#2
改めて周りを見渡す。
見たこともないほど澄み切った青空と、穏やかな木漏れ日が揺れる森の中であった。鬨の声も、焦げた血の匂いもしない。
身を起こし、己の掌を見下ろす。
長く過酷な幽閉生活で骨ばっていたはずの指先は、瑞々しい生気を取り戻している。傍らの水辺に映る姿は、細川家へ輿入れする前――十五歳の明智玉のそれであった。白地に水色の桔梗紋が精緻に刺繍された小袖も、あの日のままだ。
だが、周囲には誰の気配もない。
大坂の玉造屋敷では、常に小侍従や清原マリアといった侍女たちが側に控えていた。味土野での幽閉時代でさえ、監視の兵が絶えず目を光らせていたのだ。
これほど完全に「ただ一人」という状況は、三十七年の生涯で初めてのことであった。
(守る者も、監視する者もいない……)
自由という名の、絶対的な孤独。
その事実に、背筋を微かな悪寒が這い上がる。
ここは最早、日ノ本ではないのだ。
さても、立ち尽くしていても始まらぬ。
静寂は平和の証ではない。
戦国の世において、見知らぬ土地で無防備に姿を晒すのは愚か者のすることである。伏兵や野盗が潜んでいるやもしれぬ。
私は小袖の裾を軽く引き上げると、足音を殺し、木々の陰から陰へと滑るように移動を始めた。父上や藤孝様から教え込まれた、いざという時の野戦における索敵の基本である。
やがて、前方の茂みからガサガサという微かな音がした。
瞬時に大木の裏へ身を隠し、気配を探る。
現れたのは、武装した兵ではなく、粗末な布の服を纏った温厚なご老人であった。
手にした小さな籠に、熱心に草を摘み入れている。
(あの身なり……京の南蛮寺でお見かけした、宣教師の方々に似ておいでですね)
殺気がないことを確認し、私は静かに木陰から歩み出た。
「恐れ入ります。少し、道を教えてはいただけないでしょうか」
ご老人は腰を抜かさんばかりに驚き、私をまじまじと見つめた。
神が授けてくださった『言葉を紡ぐ恩寵』のおかげであろう。
私の言葉は自然と彼に伝わり、彼が「ヨゼフ」と名乗るこの聖都サン・マリアンヌの修道士であることも難なく理解できた。
ヨゼフ殿は、豪奢な絹の小袖を着た私を、戦火を逃れた遠い異国の貴族の娘とでも勘違いしたらしい。
「こんな森に一人でいたら魔物が出て危ない」と、自身が管理しているという修道院の跡地へと案内してくれた。
通されたのは、街外れにある古びた石造りの建物であった。
傷みは酷いが、不思議と落ち着く空間だ。
「さあ、お腹が空いているだろう。温かいうちに食べなさい」
コトッと机に置かれたのは、湯気を立てる汁物と、こんがりと焼けた茶色い固まりであった。
(これは……陣中食の雑炊に似ておりますね。こちらの固まりは、伴天連様から振る舞われた『パン』という南蛮菓子でしょうか)
胸元のロザリオが淡く温もり、頭の中に『スープ』と『パン』というこの世界の概念が静かに流れ込んでくる。私は「かたじけなく存じます」と深く頭を下げ、椀を受け取った。
そして、ごく自然な流儀で、懐から護身用の銀の簪を取り出した。
まず簪をスープの底まで深く浸し、引き抜いて変色がないかを確認する。
ふわりと手で風を起こして匂いを嗅ぎ、毒草の類が混ざらぬかを探る。
最後に、ほんのひとしずくを舌先にのせ、痺れがないかを慎重に確かめた。
(……ええ。遅効性の毒の兆候も、暗殺の意図もないようです)
安堵してスープを口に運ぼうとした私の目に、滝のように冷や汗を流し、小刻みに震えるヨゼフ殿の姿が映った。
「お、お嬢ちゃん……いまの流れるような毒見の作法は、いったい……? 本当に、どこの高貴で物騒なお姫様が迷い込んできたんだ!?」
私はハッとして、持っていた匙を止めた。
戦国の世では、出された食事を疑うのは己の命を守るための常識。
だが、見ず知らずの者に無償で糧を施すというこの世界の善意に対して、私は何と非礼な振る舞いをしてしまったことか。
「申し訳ありません。つい、昔の癖が出てしまいまして……」
視線を伏せ、袖口をきつく握りしめる。
ヨゼフ殿は引きつった笑みを浮かべ、「いや、無事ならいいんだ」と寛大にも許してくださった。
その時である。ヨゼフ殿が「痛っ」と微かに顔を顰めた。
見れば、森で薬草を摘んだ折にでも鋭い葉で切ったのだろう、シワだらけの指先から赤い血が滲み出ている。
「いけませんわ、お怪我をされています。……先ほどの非礼のお詫びに、どうか手当てをさせてくださいませ」
私は立ち上がり、ヨゼフ殿の節くれだった手を両手でそっと包み込んだ。
胸元で揺れる十字架を固く握りしめる。
私の中の何かが「こうすればよい」と導く感覚があった。
私は目を閉じ、生前幾度も暗闇の中で唱えたラテン語で、ごくささやかな祈りを紡いだ。
「主よ(ドミネ)――どうか、この方に癒しを」
その瞬間であった。
カッ……!!!
閉じた瞼の裏まで焼き尽くすような、目を開けていられないほどの眩い純白の光が、私の手元から爆発的に溢れ出したのである。
(な……っ!?)
私は内心、激しく狼狽した。
心臓が早鐘のように打つ。
神様、言葉が通じるとは仰っていましたが、手からこれほどの光が放たれるなど一言も聞いておりません!
光はヨゼフ殿を優しく包み込み、指先の傷を跡形もなく塞ぎ去った。
そればかりか、光の波紋は石造りの壁を抜け、裏の荒れ果てた庭にまで奔流となって広がっていく。
光が収まり、恐る恐る窓の外へ視線を向けた私は、己の目を疑った。
枯れかけていたはずの庭の雑草や薬草たちが、なぜか私の背丈ほどの大きさに異常発育し、チカチカと不気味なほど鮮やかな淡い光を放って鬱蒼と群生していたのである。
(……何ということでしょう。天地の理をねじ曲げるような、妖術の類ではありませぬか)
戦国を生き抜いた武家の娘としての矜持がなければ、その場にへたり込んでいたやもしれぬ。
私は必死に動揺を顔の奥底に押し込め、あくまで優雅に、静かに微笑んでみせた。
「……あ、あら。少しお祈りに熱が入りすぎて、お水をあげすぎてしまったかしら」
私のその言葉に、背後でドサリと鈍い音がした。
振り返ると、ヨゼフ殿が膝から崩れ落ち、震える手で天を仰いでいた。
「お、おお……慈愛の女神よ……! 神話時代の奇跡が、我が目の前で……! お嬢ちゃん、君はいったい何者なんだ……!?」
「な、何者と問われましても……」
ヨゼフ殿は慌てて立ち上がると、私の手をとった。
「いかん、こんな所にいていいお方じゃない! すぐに聖堂へご案内しよう。君のような聖女様なら、きっと最高の部屋と待遇で保護されるはずだ!」
聖堂。
最高の部屋。
保護。
その言葉の響きに、私の胸の奥で、冷たい風が吹き抜けた。
それはつまり、また誰かの権威の象徴として担ぎ出され、豪奢なカゴの鳥になるということ。身分や派閥のしがらみの中で、大名家の姫として政治の道具にされた日々の再来である。
(もう、二度と御免です)
私はヨゼフ殿の手をそっと離し、静かに、けれど明確な意志を持って首を振った。
「……いいえ、ヨゼフ様。私は行きません」
「し、しかし……」
「私はもう、誰かの庇護のもとで『飾られる花』にはなりたくないのです」
聖堂のきらびやかな部屋など望まない。私は窓の外の、光る巨大な薬草たちを見つめた。
「この修道院跡地、とても静かで素敵ですね。もしよろしければ、ここを私に任せていただけませんか? 聖堂のお部屋よりも、私はここで自分の手で土を耕し、日々の糧を得てみたいのです。私、薬草の知識には少しばかり自信がありますのよ」
ヨゼフ殿は、私の決意を秘めた目と、窓の外のあり得ない光景を交互に見比べた後、深く深いため息をついた。
そして、胃のあたりを強く押さえながら、力なく頷いたのである。
「わかった……君の好きにしなさい。ただし、無理はしないことだ」
こうして、私、細川ガラシャの異世界でのささやかな日々が幕を開けた。
頼れる家臣も、お付きの者もいない。
ただ己の足で立ち、己の手で土に触れる。
その泥臭くも自由な日々に、私の心はかつてないほどの静かな高鳴りを覚えていた。




