#3
ヨゼフ殿が聖堂へ戻られ、修道院跡地には私一人が残された。
静まり返った古い石造りの建物の中で、ふう、と一つ息を吐く。
勢いで「自分の手で土を耕し、日々の糧を得てみたい」と宣言してしまったが、冷静に考えれば、私はこの国――いや、この世界の理を何一つ知らぬ。
貨幣の価値も、法律も、季節の巡りさえも。
唯一の救いは、神が授けてくださった恩寵により、言葉だけは不自由なく通じるということ。
それに、窓の外には先ほどの過剰なお祈りで異常発育し、チカチカと光を放ち続ける立派な薬草が群生している。
これを少しずつ売れば当面の生活費にはなるやもしれぬが、そもそも売る相手や市場の場所すら分からないのだ。
(さても……これから、どうしたものでしょうか)
思考を巡らせながら窓辺に立ち、外を眺める。
森に隣接しているというのに、この修道院跡地には身を守るための堀もなければ、まともな柵もない。見渡す限りの無防備である。
先ほどまで気を張っていたため気付かなかったが、日が落ち、深い夜の闇が近づくにつれ、どうしようもない心細さが足元から這い上がってくるのを感じた。
生前、どれほど不自由な幽閉生活であろうと、明智家や細川家の屈強な兵たちが屋敷の周囲を固めていた。夜盗や野獣の類に怯える必要はなかったのだ。
だが今は、私を守る盾はどこにもない。
(このような無防備な陣で眠りに就くなど、武家の娘としての恥。夜襲を受けてくださいと誘っているようなものです)
父・明智光秀は、戦においては陣立てと防衛を何より重んじる御方であった。
『いかなる時も油断を排し、敵の意表を突く備えを怠ってはならぬぞ』
幼き日に聞いた、配下の者たちへの厳しい教えが脳裏を過る。
私は孤独な不安をかき消すように、裏手にある物置へと向かった。
埃を被った錆びた一本の鍬と、麻紐、そして手頃な木の枝をいくつか見つけ出す。
小袖の袖を襷で優雅に括り上げると、私は十五歳の若くしなやかな身体に任せ、修道院の周囲に素早く、かつ的確に「備え」を施し始めた。
獣道に沿って深く鋭い落とし穴を掘り、底には先端を尖らせた木の枝――竹槍の代用品――を隙間なく配置する。
さらに、足元には麻紐を張り巡らせ、引っかかれば金属片がけたたましく鳴る「鳴子」を仕掛けた。修道院跡に落ちていた物を有効的に。
(ええ、上出来です。これで夜盗や獣が来ても、少しは時間を稼げるでしょう)
泥だらけになった手を払いながら、私は微かに口角を上げた。
罠作りという無心になれる作業のおかげで、先ほどまでの冷たい孤独感はいくらか薄れていた。
夜更け。
冷たい月明かりが、静まり返った森を照らしている。
粗末な寝台で微睡んでいた私の目を覚まさせたのは、肌を刺すような、ひどく濃密な「殺気」であった。
(……ん?)
戦国の世で幾度となく肌で感じた、命を狙われる時のあの生温かくも鋭い気配。
私は音もなく身を起こし、暗闇の中で息を殺した。
森の方からだ。複数ではない。人の気配でもない。
一匹、いや、一頭であろうか。しかし、尋常ではない威圧感である。
窓の隙間からそっと外を窺うと、森の奥から、闇よりも深い漆黒の巨体が姿を現した。牛ほどもある巨大な狼である。
その身からは禍々しい黒い瘴気(邪気)がシュウシュウと立ち上り、赤い双眸はギラギラと飢えに血走っていた。
後で知ったことだが、それはこの森の奥深くに棲まう凶悪な「漆黒の魔狼」であったらしい。昼間、私がヨゼフ殿の指を治すために放った過剰な恩寵(浄化の光)の残り香に引き寄せられ、獲物を求めてやってきたのだ。
魔狼は、ヨダレを垂らしながら、無防備に見える修道院の裏口へと音もなく忍び寄ってくる。
(やはり、夜襲ですか。ですが……)
その瞬間である。
――カラン、カラカラカラッ!
魔狼の足が、私が巧妙に草葉で隠していた麻紐に引っかかり、静寂を切り裂くような鳴子の音が響き渡った。
「グルァ!?」
予期せぬ音に魔狼が驚いて飛び退いた、まさにその着地点。
そこは、私が無心で丹精込めて掘り上げた、えげつない深さの落とし穴の真上であった。
ズボォォッ!
「ギャンッ!?」
哀れな悲鳴とともに、巨大な黒い影は綺麗に穴の底へと消えていった。
続けて、底に仕掛けていた尖った木の枝がへし折れる鈍い音が響く。
「……かかりましたね」
私は護身用の銀の簪を握りしめ、ゆっくりと外に出た。
月の光に照らされた落とし穴の底を覗き込むと、そこには、竹槍の罠にすっぽりとハマって身動きが取れなくなり、身悶えしている魔狼の姿があった。
「グルルルル……ッ!」
魔狼は私を睨みつけ、威嚇するように低い唸り声を上げる。
その体からは、なおもどす黒い瘴気が溢れ出している。
しかし、その姿を見た私は、思わず同情のため息をついてしまった。
(まあ、なんて可哀想なお犬様でしょう。こんな夜更けに深い泥沼にでも落ちてしまったのかしら。体中が真っ黒に汚れきって、悪臭まで漂わせています。それに、あんなに怯えて震えているなんて)
私には、その恐るべき凶悪な瘴気すらも、ただの酷い「泥汚れ」にしか見えなかったのである。
「もう大丈夫ですよ。お怪我はありませんか?」
私は穴の縁にしゃがみ込み、極めて穏やかな声で語りかけた。
「グルァ! ガウッ! (我を愚弄するか人間! 貴様から喰ろうてくれるわ!)」
言葉は分からねど、激しく牙を剥いている。
(あらあら、ずいぶんと興奮しておいでですね。まずは、その酷い汚れを落として、さっぱりさせてあげなくては)
私は微笑みながら、胸元のロザリオを両手で握りしめた。
異世界の恐ろしい魔物に対して、私はまるで野良犬を風呂に入れるような気軽さで目を閉じ、静かな祈りを紡いだ。
「主よ(ドミネ)――どうか、この迷える子羊(犬)に、清めを与えたまえ(ルストラ・エウム)」
カッ……!!!
次の瞬間、私の手元から爆発的な純白の光が放たれた。
昼間の比ではない。
真夜中の森を、一瞬にして真昼のように照らし出す最高位の浄化の恩寵である。
「ギャアアアアアッ!? (目が、目がァァァッ!?)」
光の奔流は穴の底の魔狼を容赦なく包み込み、その体に纏わりついていた漆黒の瘴気(邪気)を、ジュワァァァッ! と音を立てて根こそぎ浄化していった。
本当に不思議な世界。そして力です。
祈りがこうして目の前で、見える形で現れるのですから。
「……ふぅ。これで少しは綺麗になりましたかしら」
あまりの眩しさに細めていた目を開け、穴の中を覗き込む。
そこには、先ほどの禍々しい面影は微塵もなく、雪のように真っ白でフワフワな毛並みを持った、少し大きめの愛らしい犬が目を回して倒れていた。
「あら、まあ! 本当はこんなに美しい白毛だったのですね」
私は穴からその白い犬を引っ張り上げた。恩寵のおかげか、それとも汚れ(邪気)が落ちて軽くなったのか、不思議と持ち上げることができた。
そのフワフワの頭をそっと撫でてやると、白い犬はハッと目を覚まし、私を見上げてブンブンと尻尾を振った。
「はっ……!? 我は一体……いや、拙者は……」
(……え?)
私は我が耳を疑った。
犬の口から、図太い男の声で、しかも妙に聞き覚えのある古風な言葉遣いが聞こえてきたのである。
「命を救っていただき、かたじけない、姫君。拙者、今日から貴方様の忠実な下僕として粉骨砕身働く所存でござる。ワンッ!」
恩寵の浄化が効きすぎたのか、邪気と一緒に魔物としての自尊心もすっかり抜け落ちてしまったらしい。
なぜか渋い武士のような口調で喋る、不思議な白い犬。
「ふふっ、言葉が話せるのですね。……あなたは今日から『シロ』です。よろしくお願いしますね、シロ」
「ハッ! ありがたき幸せにござる!」
生前、信長様も南蛮渡来の珍しい犬や猟犬を飼われていたと父上から聞いたことがあったが、まさか私が異世界で言葉を解す犬と暮らす日が来ようとは。
孤独だった私の陣に、初めての「家族」ができた瞬間であった。
翌朝。
心配して様子を見に来たヨゼフ殿は、庭先で私と一緒に、シロが器用に前足で畑の畝を作っている(耕している)姿を見て、言葉を失っていた。
「お、お嬢ちゃん……その、隣にいる巨大な白い獣は……まさか、森の主と言われる魔狼じゃ……」
「おはようございます、ヨゼフ様。ええ、昨夜迷い込んできた『シロ』です。とても賢くて、畑仕事を手伝ってくれる立派な農具……いえ、家族ですのよ」
「の、農具……!? 森の主が……!?」
ヨゼフ殿は昨日と同じように膝から崩れ落ち、震える手で胃のあたりを強く押さえていた。
私の異世界での生活は、まだまだ分からないことばかりだ。
だが、このフワフワのシロがいれば、少なくとも寂しさや退屈とは無縁でいられそうである。




