#11
まどろみの中、私は懐かしい水の匂いを感じていた。
広大な琵琶湖のさざなみが、静かに石垣を打つ音。
父・明智光秀が築いた、豪麗なる坂本城の庭である。
信長様の天下布武の最前線であり、文化的で恵まれた環境にあったこの城は、明智家の誇りであった。しかし、織田家において父は外様の身。
その地位は常に薄氷の上にあり、城の奥深くには常に張り詰めたような緊張感が漂っていたのを覚えている。
だが、母・妻木煕子の傍にいる時だけは、その冷たい空気が和らいだ。
『玉。この土の冷たさも、陽の光も、すべてが命を育む力なのですよ』
柔らかな笑みを浮かべた母が、幼い私の小さな手を包み込み、庭の隅に水色の桔梗の苗を植えていく。
『父上は、このお城を命懸けで守っておられます。けれど、家や城というものは、石垣や建物の立派さだけでできているのではありません。そこに住む者の祈りと、慈愛によって築かれるもの。……ほら、ここは私たちの、小さなお城ですね』
泥だらけになった手で、母は私の頬を優しく撫でてくれた。
その直後、軍議を終えて庭を通りかかった父上が、私たちの様子を見てわずかに目を細めた。
『玉よ。城とは、己の命を懸けて守るべき領土であり、生き様そのものだ。いつかそなたも、《《己の守るべき城を持て》》』
父のその厳しい眼差しと、母の温かな手の感触が、桔梗の青とともに深く心に刻まれている。
* * *
小鳥の囀りに目を覚ますと、そこは坂本城の絢爛な御殿ではなく、古びた修道院跡地の硬い寝台であった。
身を起こし、朝の冷たい空気を胸に吸い込む。
(……己の守るべき城、ですか)
かつて私は細川家の奥御殿という「城」に幽閉され、最後はその城ごと炎に包まれて散った。自分の意志で守れるものなど、何一つなかった。
だが、この異世界では違う。
私は窓の外に広がる、荒れ果てた庭を見渡した。
「この修道院跡地を、誰にも奪われない『私の城(家)』にいたしましょう」
小さく呟き、私は袖を襷で括り上げて庭へと出た。
「ハッ! 姫君、本日の開墾の陣立てはいかがいたしましょう!」
庭の隅で丸くなっていたシロが、弾かれたように跳ね起き、勇ましく前足を鳴らす。
「おはようございます、シロ。今日は、昨日クレアたちと市場で買ってきた花の種を植えたいと思います。こちらの花壇の土を柔らかくしていただけますか」
「承知仕りましてござる! このシロの爪にかかれば、岩盤とて絹の如く解してみせましょう!」
シロが猛烈な勢いで前足を動かし、あっという間に見事な花壇の土台が完成した。私はそこへ、色とりどりの花の種を丁寧に撒いていく。
種に土を被せ終え、私はふと、胸元のロザリオに手を触れた。
(……この祈りの力には、いまだに慣れませんね)
生前、私がどれほど熱心に祈りを捧げようと、それはあくまで心の内側にある静かな信仰であった。
だが、この世界では、祈りが『恩寵』という物理的な光や奇跡となって顕現してしまう。
私は小さく息を吐いた。
私がラテン語で唱えるこの祈りは、この世界においては大聖堂に祀られているという「慈愛の女神様」へと届いているのだろうか。
一神教たるキリスト教の教えを魂に刻む身として、異世界の神に祈りが繋がることへの戸惑いが無いと言えば嘘になる。
だが、神は姿や名を変えて、この見知らぬ世界でも私を見守ってくださっているやもしれぬ。そう考えればこの不思議な力も寛容に受け入れることができる。
「主よ(ドミネ)……いえ、女神様。この小さな命たちに、健やかに咲き誇る恵みを与えたまえ(ベネディク・ドミネ)」
私は目を閉じ、そっと祈りを捧げた。
カッ、と掌から純白の光が溢れ出し、花壇の土へと吸い込まれていく。
やはり、少しばかり祈りに熱を込めすぎてしまったらしい。
ポンッ! ポポンッ!
小気味よい音を立てて、土の中から一瞬にして緑の芽が吹き出し、瞬く間に茎を伸ばし、私の背丈の半分ほどの大きな蕾をつけた。
そして、七色に輝く花弁が一斉に開いたかと思うと――。
『〜〜〜♪ ~~~♪』
庭に、透き通るようなソプラノの美声が響き渡った。
見れば、光り輝く花たちが風に揺れながら、見事な和音で賛美歌のようなメロディを合唱しているではないか。
「まあ。なんと賑やかで、おしゃべりな花たちですこと」
私は微かに目を見張り、優雅にパチパチと拍手を送った。
「ヒィン……姫君の妖術には、歴戦の魔狼たる拙者も肝が冷えるでござる……」と、シロが耳を伏せて震えているが、見事な花が咲いたのだから重畳である。
だが、我が城の完成を喜ぶ暇はなかった。
「ガラシャちゃん、いるかい? お客さんを連れてきたよ」
門の跡地からひょっこりと顔を出したのは、ヨゼフ殿であった。
しかし、その背後には見慣れぬ人影がある。
純白の修道服に身を包んだ、私より少し年上と思われる女性であった。
銀色の髪をきっちりと結い上げ、手には分厚い書物と杖を持ち、眼鏡の奥の瞳は神経質そうに細められている。
「……ヨゼフ殿。この修道院跡地を不法占拠しているのは、この娘ですか。しかも、この異常な魔力の発光と……は、花が歌っている!?」
女性は庭の惨状(合唱コンクール)を見るなり、顔を強張らせて後ずさった。
「紹介しよう。彼女はシスター・エララ。大聖堂から来たんだ。……その、昨日市場で出回った『奇跡のポーション』の噂が上の耳に入ってね。出処の調査に来たんだよ」
ヨゼフ殿が申し訳なさそうに胃を押さえながら説明する。
(大聖堂からの、調査の使者……)
その言葉を聞いた瞬間、私の中の三十七歳の警戒心が、警鐘を打ち鳴らした。
権力の中枢からの査問。
それはすなわち、謀反の疑いをかけられた大名のもとにやってくる『検見の使い』に等しい。
一歩対応を誤れば、異端審問にかけられ、最悪の場合は我が城ごと焼き払われるやもしれぬ。
私は瞬時に結界を張り、冷ややかなまでの気品を纏って歩み出た。
「ようこそおいでくださいました、大聖堂の使者殿。私は細川ガラシャと申します。まずは粗茶でもいかがでしょうか」
「そ、粗茶……? いや、私は異端の魔道具や、違法な霊薬の製造を調査しに……」
「立ち話もなんですから。どうぞ、こちらへ」
私は有無を言わさぬ微笑みで彼女を縁側へと誘い、手早く竈の火を起こした。
権力側の使者を懐柔、あるいは牽制するには、まずはこちらの手の内(力)を見せつけるのが戦国の習いである。
私は裏庭から昨日残った光る薬草をむしり取り、鍋に放り込んでドロドロに煮立てた。
仕上げに「主よ、この茶に清めを」と過剰な恩寵(浄化)を込め、チカチカと不気味に発光する暗緑色の『特製ポーション(泥汁)』を木杯に注いだ。
「我が陣……いえ、我が家の特製茶にございます。疲れを癒してくださいませ」
私は盆に木杯を乗せ、エララ殿の前に静かに差し出した。
エララ殿は、木杯の中でシュウシュウと音を立てて光る泥汁を見て、眼鏡の奥の目を限界まで見開いた。
「こ、これは……一体……!? どう見ても毒薬か、呪いの泥水にしか見えないのですが!」
「おや、ご安心を。味は少々武骨ですが、一命は取り留めますゆえ」
「一命は取り留める!? それはつまり致死量一歩手前ということですか!」
エララ殿は震える手で杖を握りしめたが、大聖堂の修道女としてのプライドが勝ったらしい。
「……よろしい。あなたが何を企んでいるのか知りませんが、私がこの目で確かめてやろうじゃありませんか。もし毒が入っていれば、即座に異端として連行しますからね!」
彼女は決死の覚悟で木杯を手に取り、目を閉じて一気に泥汁を喉に流し込んだ。
ゴクリ。
「――っ!!??」
刹那、エララ殿の全身が硬直し、手から木杯が滑り落ちた。
「あ……あぶ、ぶぶ……っ……土と、雑草の、煮汁……っ」
彼女は白目を剥き、口から一筋の魂(泡)を吐き出すと、縁側にごろりと仰向けに倒れ伏したのである。
「エララ君!? だからやめろと言ったのに!!」
ヨゼフ殿が悲鳴を上げて駆け寄る。
私も「おや、やはり初見の方には刺激が強すぎましたか」と袖で口元を覆った。
だが、次の瞬間。
気絶したエララ殿の身体が、爆発的な純白の光に包み込まれた。恩寵による最高位の浄化と治癒である。
「……ハッ!?」
エララ殿はバチッと目を開け、バネ仕掛けのように跳ね起きた。
「な、なんだこれは……!? 日々の写本作業でバキバキだった首と肩が、羽のように軽い……! 慢性的な眼精疲労も消え去り、視界が恐ろしいほどにクリアに! いえ、それどころか、体内の魔力回路が完全に清浄化されている……!」
彼女は信じられないものを見る目で、自分の手と床に転がる木杯を見比べた。
そして、ゆっくりと私を見上げる。
「あ、あなたは……一体何者なのですか……? このような奇跡を、泥水のようなお茶に込めるなど……狂気の沙汰です……!」
震える声で問う彼女に、私はただ静かに、優雅に微笑んでみせた。
「ただの、花と土を愛する十五歳の町娘にございます。……お代わりは、いかがですか?」
「け、結構です!!!」
こうして、歌う花が合唱を続ける狂気の庭の真ん中で、大聖堂の使者・エララ殿は膝を抱えて震え上がった。
彼女が私の秘密を抱え込み、ヨゼフ殿と共に胃薬を分け合う「新たな理解者(犠牲者)」となった瞬間であった。
私のささやかな城の開拓は、思いのほか騒々しい幕開けとなったようだ。




