#5
荷車を牽くシロの背中越しに、朝靄が晴れていく街道を進む。
森を抜けた先に広がる光景に、私は思わず足を止め息を呑んだ。
「ほら、見えてきた。あれが聖都サン・マリアンヌの正門と、誇り高き大聖堂だ」
先導するヨゼフ殿が、自慢げに杖で前方を指し示す。
「す、すごい」
そこには、天を衝くほどの巨大な白い尖塔があった。
かつて京で目にした南蛮寺など比較にならぬほどの威容である。
街全体を囲む石造りの城壁は、いかなる大筒の攻撃も跳ね返しそうなほど高く、厚い。
「……見事な城塞都市ですね。これほどの普請、どれほどの年月と労力がかかったことか」
私は袖で口元を覆い、感嘆の息を漏らした。
だが、真の驚きは門をくぐった先に待っていた。
「さあ、ここからが下町の市場だ。はぐれないようについてきなさい」
一歩街へ足を踏み入れた瞬間、色鮮やかな活気が奔流となって押し寄せてきた。
足元は泥濘一つない、平らで美しい石畳。
立ち並ぶ家々は木造ではなく、赤や白の焼き固められた土塊と漆喰で造られている。
そして何より私の目を釘付けにしたのは、家々の壁にはめ込まれた、巨大で透き通る板であった。
(あれは……『びいどろ』でしょうか。いや、これほど平らで大きな『ぎやまん』など、信長様でさえお持ちではなかったはず)
日ノ本では目玉が飛び出るほどの値がつくであろう南蛮渡来の宝が、この街ではただの「窓」として、ごく当たり前に使われているのだ。陽光を反射して煌めくガラス窓の連続に、私の視線はせわしなく泳ぎそうになる。
「いけません……」
私は小さく頭を振り、無意識に早鐘を打つ胸の鼓動を抑え込んだ。
大名家の姫として、どのような珍品奇品を前にしても、決してはしたなく目を丸くしてはならない。それは幼き日より叩き込まれた礼節である。
私は背筋をピンと伸ばし、歩幅を小さく保ちながら、あくまで「見慣れた景色を歩く」かのように静々と進んだ。
だが、この異界の街は、私の矜持をいとも容易く揺さぶってくる。
「プギューッ!」
「あらっ!?」
不意に横を通り過ぎたのは、荷車を引く馬……ではなく、見上げるほど巨大な、二本足で歩く羽毛の生えた鳥であった。
その背には人が乗り、巧みに手綱を操っている。
さらには、犬や猫の耳を持った亜人と呼ばれる者たちが人間の商人と談笑しながら荷物を運んでいるではないか。
「ヨ、ヨゼフ様……。あのように巨大な鳥や、獣の姿をした方々も、この街では共に暮らしておいでなのですか?」
私は極力平静を装いながら、瞬きの回数を増やして尋ねた。
「ん? ああ、大鳥(陸行鳥)や獣人族のことかい。この街は来る者を拒まないからね。魔物は別だが、彼らは皆、立派な聖都の住人さ」
ヨゼフ殿は、私の微妙な動揺に気づいたのか、皺くちゃの顔を綻ばせた。
「お嬢ちゃんの故郷には、彼らはいなかったのかい?」
「ええ。日ノ……私の故郷には、言葉を解すのは人間のみでございましたから。いと珍しき光景に、少々目がくらんでしまいましたわ」
「ははは! なら、あれを見たらもっと驚くぞ」
ヨゼフ殿が指差したのは、広場の中央にある石造りの水汲み場であった。
そこには井戸も釣瓶もない。
町娘が壁から突き出た鉄の管の横にある青い石に触れると、何も無い空洞から突如として澄んだ水が勢いよく噴き出したのだ。
「水が……湧き出ましたわ!? いかなるからくりでございましょうか」
「からくりじゃない。あれは『水魔石』を組み込んだ魔道具さ。大聖堂の魔法使いが魔力を込めていてね。夜になれば、街路のあちこちにある『光魔石』が、月明かりの代わりに街を照らしてくれるんだ」
(魔法……)
私は目を伏せ、胸元のロザリオにそっと触れた。
祈りによってもたらされる恩寵が、私だけの奇跡ではないことは承知していた。
しかし、力を持たぬ民草の生活の隅々にまで、これほどまでに魔法という名の「理」が根付いているとは。
「便利で、美しい街ですね」
「だろう? 誇り高き、我が聖都さ」
私は柔らかな感嘆の息を吐いた。
戦と謀略に明け暮れる世では、決して築くことのできない穏やかな営み。
未知なる異世界の情景は、私の乾いた魂に、冷たくも心地よい清水のように染み渡っていく。
いつしか私は、礼節の箍も忘れ、キョロキョロと周囲を見渡す十五歳の少女のような好奇心のままに、石畳の街並みを歩いていた。
やがて私たちは、街で最も活気のある大市場へと辿り着いた。
香ばしい焼けた小麦の匂い、甘い果実の香り、そして威勢の良い客引きの声。
様々な音と匂いが入り混じる様は、かつて堺や京の町で感じた喧騒に似ている。
「さて、我々も場所を借りよう。シロ、荷車をこちらへ」
「ハッ! 承知仕りましてござる!」
シロが周囲の目を避けるように小声で応じ、器用に荷車を広場の端へと寄せる。
(魔狼が犬のふりをして荷車を引く姿は、街の人々には「ずいぶんと立派な調教犬だ」と映っているらしい)。
私は荷車の上の布を取り払い、細かく刻んだ薬草を木箱に並べ始めた。
「普通の新鮮な薬草」に偽装したつもりであったが、やはり刻まれてなおチカチカと不気味なほど眩い光を放っている。
「ヨゼフ殿、まずは周囲の警戒を」
私は声を潜め、行き交う人々に鋭い視線を向けた。
「ほら、あそこを歩く者たち……。無造作に長大な刃(剣)を帯びております。白昼堂々、あのように得物を剥き出しにするとは。やはりこの街にも、辻斬りや野盗が横行しているのですね。油断は禁物です」
「いやお嬢ちゃん、あれは『冒険者』だよ! 魔物退治をなりわいにしてる、ただの気のいい連中だから! 睨まないで!」
ヨゼフ殿が慌てて私の前を遮り、胃を擦る。
どうにも、戦国育ちの警戒心が抜けない。
私は「左様ですか」と咳払いをして、居住まいを正した。
「おはよう、ヨゼフのお爺ちゃん! 今日も森で薬草摘み?」
ふと、隣の屋台から鈴を転がすような、明るく快活な声が響いた。
焼きたてのパンが山積みになった屋台の奥から顔を出したのは、そばかすが愛らしい私と同年代ほどの少女であった。
小麦粉で白くなったエプロンを掛け、屈託のない笑顔を浮かべている。
「おお、クレア。今日も元気だね」
ヨゼフ殿がにこやかに応じる。
「うん! ……あれ? お爺ちゃん、そっちの子は?」
少女――クレアは、小首を傾げて私を見た。
その瞬間である。
(あ……)
私の時が、止まった。
大きく見開かれた私の瞳に映ったその少女の顔立ちは、髪や瞳の色こそ違えど、生前、私の傍で最後まで忠義を尽くしてくれた、あの愛しき侍女に瓜二つであったのだ。
(お静……!!)
『玉様……どうか、ご無事で』
炎に包まれた大坂の屋敷で、涙ながらに私を拝んだ彼女の最後の姿が脳裏に鮮烈にフラッシュバックする。
忘れようとした過去の痛みが、柔らかな郷愁とともに胸を締め付けた。
「……っ」
不覚にも、視界が滲んだ。
私は慌てて袖で顔を覆い、俯いた。
武家の娘が、人前で容易く涙を見せるなどあってはならないこと。
ましてや、彼女は私の知る侍女とは別人なのだ。
「えっ? ちょっと、どうしたの!? 私、何か変なこと言った!?」
クレアが慌てた様子で屋台から身を乗り出してくる。
「いいえ……申し訳ありません。目に、少し砂が入りまして」
私は必死に声を震わせないようにし、ゆっくりと袖を下げた。
そして、潤んだ瞳のまま、精一杯の優雅な笑みを浮かべた。
「初めまして。私はガラシャ……洗礼名を、グラティアと申します」
異世界の街で出会った、かつての友の面影。
この美しくも不思議な聖都での商いは、私の魂に新たな縁を結ぼうとしていた。




