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#4

 朝露が葉先で光る頃、修道院跡地の庭には穏やかな土の匂いが漂っていた。


「フンッ! ハァッ! 姫君、この辺りのうねはいかがいたしましょうか!」


 雪のように白いフワフワの毛並みを揺らしながら、シロが前足で器用に土を掘り返している。


 元・漆黒の魔狼である彼の腕力(前足力)は凄まじく、錆びた鍬など使わずとも、あっという間に見事な畑が仕上がっていく。


「ええ、とても綺麗です。ご苦労様、シロ」


 私が縁側から声をかけると、シロは「ハッ!」と武士のように平伏し、尻尾を千切れんばかりに振った。


 そこへ、「おはよう、お嬢ちゃん」と籠を抱えたヨゼフ殿がやってきた。今日も森へ薬草摘みに行く道すがら、私の様子を見に来てくれたらしい。


 縁側に腰掛けたヨゼフ殿が、持参した木の実を煮出したという温かい茶を淹れてくれる。湯気とともに、微かな酸味と甘い香りが鼻腔をくすぐった。


「ヨゼフ様、いつもお気遣い痛み入ります」


 私は丁寧に頭を下げ、湯呑み代わりの木杯を両手で包み込んだ。


「今日は、この世界の理について、少し教えていただけないでしょうか。私は遠い異国から参りましたゆえ、この地の掟や情勢に疎いのです」


 ヨゼフ殿は一つ頷き、聖都サン・マリアンヌの成り立ちについて語り始めた。


 彼によれば、この街は大陸の中央に位置する「永世中立の宗教都市」なのだという。

 巨大な大聖堂を中心に広がり、「慈愛の女神」を信仰の柱としている。

 自前の軍隊を持たず、周辺の諸王国から「不可侵の聖域」として保護される代わりに、精神的な支柱として機能しているそうだ。

 大聖堂には日々、諸国から莫大な寄進と富が集まるという。


(……なるほど。武力を持たぬ宗教都市、ですか)


 茶を一口含みながら、私の脳裏に蘇ったのは、生前の日ノ本における数々の「宗教勢力」の姿であった。


 かつての堺の町のように、自治と富を独占する特権都市。

 あるいは、父上や信長様を長年苦しませ続けた石山本願寺や、比叡山延暦寺のような存在。


「不可侵の聖域」という絶対的な盾を掲げ、諸侯の信仰心を巧みに操り血を流さずして富を吸い上げる巨大な権力機構。

 中枢にいる者たちが、果たしてどれほど純粋な信仰を保っているかなど、火を見るより明らかである。


(どこの世界も、人の業は同じということですね。天下人の監視が届かぬ場所では、権威は必ず淀み、腐敗するものです)


 表面上は平和の象徴のように語られるが、その実、極めてしたたかでえげつない政治的思惑が渦巻く魔窟であろう。

 私は杯を口元に運び、伏し目がちに微かな笑みを浮かべた。


「今はもう、神話の時代のような奇跡は失われてしまったがね。それでも、大聖堂の教えはこの街の誇りさ」


 ヨゼフ殿はそう言って、自身の胸元にある木彫りの聖印を大切そうに撫でた。


 その真摯な眼差しを見て、私は己の穿った見方を少しばかり恥じた。


 権力の中枢がどれほど濁っていようと、このヨゼフ殿のような末端の民が抱く信仰は、いと清らかで尊いものだ。


 彼の日々の祈りと、見ず知らずの私に食事を与えてくれた無私の善意こそが、慈愛の真髄であろう。


 私はヨゼフ殿の信仰心を微塵も傷つけぬよう、花が綻ぶように優雅に微笑んだ。


「素晴らしいお教えですね。ヨゼフ様のお心に、慈愛の女神様もきっと微笑んでおいででしょう」


「ははは、そうだと嬉しいんだがね」


 ヨゼフ殿は照れくさそうに頭を掻いた。


 話はそこから、日々の生活に直結する貨幣の価値へと移った。

 この世界では、銅貨、銀貨、金貨という順で価値が上がるらしい。

 銅貨数枚でパンが買え、銀貨一枚あれば庶民の数日分の生活費になるという。


「それにしても……」


 ヨゼフ殿はふと、庭の片隅を指差した。

 そこには、私がお祈り(恩寵)で巨大化させてしまった、背丈ほどもある薬草の群生がある。チカチカと不自然なほど鮮やかな光を放ち、周囲の空気を清浄に保っていた。


「お嬢ちゃんの祈りで育った、その信じられない魔力を帯びた薬草。こいつを大聖堂の司教様たちに献上すれば、間違いなく一生遊んで暮らせるほどの金貨の山になるぞ」


 ヨゼフ殿は興奮気味に身を乗り出した。

 善意からの提案であることは疑いようもない。


 しかし、私は即座に、冷水を浴びせるように静かな声で応じた。


「いけません、ヨゼフ様。そのような真似は、命を捨てるに等しい愚行です」


「ほう。 なぜだい」


「後ろ盾のない見ず知らずの新参者が、強大な権力者に得体の知れない莫大な富をチラつかせるなど……。待っているのは、よくて終生の幽閉、悪くすれば異端者としての暗殺ですわ」


 私は木杯を机に静かに置き、庭の光る薬草を見つめた。

 権力者というものは、自らの理解を超えた力や富を他者が持つことを何より恐れる。それが宗教の権威を揺るがす「奇跡」であれば尚更だ。

 利と権力を巡って、どれほどの血が流れ、どれほどの裏切りを見てきたことか。


「…あ、暗殺……」


 ヨゼフ殿が顔面を蒼白にし、喉を鳴らした。


「ええ。大名……いえ、大聖堂の目に留まるような真似をして、無用な権力闘争に巻き込まれるのは御免です。私はもう、御家騒動はこりごりなのです」


 そっと袖口を整えながら、私は結論を口にした。


「大層な金貨の山など望みません。まずは市井しせいの民草に紛れ、少しずつ商いをして地盤を固め、日々の糧を得るのが上策かと存じます」


「はあ……。お嬢ちゃん、時々、歴戦の傭兵団の長みたいなこと言うね……」


 ヨゼフ殿は額の汗を拭い、深く息を吐いた。


「それで、この薬草なのですが」


 私は立ち上がり、光る巨大な薬草を一本引き抜いた。


「そのままでは目立ちすぎますゆえ、こうして細かく刻んで、普通の薬草として街の市場で売り歩こうと思いますわ」


 私は物置で見つけた錆びた包丁を手に取り、薬草を細の目にトントンと小気味よく刻んでいった。


「……お嬢ちゃん。刻んでも、それ、チカチカ光り続けてるんだが……」


 ヨゼフ殿が引きつった顔で指摘する。

 確かに、細かく刻まれた薬草の欠片は、まるで蛍の大群のように籠の中で眩い光を放ち続けていた。


「あら、ごく普通の新鮮な薬草の輝きではありませんか。少し瑞々しいだけですわ。これなら誰も、奇跡の薬草だとは気付かぬでしょう」


「いや、どう見ても異常発光してるぞ!? 絶対に目立つって!」


 私はヨゼフ殿の嘆きを「新鮮さへの感嘆」と受け取り、満足げに籠に布を被せた。(布の隙間から、まだ光が漏れていたが、些末なことである)。


「シロ、明日はこの荷物を運ぶのを手伝っていただけますか?」


 私が振り返ると、畑仕事を終えたシロが泥だらけの顔を上げ、凛々しく吠えた。


「ハッ! 姫君の御命とあらば、この身が果てようとも荷車を牽き抜いてみせましょう! ワンッ!」


「ええ、頼もしいですわ」


 私はフワフワの頭を撫でてやった。

 ヨゼフ殿は「魔狼に荷車を……」と呟きながら、またしても胃のあたりを押さえてうずくまっている。


 かくして、異世界での初めての行商の準備は整った。

 明日、この「少し瑞々しいだけの普通の薬草」を持って、聖都の市場へと赴こう。

 名もなき民として生きる、私の新しいスローライフが、いよいよ始まるのだ。

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