門が破れる日 ②
グラウヴォルフが地面を蹴った。
速い。
そう認識した瞬間には、すでに魔物の巨体が目の前に迫っていた。
「っ!」
ラルフは反射的に横へ飛び退いた。
直後、先ほどまで立っていた場所を鋭い爪が薙いだ。土が抉れ、草が散る。
ラルフは体勢を立て直し、ショートソードを構えた。
相手を見ろ。
足元を見ろ。
自分の強みを生かせ。
ロイドとの訓練で繰り返し教わった言葉を思い出す。
だが、目の前にいる魔物は、これまで訓練で向き合ってきた相手とは違った。
こちらの動きを待ってはくれない。隙を見せれば、その瞬間に牙を突き立ててくる。
そして何より、圧倒的に大きかった。
ラルフの背後では、リアがマリーを抱きしめたまま震えていた。
逃げることはできない。
自分が退けば、リアが襲われる。
「……来いよ」
かすれた声で呟くと、グラウヴォルフが唸った。
次の瞬間、再び飛びかかってきた。
今度は真正面からだった。
ラルフは剣を振るう。
狙ったのは魔物の顔。しかし、グラウヴォルフは頭をわずかに傾けただけで刃をかわした。
「うわっ!」
ラルフは地面に転がるようにして攻撃を避けた。
鋭い爪が肩をかすめ、服が裂ける。
熱いものが肌を伝った。
血だ。
一撃を受けただけで、これほどの傷を負う。
ロイドとの訓練で、強い相手と戦うことの恐ろしさは教わっていた。だが、実際に命を狙われるということは、想像していたものとはまるで違った。
身体が震え、剣を握る手に汗が滲む。
それでも、ラルフは立ち上がった。
「ラルフ……!」
背後からリアの声が聞こえた。
振り返ることはできない。目を離せば、その瞬間に殺される。
ラルフはグラウヴォルフを見据えた。
踏み込む前に、前脚へ力が入る。
攻撃の直前、頭がわずかに下がる。
訓練で身につけた観察が、かろうじて生きていた。
次の攻撃が来る。
ラルフは横へ動き、魔物の突進をかわした。そして、すれ違いざまに剣を振るう。
刃が黒灰色の毛並みを浅く切り裂いた。
手応えがあった。
「やった……!」
しかし、喜びは一瞬で消えた。
グラウヴォルフが振り返り、黄色い瞳でラルフを捉えた。
魔物の唸り声が、先ほどよりも低く響く。
次の瞬間、グラウヴォルフが襲いかかってきた。
先ほどよりも速い。
ラルフは避けようとしたが、足がわずかに遅れた。
肩に衝撃が走る。
身体が宙に浮き、そのまま地面へ叩きつけられた。
「がっ……!」
肺から空気が押し出され、視界が揺れた。
魔物の体当たりを受けたのだ。
ラルフは歯を食いしばり、立ち上がろうとした。
だが、左腕に力が入らない。肩が焼けるように痛んだ。
グラウヴォルフがゆっくりと近づいてくる。
ラルフは震える足に力を込め、どうにか立ち上がった。
立て。
ロイドの声が頭の中で響いた。
立て。もう一度だ。
訓練で倒されるたび、ロイドはそう命じた。
今は、その言葉だけを頼りに身体を動かした。
ラルフは剣を構え直した。
剣の腕では勝てない。
速さでも、力でも、体格でも劣っている。
一度攻撃を受ければ、立っていることさえ難しくなる。
それでも、何か方法があるはずだった。
父ならどうするだろう。
ベルクなら、こんな状況でどう判断するだろう。
無謀に戦うな。
勝てない相手からは逃げろ。
父から教わった言葉が頭をよぎる。
分かっている。だが、逃げた先にはリアがいる。
自分が退けば、彼女はどうなる。
「……くそっ!」
ラルフは剣を構え直した。
グラウヴォルフが低い姿勢から飛びかかってきた。喉元を狙うような動きだった。
ラルフは剣を横に構え、必死に受け止めた。
金属が硬いものにぶつかる音が響く。
衝撃で腕が痺れた。剣が弾かれそうになり、ラルフは両手で柄を握り締める。
目の前には、巨大な牙があった。
あと少しでも力が足りなければ、喉を食い破られていた。
魔物の息が顔にかかる。生臭い臭いがした。
押し返せない。
力の差がありすぎる。
このままでは、いずれ剣を弾き飛ばされる。
ラルフは剣をわずかに傾け、魔物の力を横へ逃がした。
ロイドに何度も修正された動きだった。
真正面から受けるな。
相手の力をまともに受ければ、弱い方が負ける。
グラウヴォルフの頭が横へ流れた。
その隙を、ラルフは見逃さなかった。
剣を振り抜く。
刃が魔物の前脚を切り裂いた。
グラウヴォルフが唸り声を上げ、後ろへ飛び退く。
ラルフは膝をつきそうになりながら、どうにか踏みとどまった。
確かに傷を負わせた。
しかし、魔物はまだ立っていた。前脚から血が流れているにもかかわらず、動きが鈍くなったようには見えない。
一方のラルフは、肩の痛みで呼吸すら苦しくなっていた。
剣を握る手も震えている。
あと何回、攻撃を避けられる。
あと何回、剣を振るえる。
考えるまでもなく、長くは持たない。
グラウヴォルフが再び身を低くした。
ラルフは構える。
魔物が飛びかかる。
横へ跳んだが、今度は避けきれなかった。
鋭い爪が脇腹を掠め、身体が大きく傾く。
「ぐっ……!」
地面に倒れかけたところを、どうにか剣で支えた。
呼吸をするたびに脇腹が痛む。
それでも、ラルフは顔を上げた。
グラウヴォルフが迫ってくる。
もう、まともに避けられる自信はなかった。
剣を振るう腕にも、先ほどまでの力は残っていない。
それでも、リアを背後にかばうように立った。
「……来るな」
声は震えていた。
魔物は止まらない。
「来るなよ……!」
ラルフは剣を握り締めた。
怖かった。
死にたくない。父と母を探したい。
訓練を始めて三週間。少しずつ強くなっていると思っていた。いつかは魔の森へ入り、両親を探せるかもしれないと考えていた。
だが、現実は残酷だった。
積み重ねてきた技術も、身につけた動きも、目の前の魔物との実力差を覆すには足りなかった。
グラウヴォルフが吠えた。
次の瞬間、その巨体が地面を蹴った。
ラルフは剣を振り上げた。
しかし、間に合わない。
衝撃が身体を襲った。
剣が手から弾き飛ばされ、地面を転がっていく。
ラルフは背中から倒れ込んだ。
「ラルフ!」
リアの悲鳴が聞こえた。
起き上がろうとしたが、身体が動かなかった。
息を吸うだけで胸が痛む。腕に力を込めても、地面を押すことすらできない。
視界の端で、グラウヴォルフがこちらへ歩いてくるのが見えた。
魔物はラルフを見下ろしていた。
黄色い瞳に迷いはない。ただ、目の前の獲物を仕留めようとしている。
「……くそ……」
声が漏れた。
リアを守ると決めたのに、何一つできていない。
背後から、リアの泣き声が聞こえる。
「いや……ラルフ……!」
その声を聞き、ラルフは無理やり身体を起こそうとした。
動け。
頼むから、動いてくれ。
だが、身体は言うことを聞かなかった。
グラウヴォルフが目の前まで迫っていた。
大きく開かれた口から、鋭い牙が覗く。
これが、死ぬということなのか。
父も母も、まだ見つけていない。
何も分からないまま、ここで終わるのか。
ラルフの脳裏に、農場の風景が浮かんだ。
父が畑を耕す姿。
母が優しく笑う顔。
そして、いつものように話しかけてくるリアの声。
まだ、終わりたくなかった。
「……父さん……母さん……」
かすれた声が、唇からこぼれた。
グラウヴォルフが、ゆっくりと身を低くした。
次の一撃で、すべてが終わる。
ラルフは魔物を見つめた。
誰かに助けてほしかった。
けれど、もう助けを待つことさえできない。
ふと、父の言葉が脳裏をよぎった。
勝てない相手とは戦うな。
状況を見極めろ。
無謀と勇気を履き違えるな。
ラルフは唇を噛んだ。
逃げられない。
勝てない。
それでも、リアを置いていくことだけはできなかった。
ラルフは、ゆっくりと背後を振り返った。
リアが泣いていた。
マリーを抱きしめ、恐怖に顔を歪めながら、それでもラルフから目を離せずにいる。
守ると約束した。
大丈夫だと言った。
その約束を、ここで投げ出すわけにはいかなかった。
ラルフは、地面に転がったショートソードへ手を伸ばした。
指先が柄に触れる。
痛みで震える腕に残された力を振り絞り、どうにか剣を握り直した。
立ち上がることはできない。
身体は限界だった。
それでも、剣だけは手放さなかった。
「……父さんなら」
かすかな声が漏れた。
父なら、どうするだろう。
今の自分では、この魔物には勝てない。
逃げることもできない。
ならば、残された選択肢は一つしかなかった。
ラルフは、背後のリアを見た。
「リア……逃げろ」
「いや……! ラルフ、やだ……!」
「逃げろ!」
ラルフは残された力を振り絞って叫んだ。
リアが息を呑む。
ラルフは再びグラウヴォルフへ向き直った。
勝てなくてもいい。
生き残れなくてもいい。
せめて、自分の命と引き換えに、この魔物に一撃を叩き込む。
リアが逃げる時間を作る。
それが、今の自分にできる唯一のことだった。
「……リアだけは、連れていかせない」
ラルフはショートソードを握り締めた。
震える腕に力を込め、身体を起こす。
足はふらつき、視界もぼやけている。
それでも、魔物から目を逸らさなかった。
グラウヴォルフが低く唸り、身を沈める。
来る。
ラルフは剣を構えた。
次の一撃で、自分は死ぬかもしれない。
いや、おそらく死ぬ。
それでも、最後まで抵抗してやる。
父さん。
俺は、あなたのようには強くない。
あなたのように正しい判断ができているのかも分からない。
それでも、俺は――。
グラウヴォルフが地面を蹴った。
ラルフもまた、残された力を振り絞り、魔物へ向かって踏み出そうとした。
その瞬間だった。
目の前に、人影が割り込んだ。
「あ…」
見覚えのある背中だった。
無駄のない立ち姿。
剣を構える腕に、一切の迷いはない。
ロイドは振り返らなかった。
「……よく持ちこたえたな、ラルフ」
その声は、いつもの訓練と変わらないほど落ち着いていた。
ロイドは剣を構え直す。
「後は俺に任せろ」




