいる。
それだけは、確かだった。




