#10
賑やかな大通りを抜け、クレアが案内してくれたのは豪奢な石造りの建物の立ち並ぶ一角であった。
ショーウィンドウと呼ばれる透き通るガラスの向こうには、色とりどりのドレスや飾り結びが並んでいる。
「さあ、着いたよ! 聖都で一番人気の仕立て屋さん!」
クレアは私の手を引き、強引に店の中へと足を踏み入れた。
店内は、まるで百花繚乱の様相であった。
壁という壁に柔らかな絹や木綿、見たこともない光沢を持つ布地が掛けられ、若い娘たちが瞳を輝かせながら品定めをしている。
だが、その華やかな空気の中で、私は一人、完全に結界を張ったように背筋を伸ばし、己の小袖の袖口をきつく握りしめていた。
「クレア。私の衣装など、今着ているこの服と、あなたの外套があれば十分ですわ。どうかお気遣いなく……」
「ダメ! これから街に出る度に、私のボロマントの下に王族みたいなドレス隠して歩く気? 絶対に変な人に狙われるってば!」
クレアの言うことは最もである。
ならば仕方がない。私は渋々頷き、棚に並んだ衣服の群れへと視線を向けた。
「では、こちらの装束はいかがでしょう」
私が指差したのは、首元までしっかりと布で覆われ、足首まで長さのある茶色い木綿の長衣であった。
これならば肌を晒すこともなく、武家の女としての恥を知ることもない。
「ええーっ!? ガラシャちゃん、せっかくすっごい美人なんだから、そんな修道女のお婆ちゃんみたいな服じゃもったいないよ!」
クレアは私が選んだ服を容赦なく棚へ戻すと、次々と別の服を私の腕に押し付けてきた。
「これなんかどう? 首元が少し開いてて、デコルテが綺麗に見えるよ! あと、こっちの膝下丈のスカートも動きやすくて可愛い!」
(で、でこるて……? 膝下丈……!?)
私は戦慄した。
うなじや手首、ましてや足など、武家の女が安易に他者に晒してよいものではない。それは己の貞淑さを捨てるに等しい振る舞いである。
「い、いけません! このように布地が乏しい衣服など……。は、はしたない!」
「はしたなくない! かわいいの! ! はい、試着室行って!」
抵抗虚しく、私はクレアの力強い手によって試着室のカーテンの奥へと押し込まれた。
* * *
数刻後。
私は試着室から、おそるおそる外へと出た。
クレアが選んだのは、淡い若草色のブラウスに、深い緑色の膝下丈のスカート。そして焦げ茶色の革の編み上げ靴であった。
首元は鎖骨が少し見える程度に開いており、歩くたびにスカートの裾がふわりと揺れる。
「……やはり、あまりにも無防備な気がいたします」
私は羞恥に顔を染め、所在なく両手でスカートの裾を押さえた。
日ノ本にこの姿で立てば、皆が我が目を疑うであろう。
なにより夫の束縛が強まるのが想像できる。
だが、クレアは両手を叩いて歓声を上げた。
「すっごく可愛い!! 完璧な『普通の町娘』だよ! よし、これ全部ください!」
「お、お待ちください。私の衣服に、あなたの銀貨を使わせるわけには……」
「今日のポーションの売り上げは、ガラシャちゃんが作ったものなんだから、ガラシャちゃんのお金だよ。私が金庫番として、必要なものに投資してるだけ!」
クレアは得意げに笑い、ずっしり重い麻袋から銀貨を取り出して店主に渡した。
財布の紐を握られている以上、私にはどうすることもできなかった。
* * *
仕立て屋を出た私たちは、そのまま大通りの角にある開放的なテラス席へと腰を下ろした。『カフェ』と呼ばれる、休息のための茶屋らしい。
「疲れたでしょ? 甘いもの食べて休憩しよ」
クレアが頼んでくれたのは、白い陶器の皿に盛られた、見たこともないほど美しいお菓子であった。
黄金色に焼かれた薄い生地の上に、雪のように白い泡(生クリームというらしい)が乗り、その上に赤く艶やかな果実が飾られている。
「これは……?」
「いちごのクレープ! このお店の看板メニューなんだよ。食べてみて」
私は銀のフォーク(という名の小さな鉾)を手に取り、そっと一口分を切り分けて口に運んだ。
――瞬間。
(……!!)
私は目を見開いた。
口の中で溶けるような白い泡の濃厚な甘みと、果実の鮮烈な酸味。
それらを優しく包み込む、温かく柔らかな生地。
生前、伴天連から贈られた高価な『金平糖』や『カステイラ』を口にしたことはあったが、目の前のこのお菓子の持つ複雑で豊かな味わいは、それらを遥かに凌駕していた。
「……美味しい……」
私は、己が武家の娘であることも、三十七歳の達観した精神であることも忘れ、ただ無邪気にほころんだ笑顔をこぼしていた。
結界を張る必要のない、純粋な喜びの味であった。
そんな私を、クレアは少し驚いたような、そしてとても優しい目で見つめていた。
「ガラシャちゃん、そういう風に笑うと、本当に年相応の女の子って感じがするね」
「……え?」
「普段はすごく隙がなくて、大人びてるっていうか……。きっと、ガラシャちゃんは、すごく厳しくて、自由のない生活をしてきたんだなって思ったの」
クレアは自身のクレープをフォークでつつきながら、静かに尋ねてきた。
「ガラシャちゃんは、どこの国から来たの? なんで、こんな一人で聖都に? 家族は……いないの?」
純粋な、他者を気遣う温かい問いかけであった。
私はフォークを皿に置き、静かに伏し目がちになった。
前世の記憶をそのまま語るわけにはいかない。
だが、嘘をつくことも、この誠実な友に対しては憚られた。
「……私は、遠い東方の、武家の出です」
私は、史実と現状を織り交ぜながら言葉を紡いだ。
「私の家は、とても厳格な家でした。政と、力こそがすべての世界。……数年前に、大きな家督争い……いえ、戦がありまして。私の父は、時の権力者を討ち、そして……敗れました。家は没落し、私は長らく、山奥の不自由な場所へ幽閉されておりましたの」
本能寺の変、そして味土野での幽閉生活。
あの冷たく重い雪の日の記憶が蘇り、私は袖口をきつく握りしめた。
「えっ……幽閉って、閉じ込められてたの!?」
クレアが息を呑む。
「ええ。ですが、それは私の身を守るための、不器用な愛であったと、今は理解しております。……そういえば、私の殿も、酷く短気で嫉妬深いところがありまして。嫁いでからというもの、私が外へ出ることを、決して許しませんでしたから」
その時である。
私は、口から滑り出たその言葉の響きに、血の気が引くのを感じた。
(……おや?)
「…………え?」
クレアのフォークが、カラン、と音を立てて皿に落ちた。
「ガラシャちゃん……今、なんて?」
「…………」
「『嫁いで』って言った!? もしかして!? ガラシャちゃん、結婚してたの!?」
クレアがテーブルから身を乗り出し、目をひん剥いて叫んだ。
(しまった!!)
私は内心で大いに狼狽した。
戦国の世において、女の十五歳(数え年で十六)といえば、立派な大人である。
私が細川忠興様へ輿入れしたのも、まさに十五の秋であった。
だからこそ、無意識のうちに「殿」や「嫁いで」という言葉が出てしまったのだ。
だが、この平和な異世界において、十五歳の少女に夫がいるなど、到底常識ではあり得ない事態なのである。
三十七歳の記憶と、十五歳の身体の設定が、ここにきて最悪のバグを起こしていた。
「あ、あの……! そ、その……!」
私は必死に頭を回転させた。いかにしてこの失言を胡麻化すか。
「い、家同士の、古いしきたりによる、仮の縁組にございます! ええ、そうです! 私の意志など介在せぬ、政略のための……その、名ばかりの殿でして!」
私は顔を真っ赤にして、早口で捲し立てた。
「ですが、ご安心を! すでに家は没落し、縁は完全に切れております! 私はいま、正真正銘の、独り身の町娘にございますゆえ!」
私の必死の(そしてほぼ事実の)弁明を聞き、クレアはポカンと口を開けていた。
しかし、やがて彼女の顔には、同情でも呆れでもない、深い慈愛の光が宿った。
「……そっか」
クレアは、テーブルの上にあった私の震える手を、両手で優しく包み込んだ。粉の匂いのする、働き者の温かい手だった。
「ガラシャちゃん、私と同い年なのに……色んなものを背負って、たくさん、たくさん頑張ってきたんだね」
「クレア……」
「もう、怖いことは何もないよ。無理して大人ぶらなくていいし、お姫様みたいな言葉遣いも、少しずつ直していけばいい。これからは、私になんでも話してね」
私と同い年。
その言葉で、私は初めて、目の前の彼女が――お静の面影を持つ彼女が、今の私と同じ十五歳の少女なのだと、はっきりと認識した。
「……私もね、実はお父さんが病気で、一人でパン屋を切り盛りしててさ。けっこう大変なんだよ」
クレアは少し照れくさそうに笑い、「でも、ガラシャちゃんの激マズポーションがあれば、お父さんの病気も一瞬で治りそうだなー」と冗談めかして言った。
私は、包まれた手の温もりに、小さく頷いた。
「ええ。私の祈りが、あなたと、あなたのご家族の安寧の助けとなるのなら、これほど嬉しいことはありません」
私はもう、怨念を抱えた大名家の奥方ではない。
ただの、十五歳の町娘・グラティアであり「ガラシャ」だ。
「ありがとう、クレア」
結界を持たない、柔らかな笑顔が、自然とこぼれた。
テラス席に吹き抜ける風は優しく、十五歳の二人の少女の前には、甘く美しい南蛮菓子が、溶け残った雪のように輝いていた。




