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祝福された異端の子  作者: しろうさぎ


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14/40

門が破れる日 ②


グラウヴォルフが地面を蹴った。


速い。


そう認識した瞬間には、すでに魔物の巨体が目の前に迫っていた。


「っ!」


ラルフは反射的に横へ飛び退いた。


直後、先ほどまで立っていた場所を鋭い爪が薙いだ。土が抉れ、草が散る。


ラルフは体勢を立て直し、ショートソードを構えた。


相手を見ろ。


足元を見ろ。


自分の強みを生かせ。


ロイドとの訓練で繰り返し教わった言葉を思い出す。


だが、目の前にいる魔物は、これまで訓練で向き合ってきた相手とは違った。


こちらの動きを待ってはくれない。隙を見せれば、その瞬間に牙を突き立ててくる。


そして何より、圧倒的に大きかった。


ラルフの背後では、リアがマリーを抱きしめたまま震えていた。


逃げることはできない。


自分が退けば、リアが襲われる。


「……来いよ」


かすれた声で呟くと、グラウヴォルフが唸った。


次の瞬間、再び飛びかかってきた。


今度は真正面からだった。


ラルフは剣を振るう。


狙ったのは魔物の顔。しかし、グラウヴォルフは頭をわずかに傾けただけで刃をかわした。


「うわっ!」


ラルフは地面に転がるようにして攻撃を避けた。


鋭い爪が肩をかすめ、服が裂ける。


熱いものが肌を伝った。


血だ。


一撃を受けただけで、これほどの傷を負う。


ロイドとの訓練で、強い相手と戦うことの恐ろしさは教わっていた。だが、実際に命を狙われるということは、想像していたものとはまるで違った。


身体が震え、剣を握る手に汗が滲む。


それでも、ラルフは立ち上がった。


「ラルフ……!」


背後からリアの声が聞こえた。


振り返ることはできない。目を離せば、その瞬間に殺される。


ラルフはグラウヴォルフを見据えた。


踏み込む前に、前脚へ力が入る。


攻撃の直前、頭がわずかに下がる。


訓練で身につけた観察が、かろうじて生きていた。


次の攻撃が来る。


ラルフは横へ動き、魔物の突進をかわした。そして、すれ違いざまに剣を振るう。


刃が黒灰色の毛並みを浅く切り裂いた。


手応えがあった。


「やった……!」


しかし、喜びは一瞬で消えた。


グラウヴォルフが振り返り、黄色い瞳でラルフを捉えた。


魔物の唸り声が、先ほどよりも低く響く。


次の瞬間、グラウヴォルフが襲いかかってきた。


先ほどよりも速い。


ラルフは避けようとしたが、足がわずかに遅れた。


肩に衝撃が走る。


身体が宙に浮き、そのまま地面へ叩きつけられた。


「がっ……!」


肺から空気が押し出され、視界が揺れた。


魔物の体当たりを受けたのだ。


ラルフは歯を食いしばり、立ち上がろうとした。


だが、左腕に力が入らない。肩が焼けるように痛んだ。


グラウヴォルフがゆっくりと近づいてくる。


ラルフは震える足に力を込め、どうにか立ち上がった。


立て。


ロイドの声が頭の中で響いた。


立て。もう一度だ。


訓練で倒されるたび、ロイドはそう命じた。


今は、その言葉だけを頼りに身体を動かした。


ラルフは剣を構え直した。


剣の腕では勝てない。


速さでも、力でも、体格でも劣っている。


一度攻撃を受ければ、立っていることさえ難しくなる。


それでも、何か方法があるはずだった。


父ならどうするだろう。


ベルクなら、こんな状況でどう判断するだろう。


無謀に戦うな。


勝てない相手からは逃げろ。


父から教わった言葉が頭をよぎる。


分かっている。だが、逃げた先にはリアがいる。


自分が退けば、彼女はどうなる。


「……くそっ!」


ラルフは剣を構え直した。


グラウヴォルフが低い姿勢から飛びかかってきた。喉元を狙うような動きだった。


ラルフは剣を横に構え、必死に受け止めた。


金属が硬いものにぶつかる音が響く。


衝撃で腕が痺れた。剣が弾かれそうになり、ラルフは両手で柄を握り締める。


目の前には、巨大な牙があった。


あと少しでも力が足りなければ、喉を食い破られていた。


魔物の息が顔にかかる。生臭い臭いがした。


押し返せない。


力の差がありすぎる。


このままでは、いずれ剣を弾き飛ばされる。


ラルフは剣をわずかに傾け、魔物の力を横へ逃がした。


ロイドに何度も修正された動きだった。


真正面から受けるな。


相手の力をまともに受ければ、弱い方が負ける。


グラウヴォルフの頭が横へ流れた。


その隙を、ラルフは見逃さなかった。


剣を振り抜く。


刃が魔物の前脚を切り裂いた。


グラウヴォルフが唸り声を上げ、後ろへ飛び退く。


ラルフは膝をつきそうになりながら、どうにか踏みとどまった。


確かに傷を負わせた。


しかし、魔物はまだ立っていた。前脚から血が流れているにもかかわらず、動きが鈍くなったようには見えない。


一方のラルフは、肩の痛みで呼吸すら苦しくなっていた。


剣を握る手も震えている。


あと何回、攻撃を避けられる。


あと何回、剣を振るえる。


考えるまでもなく、長くは持たない。


グラウヴォルフが再び身を低くした。


ラルフは構える。


魔物が飛びかかる。


横へ跳んだが、今度は避けきれなかった。


鋭い爪が脇腹を掠め、身体が大きく傾く。


「ぐっ……!」


地面に倒れかけたところを、どうにか剣で支えた。


呼吸をするたびに脇腹が痛む。


それでも、ラルフは顔を上げた。


グラウヴォルフが迫ってくる。


もう、まともに避けられる自信はなかった。


剣を振るう腕にも、先ほどまでの力は残っていない。


それでも、リアを背後にかばうように立った。


「……来るな」


声は震えていた。


魔物は止まらない。


「来るなよ……!」


ラルフは剣を握り締めた。


怖かった。


死にたくない。父と母を探したい。


訓練を始めて三週間。少しずつ強くなっていると思っていた。いつかは魔の森へ入り、両親を探せるかもしれないと考えていた。


だが、現実は残酷だった。


積み重ねてきた技術も、身につけた動きも、目の前の魔物との実力差を覆すには足りなかった。


グラウヴォルフが吠えた。


次の瞬間、その巨体が地面を蹴った。


ラルフは剣を振り上げた。


しかし、間に合わない。


衝撃が身体を襲った。


剣が手から弾き飛ばされ、地面を転がっていく。


ラルフは背中から倒れ込んだ。


「ラルフ!」


リアの悲鳴が聞こえた。


起き上がろうとしたが、身体が動かなかった。


息を吸うだけで胸が痛む。腕に力を込めても、地面を押すことすらできない。


視界の端で、グラウヴォルフがこちらへ歩いてくるのが見えた。


魔物はラルフを見下ろしていた。


黄色い瞳に迷いはない。ただ、目の前の獲物を仕留めようとしている。


「……くそ……」


声が漏れた。


リアを守ると決めたのに、何一つできていない。


背後から、リアの泣き声が聞こえる。


「いや……ラルフ……!」


その声を聞き、ラルフは無理やり身体を起こそうとした。


動け。


頼むから、動いてくれ。


だが、身体は言うことを聞かなかった。


グラウヴォルフが目の前まで迫っていた。


大きく開かれた口から、鋭い牙が覗く。


これが、死ぬということなのか。


父も母も、まだ見つけていない。


何も分からないまま、ここで終わるのか。


ラルフの脳裏に、農場の風景が浮かんだ。


父が畑を耕す姿。


母が優しく笑う顔。


そして、いつものように話しかけてくるリアの声。


まだ、終わりたくなかった。


「……父さん……母さん……」


かすれた声が、唇からこぼれた。


グラウヴォルフが、ゆっくりと身を低くした。


次の一撃で、すべてが終わる。


ラルフは魔物を見つめた。


誰かに助けてほしかった。


けれど、もう助けを待つことさえできない。


ふと、父の言葉が脳裏をよぎった。


勝てない相手とは戦うな。


状況を見極めろ。


無謀と勇気を履き違えるな。


ラルフは唇を噛んだ。


逃げられない。


勝てない。


それでも、リアを置いていくことだけはできなかった。


ラルフは、ゆっくりと背後を振り返った。


リアが泣いていた。


マリーを抱きしめ、恐怖に顔を歪めながら、それでもラルフから目を離せずにいる。


守ると約束した。


大丈夫だと言った。


その約束を、ここで投げ出すわけにはいかなかった。


ラルフは、地面に転がったショートソードへ手を伸ばした。


指先が柄に触れる。


痛みで震える腕に残された力を振り絞り、どうにか剣を握り直した。


立ち上がることはできない。


身体は限界だった。


それでも、剣だけは手放さなかった。


「……父さんなら」


かすかな声が漏れた。


父なら、どうするだろう。


今の自分では、この魔物には勝てない。


逃げることもできない。


ならば、残された選択肢は一つしかなかった。


ラルフは、背後のリアを見た。


「リア……逃げろ」


「いや……! ラルフ、やだ……!」


「逃げろ!」


ラルフは残された力を振り絞って叫んだ。


リアが息を呑む。


ラルフは再びグラウヴォルフへ向き直った。


勝てなくてもいい。


生き残れなくてもいい。


せめて、自分の命と引き換えに、この魔物に一撃を叩き込む。


リアが逃げる時間を作る。


それが、今の自分にできる唯一のことだった。


「……リアだけは、連れていかせない」


ラルフはショートソードを握り締めた。


震える腕に力を込め、身体を起こす。


足はふらつき、視界もぼやけている。


それでも、魔物から目を逸らさなかった。


グラウヴォルフが低く唸り、身を沈める。


来る。


ラルフは剣を構えた。


次の一撃で、自分は死ぬかもしれない。


いや、おそらく死ぬ。


それでも、最後まで抵抗してやる。


父さん。


俺は、あなたのようには強くない。


あなたのように正しい判断ができているのかも分からない。


それでも、俺は――。


グラウヴォルフが地面を蹴った。


ラルフもまた、残された力を振り絞り、魔物へ向かって踏み出そうとした。


その瞬間だった。


目の前に、人影が割り込んだ。


「あ…」


見覚えのある背中だった。


無駄のない立ち姿。


剣を構える腕に、一切の迷いはない。


ロイドは振り返らなかった。


「……よく持ちこたえたな、ラルフ」


その声は、いつもの訓練と変わらないほど落ち着いていた。


ロイドは剣を構え直す。


「後は俺に任せろ」


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