門が破れる日
ロイドの指導を受けるようになってから、三週間が経った。
朝は農場の仕事を手伝い、家の裏手の森で薬草を採取する。採取した薬草をエレナに買い取ってもらい、午後からはギルドでロイドの訓練を受ける。
そんな日々を繰り返すうちに、ラルフの剣さばきは少しずつ形になっていった。
最初は剣を振るだけで精一杯だった。今では踏み込みや身体の使い方を意識し、ロイドの動きにも以前より反応できるようになっている。
もちろん、ロイドにはまだ一度もまともに打ち込めていない。それでも、三週間前にはできなかった動きが、少しずつできるようになっていた。
薬草採取も同じだった。
葉の形や生えている場所、土の湿り気。エレナに教わったことを意識して観察するうちに、薬草を見つける精度も上がっていた。
わずかずつではあるが、ラルフは確実に成長していた。
その日も、ラルフは家の裏手の森で薬草を探していた。
いつものように周囲を観察しながら、薬草の葉に手を伸ばす。
その瞬間、ふと手が止まった。
何かがおかしい。
はっきりと理由を説明できるわけではなかった。ただ、いつもと違う何かを感じたのだ。
森の音が少ない。
普段なら聞こえてくる鳥のさえずりが途絶え、小動物の気配も感じられない。
ラルフは顔を上げ、周囲を見回した。
その時、遠くから鐘の音が響いてきた。
街の門がある方角だった。
一度、二度。
短い間隔で繰り返される鐘の音は、普段の暮らしの中で耳にするものとは明らかに違っていた。
ベネディクタで暮らしてきたラルフも、こんな音を聞いたことはない。
「……何だ、あの音」
ラルフは門のある方角を見つめた。
やがて、道の向こうから人々の声が聞こえてきた。
「魔物だ! 門の方に魔物が出たらしいぞ!」
「何だって? この街に!?」
「森から大量に押し寄せてきているって話だ!」
通りかかった人々が足を止め、互いに顔を見合わせる。
ベネディクタは、これまで大規模な魔物の侵入を経験したことがない街だった。
魔の森が危険な場所であることは誰もが知っている。だが、街そのものが魔物の群れに襲われるなど、ほとんどの住民にとって想像すらしたことのない事態だった。
「そんな馬鹿な……」
「門は大丈夫なのか?」
「早く家に戻った方がいい!」
人々の声に不安が混じり、道には次第に慌ただしさが広がっていく。
門のある方角からは、鐘の音が鳴り続けていた。
何かが起きている。
それも、今まで経験したことのないような何かが。
ラルフは手にしていた薬草を袋にしまい、道の方へ出た。
その時だった。
街の方から、一人の男が慌ただしく駆けてきた。
「ラルフ!」
息を切らしていたのは、隣家のトーマスだった。
「トーマスさん? どうしたんですか?」
「リアを見なかったか!?」
トーマスはラルフの前で足を止めると、焦った様子で周囲を見回した。
「リアなら、家にいるんじゃ……」
「それが、いないんだ!」
トーマスは声を荒らげた。
「街から戻ってきたら姿が見えなくてな。家の中も周りも探したんだが、どこにもいないんだ!」
その顔には、隠しきれない焦りが浮かんでいた。
「まさか、こんな時に……」
トーマスは言葉を詰まらせた。
街では魔物が現れたという話が広がっている。鐘の音も鳴り止まない。
そんな状況で、娘の姿が見当たらないのだ。
父親として、冷静でいられるはずもなかった。
「ラルフ、頼む! リアを一緒に探してくれないか!?」
「……分かりました」
ラルフは即座に答えた。
「俺はあちらを探します!」
そう言って、街の門がある方角を指した。
リアがどこへ行ったのかは分からない。だが、じっとしているわけにはいかなかった。
「頼む……! 俺も別の場所を探してくる!」
トーマスはそう言い残し、別の方向へ駆け出していった。
ラルフもすぐに走り始めた。
リアが普段どこで過ごしているのか。どこへ行きそうなのか。
頭の中で思い当たる場所を次々と浮かべながら、周囲を探していく。
その時、ふと足が止まった。
微かな音が聞こえた。
風に揺れる草木の音。その向こうに、何かが動く気配がある。
ラルフは意識を集中させた。
以前なら聞き逃していたかもしれない小さな物音が、妙にはっきりと感じられる。
どこから聞こえたのか。
何が動いたのか。
考えるより先に、身体がそちらへ向いていた。
ラルフは再び走り出した。
しばらく進むと、ラルフはリアが好きな場所を思い出した。
街の門に近いところに、小さな小川が流れている。水辺には季節の花が咲き、リアは以前からその場所を気に入っていた。
花を摘んだり、マリーと一緒に過ごしたりすることもあった。
もしかしたら、あそこにいるのかもしれない。
ラルフは進路を変え、小川へ向かった。
走るにつれて、門の方から聞こえる鐘の音が少しずつ大きくなっていく。
その音を背に、ラルフは足を速めた。
やがて、草むらの向こうに見覚えのある茶色と白の毛並みが見えた。
「マリー!」
リアの飼い猫だった。
マリーはラルフに気づくと、短く鳴いた。
「お前、こんなところにいたのか。リアは一緒か?」
マリーはラルフを見つめたあと、小川の方へ歩き出した。
まるで、ついてこいと言っているようだった。
「待ってくれ!」
ラルフはマリーの後を追った。
小川のほとりに、小さな人影があった。
リアは水辺にしゃがみ込み、摘んだ花を両腕で抱えていた。そばにはマリーがいる。
「リア!」
ラルフの声に、リアが顔を上げた。
「……ラルフ?」
その声は震えていた。
頬には涙の跡があり、小さな身体も怯えたように震えている。
「どうしたんだ!?」
ラルフが駆け寄ると、リアはマリーを抱く腕に力を込めた。
「鐘が鳴って……みんな、魔物が出たって……」
リアは途切れ途切れに言葉を続けた。
「帰ろうと思ったの。でも、怖くて……足が動かなくなっちゃって……」
最後の方は、ほとんど声になっていなかった。
リアはまだ九歳だ。
今まで、ベネディクタの街が魔物に襲われるなど考えたこともなかっただろう。ましてや、遠くから聞こえる鐘の音と人々の叫び声は、幼い少女には十分すぎるほど恐ろしいものだった。
「……そっか」
ラルフはリアのそばにしゃがみ、できるだけ落ち着いた声で告げた。
「もう大丈夫だ。俺が来たから。家に帰ろう」
リアは涙を浮かべたまま、小さくうなずいた。
ラルフは立ち上がり、リアに手を差し伸べた。
その時だった。
低い唸り声が聞こえた。
ラルフの動きが止まる。
背筋に、冷たいものが走った。
音のした方へ、ゆっくりと顔を向ける。
そこにいたのは、大型の狼に似た魔物だった。
黒灰色の体毛。鋭い牙。人間など簡単に噛み砕けそうな顎。そして、こちらを見据える黄色い瞳。
グラウヴォルフ。
ラルフは、その名を知らなかった。
だが、目の前の存在が危険であることは、考えるまでもなく理解できた。
普通の狼とは明らかに違う。
その体躯も、放たれる威圧感も、これまで見たどんな動物とも異なっていた。
グラウヴォルフは、ゆっくりと前脚を踏み出した。
ラルフはリアを背後にかばい、腰のショートソードに手をかける。
心臓が激しく脈打っていた。
ロイドとの訓練で、何度も自分より強い相手と向き合ってきた。
敵わない相手から逃げることの大切さも、頭では理解している。
だが、今、自分の後ろにはリアがいる。
逃げるわけにはいかなかった。
「リア、俺の後ろから離れるな」
声が震えないよう、ラルフは努めて落ち着いて言った。
グラウヴォルフが低く唸る。
次の瞬間、その巨体が地面を蹴った。
ラルフは剣を抜き、迫り来る魔物を正面から見据えた。




