#39
実りの秋を迎え、聖都サン・マリアンヌは一年で最も活気づく『秋の収穫祭』の日を迎えていた。
大通りには色とりどりの旗が掲げられ、屋台の香ばしい肉の匂いや、吟遊詩人の奏でる陽気な音楽が街中を満たしている。
本日は、親友のクレアが、あの見習い騎士の青年と初めての茶会に出かける日であった。
「ガラシャちゃん! 私、おかしくないかな? 変じゃない?」
修道院跡地にやってきたクレアは、少し背伸びをした淡い桃色のワンピース姿で、そわそわとスカートの裾を揺らした。
「ええ、とても愛らしく、見事な陣容にございます。彼も間違いなく、一目でそなたの虜となるでしょう」
私が微笑んで太鼓判を押すと、クレアはぱぁっと顔を輝かせた。
「ありがとう! じゃあ、行ってくるね!」
弾むような足取りで街の中心へと駆けていく彼女の背中を、私は優しく見送った。
――そして、彼女の姿が角を曲がって見えなくなった瞬間。
私は扇をパチンと閉じ、スッと真顔になった。
「シロ。これより我らも出陣いたします。……『影』として」
「ハッ! 承知仕りましてござる!」
シロが低く唸り、尻尾をピンと立てた。
平和な祭りの日とはいえ、人が密集する群衆の中とは、すなわち有象無象が入り乱れる『野戦場』に他ならない。
スリ、酔っ払い、あるいはいかがわしい輩。
そのような危険地帯に、うら若き乙女を無防備に放り出すわけにはいかないのだ。
「クレアの初陣(初デート)、いかなる伏兵からも私が死守してみせます」
私は自らの素性を隠すため、先日の市場で買い求めておいた『ケットシー(猫の魔物)のお面』を顔に装着し、たすき掛けで小袖の袖を縛り上げた。
目指すは屋根の上。いざ、隠密行動(尾行)の開始にございます。
* * *
祭りの熱気に包まれた大広場。
クレアと青年は、りんご飴のような甘味を片手に、とても良い雰囲気で屋台を見て回っていた。彼が何かを言って笑わせ、クレアが照れくさそうに笑う。
(……ええ、めっちゃ良い感じにございますね。マジで尊いです)
私は彼らから十歩ほど離れた建物の屋根の上に腹這いになり、息を殺して監視を続けていた。
かつて細川家にも、情報収集や暗殺を担う『忍び』の者たちが出入りしていた。
彼らの足運びや気配の消し方を、私は奥御殿から密かに観察していたのである。
見様見真似とはいえ、私の隠伏スキルはすでに常人の域を超えていた。
「……おや。怪しい動きをする兵(歩兵)が約一名」
眼下の群衆の中、クレアの持つ小さなポシェットに、薄汚れた男がすり寄っていくのが見えた。
(スリですね。させませぬよ)
私は懐から拾っておいた硬いドングリを取り出すと、親指と中指の間に挟み、恩寵による身体強化をほんの僅かに指先へ込めた。
ピシッ!
弾き出されたドングリは、見えない矢となってスリの額のど真ん中にクリーンヒットした。
「痛ッ!?」
男は不自然にのけぞり、そのまま屋台のゴミ箱へ突っ込んで気絶した。
クレアたちは全く気づいていない。
「ふふっ、見事な迎撃にございました。次、参りましょう」
私は音もなく瓦を蹴り、次の屋根へと軽やかに跳躍した。
その頃、眼下の大通りでは。
「……なぁ、エララ君。今、あそこの屋根の上を、猫のお面を被った小袖の少女が飛んでいかなかったかい?」
焼き鳥の串を手にしたヨゼフ殿が、呆然と空を見上げていた。
「……見ました。しかも、あの後ろから、巨大な白い犬も器用に屋根を走っていきましたね……」
綿飴を持ったエララ殿も、遠い目をしている。
「何してんだあの子は……。また戦ごっこでもしているのかね」
「ガラシャさんのことですから、きっと深いお考えがあってのことですよ。……見なかったことにしましょう」
二人の大人は、深く溜息を吐いて祭りの喧騒へと戻っていった。
* * *
夕暮れ時。
祭りの提灯に火が灯り始め、街はさらに幻想的な雰囲気に包まれていた。
クレアと青年は、人混みを離れ、少し静かな街路樹の並木道へと歩みを進めていた。二人の距離は、朝よりもずっと近づいている。
(おお……これは、いよいよ本陣突入(告白)の刻合いでしょうか……!)
私は興奮を抑えきれず、並木道の最も太い樫の木の、高い枝の上へと身を潜めた。
お面を被り、木と同化するように微動だにせず、葉の隙間から下を見下ろす。
シロは木の根元の茂みで待機中だ。
「クレアさん、今日は本当に楽しかった。……あの、これ」
青年が、顔を真っ赤にしながら、小さな花の髪飾りをクレアに差し出している。
「えっ……ありがとう! すっごく可愛い……!」
(素晴らしい! 見事な贈り物の献上にございます! 陣立ては完璧……!)
私が木の上で無音のガッツポーズを決めていた、その時であった。
「……そこの路地も異常なし。よし、次は広場の見回りだ」
ガチャ、ガチャと、鎧の鳴る音が並木道に響いた。
祭りの特別警備にあたっている、聖騎士・アーサー殿である。
先日、妻のリリアン様の泥パック姿を見て気絶したばかりで、その顔にはまだ微かな疲労の影が残っていた。
(……チッ。警備隊の巡回ですか。いささかタイミングが悪いですね)
私は舌打ちをし、さらに気配を殺して枝の奥へと縮こまった。
アーサー殿が木の下を通り過ぎようとした、その瞬間。
ふわりと秋の風が吹き、私を隠していた枝葉が大きく揺れた。
「ん? 木の上に何か……」
アーサー殿が、ふと見上げた。
薄暗い夕闇の中。
木の上からこちらをじっと見下ろす、『無表情な猫の面を被った、微動だにしない少女』と、完全に目が合った。
「…………」
「…………」
数秒の、恐ろしいほどの沈黙。
そして。
「で、出たァァァァァァッ!! 今度はお面を被った妖怪だァァァッ!!」
アーサー殿の絶叫が、ロマンチックな並木道に木霊した。
「ヒィィッ! 最近の聖都はどうなっているんだ! 緑の妖怪の次は猫の魔物かァァッ!?」
剣を抜いて腰を抜かすアーサー殿の声に、良い雰囲気だったクレアたちが「えっ、何!? 魔物!?」と驚いて振り返ってしまう。
(……不覚! ここまで完璧な隠密行動だったというのに!)
私は舌打ちをし、懐から『ただの小麦粉と灰を混ぜた袋』を取り出すと、アーサー殿の足元へ向かって力強く投げつけた。
ボフゥンッ!!
「うわあっ! 目が、前がっ……!」
見事な煙幕(目眩まし)が広がる中、私は「シロ、陣払いです!」と音もなく木から跳躍し、夕闇の屋根伝いに修道院跡地へと撤退した。
「ま、待てェェ! 逃がすかっ……ゴホッ、ケホッ!」
アーサー殿の悲痛な咳き込み声だけが、遠く夜風に消えていった。
* * *
翌朝。
いつものように、修道院跡地へパンを届けに来たクレアの顔は、これ以上ないほどに晴れやかであった。
「ガラシャちゃん! 昨日はすっごく楽しかったよ! 変な人も全然いなくて、彼もすごく優しくて……。これ、彼がくれたの!」
嬉しそうに髪飾りを見せるクレアに、私は筋肉痛で悲鳴を上げる身体を誤魔化しながら、優雅に微笑んでみせた。
「それは見事な戦果……いえ、良き思い出にございましたね。そなたの笑顔が見られて、私も鼻が高いです」
「うん! あ、でもね。夕方くらいにアーサー様が『木の上に猫のお化けが出た!』って大騒ぎしてて……最近、聖都はお化け騒動が多くてちょっと怖いよね」
「……おや。それは誠に、恐ろしきことにございますね。夜道にはくれぐれも気をつけねば」
私は扇で口元を隠し、しれっと目を逸らしてお茶を啜った。
親友の純粋な初恋は、私の完璧な後方支援によって無事に守り抜かれた。
(……しかし、アーサー殿に見つかるとは、私の隠伏スキルもまだまだ修行が足りませぬね)
私は一人、心の中で密かに反省会を開きつつ、これからもこの街の平和(と親友の恋)を陰から見守る『過保護な影法師』として、さらなる技術の向上を誓うのであった。




