#9
アーサー殿が白目を剥いて倒れ、そして目も眩むような純白の光に包まれて完全復活を遂げた直後のことである。
静まり返っていた市場の広場が、突如として蜂の巣をつついたような騒ぎに包まれた。
「お、おい見ろ! 小隊長殿の腹の傷が完全に塞がってるぞ!」
「欠損していた鎧まで直ってやがる! なんだあの泥、最高位の霊薬じゃないか!」
奇跡を目の当たりにした冒険者や傭兵たちが、血走った目で私たちの屋台へと殺到したのである。
「頼む、その竹筒を一つ売ってくれ! 金貨一枚出す!」
「こっちは銀貨十枚だ! 仲間が魔物の毒で死にかけてるんだ!」
先ほどまで「不気味な光を放つ泥」として遠巻きにされていた私の陣中食は、瞬く間に奪い合いの的となった。
私は殺気立つ男たちの気迫に一切動じることなく、袖を抑えながら静々と竹筒を手渡していく。
「皆々様、お怪我をされているのは分かりますが、焦らずとも陣中食は逃げませぬ。滋味あふれる野草の味わいを、どうかゆっくりと堪能してくださいませね」
「ガラシャちゃん! 誰も味わいたくないから! 命が惜しいから買ってるの!」
傍らで代金を受け取るクレアが、悲鳴のようなツッコミを入れる。
(はて。味よりも栄養を重んじたつもりでしたが、これほどまでに私の手料理が求められるとは。やはり戦場に生きる者にとって、温かな飯は何よりの喜びなのですね)
結果として、屋台に並べていた竹筒は瞬く間に完売し、クレアが持参した麻袋の中には、見たこともない量の金貨と銀貨がずっしりと収まることとなったのである。
* * *
「はあ……心臓が縮むかと思った。聖騎士様が白目剥いた時は終わったと思ったのに、まさかあんなに売れるなんて」
早々に店じまいをした私たちは、クレアの案内で聖都の街路を歩いていた。
ずっしりと重い金貨の袋は、商いの知識に長けたクレアに預けてある。
私はすっぽりと被った粗末な外套の裾を整えながら、平和な街の営みに目を細めた。
立ち並ぶ美しい石造りの建造物。店頭に並べられた色鮮やかな果実や、繊細な細工が施された魔道具の数々。
かつて天下の台所と呼ばれた堺の町や、京の都の繁栄にも一切の引けを取らぬ見事な賑わいである。いや、それ以上にも見える。だが、決定的に違うことが一つあった。
(この街の普請には、戦を想定した備えが皆無に等しい……)
大通りを見渡しても、敵の侵攻を遅らせるための枡形や、鉄砲を撃ち掛けるための狭間、石落としの仕掛けなどがどこにも見当たらないのだ。
ただ純粋に、民が健やかに生き、商いをするためだけに造られた美しい街。
その絶対的な平和への信頼が、私の乾いた心に柔らかな風を吹き込んでくる。
「ねえガラシャちゃん、あそこのお店見て! 新しい魔石の飾りが……」
はしゃぐクレアの声に頷こうとした矢先、前方から歩いてきた一団に、私の視線は釘付けになった。
背に大剣を背負い、杖を手にした冒険者の集団。
その先頭を闊歩して笑い合っているのは、紛れもなく「女性」であった。
(……女性が、刃を帯びて戦場に立つというのですか?)
私は思わず足を止め、外套の奥でわずかに息を呑んだ。
日ノ本の戦国の世において、武家の女の運命とは、ただ「待つ」ことであった。
政略の道具として見知らぬ他家へ嫁ぎ、男たちが起こす戦の勝敗に己の命を委ねる。
もし城が落ちれば、辱めを受ける前に奥御殿で自刃するか、薙刀を振るって玉砕するしか道はなかったのだ。
私自身も、本能寺での父の決起により、どれほど理不尽な死の淵を彷徨ったことか。
だが、目の前を歩く彼女たちの出立ちはどうだ。
誰の庇護も受けず、己の足で立ち、自らの手で武器を握って運命を切り拓いている。その力強く朗らかな顔つきに、私は形容しがたいほどの熱い感動を覚えた。
(なんと尊きことでしょう。この世界では、女も己の刃で生き様を選べるのですね)
私は目を伏せ、胸元のロザリオをそっと握りしめた。
過去のしがらみから解き放たれ、ただの町娘として生きる自由を与えられた奇跡に、改めて感謝の祈りを捧げる。
――しかし。感動の余韻は、彼女たちの「防具」を詳細に観察した瞬間に、冷水となって吹き飛んだ。
「クレア」
私は極めて真剣な、氷のように冷ややかな声で隣の少女を呼んだ。
「ん? どうしたのガラシャちゃん。そんな真顔になって」
「あの者たち……いくらなんでも、死を急ぎすぎではありませぬか」
私は外套の陰から、前方を行く女性冒険者たちを指差した。
彼女たちが身に纏っているのは、見たこともない奇妙な甲冑であった。
胸の谷間が大きく開き、腹部や太ももは惜しげもなく露出され、金属の板は申し訳程度にしかあてがわれていない。
「あの装束はいけませぬ。あのように大腿部(太もも)の動脈を晒して歩くなど、伏兵の竹槍や火縄銃の格好の的です。胸元を開けておくのも、敵の刃を心臓へ誘導してくれと言わんばかりの愚行」
私は戦陣を見分する武将のような険しい目で、矢継ぎ早にダメ出しを続けた。
「いかに平時とはいえ、あれでは初陣で命を落とします。せめて内側に鎖帷子を着込み、急所には鉄板を打ち付けねば。私が今すぐ呼び止めて、陣立てと防具の基礎を叩き込んでまいりましょう」
私が本気で足を踏み出そうとした瞬間、クレアが悲鳴を上げて私の腰にすがりついた。
「待って待って待って! 行かないでガラシャちゃん! あれは『魔法防具』だから!」
「まほうぼうぐ……とは?」
「あの鎧には魔力が込められててね、肌を露出してる方が空気中の魔力を吸収しやすくて、見えないバリアを張ってくれるの! だから槍で突かれても平気なの!」
クレアの必死の解説を聞き、私はピタリと足を止めた。
(バリア……。見えない障壁……。肌を晒すこと自体が、防壁の役目を果たすと?)
「……なるほど。理にかなっている……のでしょうか」
私は首を傾げた。
この世界の「魔法」という理は、やはり私の常識をはるかに超えているらしい。
とはいえ、当世具足の機能美を知る者としては、どうにも肌寒い装束に見えて仕方がないが。
「もう、急に物騒なこと言わないでよ……」
クレアは疲れたように息を吐き、それから私の全身をじっと見つめた。
最高級の絹の小袖の上に、私が借りた粗末な麻の外套を羽織っている、いびつな姿を。
「……どうかいたしましたか?」
「ねえ、ガラシャちゃん。今日はあのポーションのおかげで、使い切れないくらいのお金が手に入ったよね」
「ええ。ひとえにあなたの商才のおかげです」
「じゃあ、決まりだね!」
クレアは悪戯っぽく笑い、私の手を取って歩き出した。
「次は仕立て屋さんに行こう! さすがに私の古いマントを着せっぱなしにはできないし、その下に着てる王族みたいなドレスも、市場じゃ目立ちすぎるからね」
「おや、私のお着物を新調してくださるのですか?」
「うん! ガラシャちゃんに似合う、最高に可愛い『町娘の服』を私が選んであげる!」
布地を選ぶとなれば、武家の娘としての目利きが試される。
私は微かに口角を上げ、「それは楽しみですわ」と優雅に頷いた。
未知なる異世界での、初めての装い選び。
誰かにあてがわれた姫君の着物ではなく、自らの足で歩くための服を仕立てる喜びに、私の心は静かに、けれど確かに弾んでいた。




