#35
裏庭の薬草園での開墾と収穫が一段落したある日の夕暮れ。
土と泥にまみれた私の小袖は、すっかり本来の白さを失い茶色く染まっていた。
「ふう。本日は見事な陣立て(働き)にございました。シロも大儀でしたね」
「ハッ、姫君も泥だらけでござるな」
私が縁側で井戸水を汲もうとしていると、店を閉めたばかりのクレアが籠を提げてやってきた。
「ガラシャちゃんお疲れ様!! すっごい泥だらけだね。ねえ、これから街の『大浴場』に行かない? 私、無料券をもらったんだ!」
「だいよくじょう……大きなお風呂、ですか?」
私は首を傾げた。行水や湯浴みは日々の習慣であるが、それをわざわざ街へ出向いて行うとはどういうことだろうか。
「ええ。広く深い湯船があって、街の女の人たちがみんなで入って一日の疲れを癒やす場所だよ。温泉のお湯を引いてるから、すっごく気持ちいいんだ」
「み……みんなで、入る……?」
その言葉の意味を咀嚼した瞬間、私の頭の中で警鐘が鳴り響いた。
「ま、待ちなさい、クレア。赤の他人と共に、一つの湯船に浸かるということですか!? そ、それは……薄衣(湯帷子)などは着て入るのでしょうね!?」
「え? お風呂なんだから、服は全部脱ぐに決まってるじゃない」
「な、なななな……っ!?」
私は顔から火が出るほどの衝撃を受け、思わず一歩後ずさった。
「ば、ばかなっ! 赤の他人の前で素肌を晒すなど、は、恥を知りなひゃいっ!」
動揺のあまり、大名家の姫らしからぬ勢いで盛大に舌を噛んでしまった。
日ノ本における武家の湯浴みとは、湯帷子と呼ばれる麻の衣を纏い薄暗い個室の蒸し風呂で汗を流すのが常識である。
赤の他人に己の素肌を見せるなど、恥の極み。
切腹に値するほどの不作法なのだ。
「もう、ガラシャちゃんたら大袈裟なんだから。みんな女の人なんだし、恥ずかしいことなんて何もないよ。さあ、行くよ!」
「ああっ、待っ、こ、心を静める時間を……!」
私の悲壮な抵抗も虚しく、私はクレアに腕を引かれ夕闇迫る聖都の街へと連行されてしまったのである。
* * *
聖都の中心近くに位置するその施設は、白い大理石で造られた巨大な神殿のような建物であった。
中へ入ると、むせ返るような湯気と、微かな硫黄の匂いが立ち込めている。
脱衣所へ案内されるなりクレアは躊躇いもなく服を脱ぎ始めた。
周囲を見渡せば、街の女性たちや女騎士、冒険者と思しき人々が、なんの恥じらいもなく堂々と肌を晒して笑い合っている。
(こ、これが……この世界の文化……。なんという破廉恥な……!)
私は顔を真っ赤にして、持参した手ぬぐいよりも遥かに大きな『バスタオル』という布で己の身体を首から下までぐるぐる巻きにした。
まるで蓑虫の籠城戦である。
「ガラシャちゃん、タオル巻いたままじゃお湯に入れないよ?」
「これだけは死守いたします……!」
ガチガチに緊張しながら、私はクレアの後ろに隠れるようにして大浴場へと足を踏み入れた。
そこは、まるで地底湖のように広大な湯船であった。
天井のステンドグラスから差し込む夕光が、湯気に反射して幻想的な空間を作り出している。
「はあぁ〜、極楽極楽……。ガラシャちゃんも早くおいでよ」
クレアが気持ちよさそうにお湯に浸かるのを見て、私も観念してタオルを外しそっとお湯に身を沈めた。
「……あっ」
心地よい熱さのお湯が、冷えた身体と泥仕事で疲労した筋肉をじんわりと解きほぐしていく。
確かにこれは、個室の蒸し風呂では味わえぬ至福の感覚である。
(……良いお湯にございますね)
私が少しだけ警戒を解き周囲を見渡した、その時であった。
「ぷはぁっ! 今日の森の討伐は骨が折れたぜ!」
ザバァッとお湯から立ち上がった、長身の女性冒険者。
その身体を見た瞬間、私は思わず「ぬぐぁ!?」という奇妙な声を漏らしてしまった。
引き締まった腹筋、無駄のない背筋。
重い甲冑を着こなすための、見事な戦士の体躯である。
……しかし、問題はそこではない。
その鍛え上げられた身体に反して、胸元には、我が目を疑うほどの《《暴力的なまでの双丘の陣立て》》がそびえ立っていたのである。
(な、なんという……すっごいボリュームにございますね!?)
すっかり異世界の言葉に染まりつつある己の内心のツッコミに冷や汗をかきながら、私は慌てて視線を逸らした。
しかし、右を見ても左を見ても、女騎士や魔法使いの女性たちの身体はどれもこれも曲線美に溢れ、成熟した大人の女の魅力を放ちまくっていた。
(こ、この世界の女性たちは、いかなる恩寵を受けて育ったというのですか……!?)
ふと、隣で鼻歌を歌っている親友のクレアに目を向ける。
いつもはゆったりとしたエプロン姿で分からなかったが、十五歳の彼女の身体もまた、私とは比べ物にならないほどふっくらと柔らかく見事な発育を遂げていた。
私は、お湯の中でそっと己の身体を見下ろした。
真っ白で滑らかな肌ではあるが、その起伏はどこまでも平坦でまるで幼子のように華奢である。
その瞬間。
私の中の『母』としての矜持が、音を立てて崩れ去っていくのを感じた。
(……わ、私とて前世では立派な殿方の妻であり何人もの子を成した大人の女であったのにこの身体は幼子の如き平坦さであり日ノ本と南蛮の栄養状態が違うのかあるいは異界の神の悪戯か……!)
私は湯気で赤くなった顔を両手で覆い、一人、猛烈な早口で脳内弁明を展開した。
しかし、いかに心の中で言い訳を並べ立てようとも、目の前の圧倒的な現実(肉体美)の前には何の説得力も持たない。
完敗である。
戦の駆け引きでも、薬草の知識でもない。
一人の『女性』としての、完全なる敗北であった。
* * *
(……一体、何を食せばあのように育つというのでしょう)
あまりの敗北感と、母特有の図々しい好奇心が、私の理性を微かに狂わせた。
私は湯気でボーッとした頭のまま、ふらふらと隣にいるクレアの豊かな胸元へ向かって己の両手を伸ばしてしまった。
「この柔らかな椀には、いかなる恩寵が込められているのですか……少し、検分を……」
パァァァン!!
浴場に、乾いた破裂音が響き渡った。
「いったぁいっ!?」
「グ、ガラシャちゃん!? 何やってるの!? セクハラおやじみたいな顔になってるよ!!」
顔を真っ赤にして怒るクレアに手ぬぐいで頭を思い切り引っぱたかれ、私はハッと我に返った。
「も、申し訳ありませぬ! 決して怪しい者では……いえ、ただの探求心が……!」
「もう! 清楚なお姫様みたいな顔して、たまにとんでもないことするんだから!」
私は己の愚行に深い恥じらいを覚え、顔から火が出る思いで湯船の奥深くまでぶくぶくと沈み込んでいった。
「……ヤバいです」
お湯の下で、完全に異世界のスラングとなってしまった呟きを一つこぼす。
しかし、不思議なことに、嫌な気分ではなかった。
前世では、誰かと共に湯に浸かり、他愛もないことで怒られ、笑い合うような経験など一度たりともなかったのだから。
(……極楽浄土とは、案外このような騒がしい場所を指すのかもしれませぬね)
鼻までお湯に浸かりながら、私は温泉の心地よさに深く息を吐いた。
身体の芯まで温まり全ての緊張が溶けていく。
やがて、すっかりのぼせて風呂上がりの冷たい果実水を飲みながら、私はクレアに向かって真顔で尋ねた。
「……して、クレア。どうすれば、そのように胸が大きくなるのですか? やはり、牛乳と肉でしょうか?」
「まだ言うの!? ガラシャちゃん、もうお風呂禁止ね!」
「おや、いけませんか。私は至って真剣に軍備増強の話を……」
夜風が心地よく火照った頬を撫でていく。
異世界の圧倒的なスタイル美に翻弄され、完全敗北を喫した私であったがその足取りはどこか羽が生えたように軽かった。
小さな薬師・ガラシャの戦国マインドは、この平和な湯の都の文化の前に今日もまた一つ、柔らかく解きほぐされていくのであった。




