#36
聖都の大浴場で、異世界の女性たちの圧倒的な肉体美を前に「女としての完全敗北」を喫した翌日。
私は修道院跡地の縁側で、一人静かに闘志を燃やしていた。
「ガラシャちゃん、まだ昨日のこと気にしてるの?」
朝一番で焼きたてのパンを届けてくれたクレアが、苦笑いしながら私の隣に腰を下ろす。
「ええ。戦に負けたまま引き下がるは、武家の女の恥にございます。私も抜本的な軍備増強に乗り出さねばなりませぬ」
私が真顔で腕を組むとクレアは籠の中から小さなガラスの小瓶をいくつか取り出した。
「もう。じゃあ、まずはこれから始めてみたら? 街の女の子たちの間で流行ってる『スキンケア』のお水とクリームだよ。お風呂上がりに肌を潤して、綺麗に保つためのもの」
「すきんけあ……」
私はその見慣れぬ横文字を舌の上で転がし、小瓶の中の澄んだ液体を太陽の光に透かして見つめた。
日ノ本においても、白粉や紅を引く化粧の文化はあった。
武家の妻にとって、それはいつ首を討ち取られても恥ずかしくないようにするための『死に化粧』の延長であり、身だしなみという名の『鎧』であった。
しかし、私の場合は事情が少し異なっていた。
(……前世において、私は自由に美を追求することすら許されなかった)
夫である細川忠興様は、私を深く愛してくださったが、その愛はあまりにも激しく、重かった。
私が少しでも美しく着飾れば、それを他者の目に触れさせることを極端に嫌い、屋敷の奥深くへと私を閉じ込めた。
庭師と少し目線が合っただけで、忠興様はその庭師を容赦なく手討ちにしてしまったほどだ。
美しくあろうとすることは、すなわち夫の狂気を呼び覚まし、己の首を絞めることに他ならなかった。ゆえに私は、自らの意思で美を追求する喜びを、とうの昔に諦め封印していたのである。
だが、今はどうだろうか。
私は、自身の白い手のひらを見つめた。
(……そう、今の私の身体は、若く瑞々しい十五歳。そして、この異世界には私を束縛する殿方(忠興様)もいないのです)
誰の目を気にする必要もない。
誰かの所有物として『飾られる花』になるためでもない。
今の私は私自身が心地よく、胸を張って生きるために思う存分美を追求することができるのだ。
この世界でもう一度、一人の女性として強く輝けるということ。
「……素晴らしい」
私は胸の奥から湧き上がるような喜びに震え、顔を輝かせた。
「この世界には、肌を潤し守る『すきんけあ』なる戦術があるのですね。ええ、私もただちに取り入れましょう。顔面という名の我が城壁の、修繕工事にございます!」
「う、うん……。城壁の修繕って言うと、急に可愛くなくなるけどね」
クレアが引き攣った笑いを浮かべたが、私の心にはすでに美容という新たな開拓地への壮大な野望が燃え上がっていた。
* * *
その日の午後。
私は薬師としての知識と技術を総動員し、究極の『すきんけあ用品』の開発に着手していた。
「クレアから貰ったこの水も悪くはありませんが、我が陣の薬草の理を用いれば、さらに強力な防壁が築けるはず」
私はヨゼフ殿やクロエ教授から借りた植物図鑑をめくり、保湿と肌の再生に特化した薬草を裏庭の畑から摘み取ってきた。
月光草の葉に、粘り気の強い清流の根をすり潰して混ぜ合わせる。
さらに、森で採取した野蜜を数滴垂らし乳鉢で力強く練り上げていく。
ゴリゴリ、トントン。
「いざ、『すきんけあ』にございます。この薬草の力で、胸の『わんちゃん(僅かな可能性)』発育の希望も……!」
私はすっかり馴染んできた異世界の言葉(若者言葉)を使いこなしながら、ドヤ顔で調合を続けた。
ほんの少しの恩寵(祈り)を込めて練り上がったのは、スライムのようにドロドロとした、暗緑色に妖しく発光する特製の『薬草泥パック』であった。
「……ふむ。少々禍々しい色合いですが、薬効は申し分ありませぬ」
私はその泥パックを指ですくい、洗顔を終えた自らの顔面に隙間なくたっぷりと塗りたくっていった。
ひんやりとした泥が、日中の土仕事で疲れた肌に吸い付くように密着し、ハーブの清涼な香りが鼻腔をくすぐる。
「おお……これは、なかなかに極楽にございますね」
私はすっかり気を良くして、顔面を暗緑色の泥で覆い尽くしたまま、涼むために夜の庭へと足を踏み出した。
* * *
秋の夜風が、火照った(そして泥だらけの)顔を心地よく撫でていく。
修道院跡地の庭は静まり返り、月明かりだけが白く周囲を照らしていた。
「ヒィン!?」
縁側で寝ていたシロが、突如として短い悲鳴を上げ、尻尾を股に挟んで物置の裏へと隠れてしまった。
「おや、シロ。いかがいたしました? そんないたずらっ子のように隠れずとも……」
泥パックが乾き始めて口元が固まり、いささか喋りづらかったが私は気にも留めず庭をゆっくりと徘徊した。
ザクッ、ザクッ。
その時、修道院跡地の門の向こうから、鎧の擦れる足音が近づいてきた。
街の夜回りをしてくれている、防衛隊のアーサー殿である。
「ガラシャ殿、夜分にすまない。周辺で不審な気配はないか……ッ!?」
アーサー殿が門から顔を覗かせた、その瞬間。
月明かりの下。
白地の小袖を着た小柄な姿。
しかし、その首から上は、《《ぬらぬらと暗緑色に発光し、目と口だけがぽっかりと黒く穴の開いた、完全に正体不明のモンスター(妖怪)》》であった。
「で、出たァァァァァッ!!?」
静寂の夜空に、アーサー殿の悲鳴が響き渡った。
「み、緑色の顔の魔物だァァッ! 城壁の中にまで侵入を許すとは……ッ! 悪霊退散っ!!」
アーサー殿は腰の剣を勢いよく抜き放ち、ガチガチと全身の鎧を震わせながら完全に腰を抜かしてへたり込んでしまった。
「おや、アーサー殿。魔物とは人聞きの悪い」
私は不思議に思いながら、彼の方へと歩み寄った。
「ヒィィッ! 来るな! 来るなぁっ!」
「私は今、すきんけあの最中ゆえ……むぐ、口が、うまく動かぬ……」
泥パックが完全に硬化し始め、私の言葉は「ヴ、ヴァ……」という奇妙な呻き声へと変換されてしまった。
暗緑色に光る顔で、「ヴ、ヴァ……」と呻きながら近づいてくる小袖の妖怪。
アーサー殿はついに耐えきれなくなり、「女神様、お助けをォォッ!」と叫んで白目を剥き、その場に気絶してしまったのである。
「…………はて」
私は硬直した顔のまま首を傾げ、気絶したアーサー殿を前にして静かに秋の虫の音を聞いていた。
* * *
翌朝。
私は顔の泥パックを井戸水で綺麗に洗い流し、鏡の前で驚きの声を上げた。
「……なんという事でしょう」
鏡に映る私の顔は、昨日の日焼けや土埃のダメージなど微塵も感じさせないほどに透き通り、まるで茹でたての卵のように『ぷるんぷるん』の『もっちもち』に進化を遂げていたのである。
「すごい! ガラシャちゃん、お肌が女神様みたいにツヤツヤだよ!」
朝のパンを届けに来たクレアが、私の頬をつんつんと突きながら感嘆の声を上げる。
「ええ。城壁の修繕工事は、大成功にございました」
私は扇で口元を隠し、コロコロと満足げに笑った。
「……ふふっ。これが『女子力』というものにございますね」
新たな異世界語を習得し、私はすっかりご満悦であった。
「でもガラシャちゃん、昨日の夜、この辺りに『緑の顔をした妖怪』が出たってアーサー様が大騒ぎしてたけど……」
「おや、それは恐ろしきこと。防衛隊の方々には、さらなる警戒をお願いせねばなりませぬね」
私はしれっと目を逸らし、朝の温かい紅茶を一口啜った。
前世では決して味わえなかった、自分自身のためだけに美しくなるという自由。
女性としての楽しみと、母親魂(図太さ)を併せ持った私は、この異世界でさらなる『すきんけあ(軍備増強)』の道を極めていく決意を固めるのであった。




