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#6

 市場の喧騒の中、私は目の前の少女に名乗った。

 かつて私に最後まで付き従った侍女、お静に瓜二つの少女――クレアは、一瞬目を丸くし、それから陽だまりのように笑った。


「ガラシャちゃん? グラティアちゃん? どっちが良いかな?」


「えぇと、ガ、ガラシャで」


「分かった! ガラシャちゃんね! よろしく! なんだか辛いことでもあった?  はい、これおまけ!」


 そう言って彼女が差し出したのは、湯気を立てる焼きたてのパンであった。


「よろしいのですか?」と尋ねる間もなく、私の両手にふんわりとした温もりが押し付けられる。

 一口囓ってみると、かつて伴天連ばてれんの寺で供されたパサパサの硬い欠片とは似ても似つかぬ、豊潤な甘みが口いっぱいに広がった。


 美味しい。


 その素直な感慨とともに、私はふと周囲を見渡した。


 活気ある市場。行き交う人々。笑顔で値切り交渉をする商人たち。

 だが、そこに私を監視する兵の姿はない。

 私の行動を逐一、夫や父に報告する淀んだ目も、いつ御家騒動の火種が爆ぜるかという不穏な気配も、ここには一切存在しないのだ。


(ああ……)


 私は袖の陰で、そっと息を吐き出した。


 物心ついた時から、私は「明智の姫」であり。

 そしてその後は「細川の妻」でもあった。常に誰かの政治の道具として価値を値踏みされ、護衛という名の監視に囲まれて生きてきた。


 一人で市井を歩くなど許されず、常に背後の障子の奥に潜む気配に神経を尖らせていたのだ。


 だが、今は違う。


 私は今、この美しき異世界の街で、何の後ろ盾もないただの「一般の町娘」として、日の光の下に立っている。


 それがどれほど途方もなく自由で、いと尊きことか。

 胸の奥底で、硬く凍りついていた何かが、静かに溶け出していくのを感じた。


「とても美味でした。……クレア様、この対価を」


 私は居住まいを正し、懐から一つの布包みを取り出した。


「お代わりをいただきたいのですが、あいにくこの国の貨幣というものを持ち合わせておりませぬ。これで手を打っていただけないでしょうか」


 そう言って私が差し出したのは、生前、己の小袖の余り布から仕立てた絹のハンカチである。純白の最高級の練絹に、金糸で明智の桔梗紋が精緻に縫い取られている。


 大名家における取引とは、価値ある品(金銀や名物)との物々交換が常識であった。これほどの絹織物であれば、あの丸いパンの十や二十にはなるだろう。


 だが、それを見たクレアは、目を皿のようにして悲鳴を上げた。


「ちょっと待って!? いやいやいや! パン一個で国が買えそうな布を出さないでよ!」


「あら、足りませんでしたか?」


「逆! 逆だから! ガラシャちゃん、等価交換って言葉知ってる!?」


「はて……? では、この布でパンはいくつ買えるのでしょう。もしや千個ほど……。それでは荷車に乗り切りませぬね。シロ、引けますか?」


「ハッ! 姫君の御為とあらば、千の南蛮菓子だろうとこの牙で牽き抜いてご覧に入れまする!」


 傍らで控えていた白い大型犬シロが、凛々しく吠えた。


「犬が渋い声で喋った!? いやそうじゃなくて! ガラシャちゃん、どこかの世間知らずのお姫様なの!?」


 クレアは頭を抱え、私の手から絹のハンカチをひったくって懐に押し返した。


「いいから! これは私からの歓迎の印! お代は絶対にいらないからね!」


 私は目を瞬かせた。

 見返りを求めぬ施しなど、戦国の世では裏に毒か謀略が潜んでいるものだが、彼女の瞳には純粋な善意しか見えない。


 私は「かたじけなく存じます」と静かに頭を下げた。


「まったくもう。……それで、ガラシャちゃんは、その箱で何を売るつもりだったの?」


 呆れ顔のクレアが、私の荷車に置かれた木箱を覗き込む。

 そこには、私が夜を徹して刻んだ「新鮮な薬草」が入っているのだが

 ――やはり、チカチカと不気味なほど眩い光を放っていた。


「ひっ!? なにこれ、光ってる!? 魔石の粉でも混ぜたの!?」

「いいえ、ただの新鮮な草ですわ。少し瑞々しいだけです」

「いや蛍の群れより光ってるから! 大騒ぎになるから隠して!」


 クレアは慌てて木箱に布を被せ、周囲から見えないようにしてくれた。

 傍らでヨゼフ殿が「だから言ったのに……」と胃を押さえてしゃがみ込んでいる。


 一息ついたクレアは、改めて私をじっと見つめた。


 その視線に、私は背筋を伸ばし、無意識に周囲の雑踏へと警戒の目を向けた。

 大柄な男が通るたび、その腰の得物(剣)の位置を確認し、退路を計算する。


「……ガラシャちゃんさ」


 クレアが、ふと真面目な顔で口を開いた。


「さっきから、すごく周りを気にしてるよね?」

「……と、申しますと?」

「背筋はピンとしてるし、誰かが後ろを通るたびにビクッて警戒してる。なんかこう、見えない壁を作ってるっていうか……。人を寄せ付けないように、ずっと気を張ってるみたい」


 私は、わずかに息を呑んだ。


 彼女の言う通りであった。


 私は大名家の姫としての矜持を保つため、そして伏兵から身を守るため、常に己の周囲に「結界」のような張り詰めた空気を纏わせるのが癖になっていたのだ。

 弱みを見せれば、そこを突かれて足元を掬われる。

 それが戦国を生き抜く術であった。


 父上が、本能寺で信長様を討たれてからはなおさらのこと。


「……武家の……いえ、私の家は、少しばかり厳しかったものですから。気を抜くことは、死を意味するやもしれぬと、骨の髄まで叩き込まれておりますゆえ」


 私は静かに目を伏せ、袖口を握りしめた。


 そんな私に、クレアはふわりと笑いかけ、粉まみれの手で私の肩をぽんと叩いた。


「ここでは誰も、ガラシャちゃんを攫ったり、命を狙ったりしないよ」


「……」


「ただの平和な市場だもの。だから、そんなに見えない壁を作らなくていいの。もっと肩の力を抜いて、普通の町娘みたいに笑っていいんだよ」


 普通の、町娘。

 その響きが、どれほど甘く、どれほど私の胸を打ったことか。

 常に「玉様」や「奥方様」と呼ばれ、血塗られた運命の渦中にあった私が、ここではただの一人の少女として扱われている。


(さても……私は、なんと強張った顔をしていたのでしょう)


 私はゆっくりと顔を上げ、結界を解くように、ふっと微笑をこぼした。


「……そうですね。私はもう、ただの『一般人』なのですから」


「そうそう! その笑顔、すっごく可愛いよ!」


 クレアは嬉しそうに頷き、身を乗り出した。


「ガラシャちゃんはどこに住んでるの??」


「えと、街外れの修道院の跡地です」


「あ、跡地!? なんで」


 私がその答えに少し迷っていると、クレアはまたニコッと笑った。


「ん~まあいいや! 明日の朝、パンの配達のついでに遊びに行くから! その光る変な草のこと、詳しく教えてよね!」


「ええ。お待ちしておりますわ、クレア様」

「『様』はなし! クレアでいいの!」

「……ふふ。では、クレア」


 身分による主従でも、政治的な思惑でもない。

 かつて共に笑い合った侍女の面影を持つ少女と、対等な「友達」になれたこと。


 帰り道、空っぽの荷車を牽くシロの横を歩きながら、私は胸元で揺れるロザリオをそっと握りしめた。

 私の異世界でのスローライフは、思いのほか、温かく賑やかなものになりそうであった。

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