#33
大聖堂での避難生活を終え、修道院跡地に戻って数日。
討伐隊の活躍により森の魔物も鳴りを潜め、聖都サン・マリアンヌには再び穏やかな日常が戻っていた。
秋晴れの昼下がり。
私が庭で薬草の陰干しをしていると、いつものようにクレアが訪ねてきた。
しかし、今日の彼女はどうにも様子がおかしい。
挨拶もそこそこに縁側に座り込んだかと思うと、持っていた小さな籠を弄りながら、そわそわと視線を泳がせているのだ。
その白い頬は、微かに朱に染まっている。
「おや、クレア。いかがなさいました? お顔が赤いようですが、また熱でもぶり返しましたか」
私が心配して額に手を伸ばそうとすると、クレアは「う、ううん! 病気じゃないの!」と慌てて首を横に振った。
そして、懐から一枚の折りたたまれた羊皮紙を大切そうに取り出し、モジモジとしながら口を開いた。
「実はね……街の警備隊にいる若い見習い騎士の人から、これをもらったの。次の休日に、一緒にお祭りに行かないか、って……」
「……まあ!」
私は袖で口元を覆い、ぱぁっと顔を輝かせた。
「いと喜ばしき報せですね。そなたに、縁談の申し入れがあったということですか」
「えっ? 縁談!? そんな違うよ! でも、……まあ、お誘いっていうか……。ガラシャちゃん、いつも落ち着いてるから、こういう男女の機微にも詳しいかなって思って。私、どう返事をしたらいいか分からなくて……相談に乗ってくれる?」
上目遣いで頼ってくるクレアの初々しい姿に、私の中の『母』としての魂がふわりと温かな風に包まれた。
「ええ、もちろん。男女の機微ならば、このガラシャにお任せください」
私は自信に満ちた笑みを浮かべた。
十五で政略結婚をし、何人もの子を産み育て、苛烈な戦国武将の妻として奥御殿を切り盛りしてきたのだ。
まだ見ぬ恋に震える少女の背中を押すことなど、造作もないことである。
私は薬草の作業を中断し、極上のお茶を淹れて『恋愛相談室』を開室した。
* * *
「……それで、彼はとても優しくて、パンを買いに来る時もいつも笑いかけてくれるんだけど……私のこと、本当にどう思ってるのかなって」
熱いお茶を両手で包み込みながら、クレアが甘いため息を吐く。
私は深く頷き、茶器を置いて真剣な面持ちで彼女に向き直った。
「焦ってはなりませぬよ、クレア。まずは相手の背景を正しく把握せねば。して、その見習い騎士殿の実家の領地の広さ(収入)はどれほどでしょうか? 動かせる私兵(護衛)の数は?」
「え? りょうち? しへい?」
「ええ。婚姻とは家と家との結びつきにございます。いざ凶作や有事となった際、ただちにクレアのパン屋へ小麦や物資を援助してくれるような、強固な地盤があるのかどうか。それを見極めぬことには、うかつに茶会のお誘いには乗れませぬ」
異世界の言葉に直して尋ねたつもりだったが、クレアはポカンと口を開けた後、慌てて身を乗り出した。
「ち、違うのガラシャちゃん! 家とか物資じゃなくて! 彼が私を本当に好きでいてくれているか、そういう『愛の深さ』が知りたいの!」
「なるほど、愛の深さですね」
私は扇を静かに開き、口元に当てて微笑んだ。
そして、遠い前世の記憶――夫・細川忠興様の異常なまでの愛情表現――を思い出しつつ、それを「異国の教養」として語り始めた。
「私の知る、とある遠き国では、愛の深さを測る明確な基準がございました。クレア。今度彼とお会いした時、わざと彼の目の前で、他の若い男と親しげに言葉を交わしてみてください」
「他の人と?」
「ええ。もし彼が、あなたの姿を見ただけで嫉妬に狂い、即座に剣を抜いてその男の首を刎ねるほどの気迫を見せれば……それは間違いなく、真実の愛かと存じます」
「…………えっ?」
クレアの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「それに、真にあなたを愛しているのなら、堅牢な屋敷の奥深くにお囲いになり、外の風にすら当てず、一歩も外に出さぬよう見張りを置くはず。……愛とは、すなわち命懸けの執着と独占欲に他なりませぬゆえ」
私が真顔で恐るべき恋愛観を語った、その時であった。
「待て待て待てェェッ!!」
開け放たれた修道院跡地の門から、《《たまたま》》街の見回りをしていたアーサー殿が血相を変えて飛び込んできた。
「ガラシャ! 君は純真な少女に何を吹き込んでいるんだ!? その男はただの猟奇的な犯罪者だ! すぐに防衛隊の牢にぶち込む案件だろうが!」
「おや、アーサー殿。立ち聞きとは感心しませぬよ」
私は扇を閉じ、不思議そうに首を傾げた。
「はて。高貴な身分の者の愛情とは、総じてそのようなものではございませぬか? ……まあ、確かに少々度は過ぎておりますが」
(少しでも庭師と目線を交わせば手討ちにし、私の美しさを他者に見せたくないという理由で、茶会に出ることすら禁じられる日々。……あれのせいで、私はどれほど退屈な日々を過ごしたことか)
私はふと目を伏せ、遠い日の不満を一般論に隠してポロリとこぼした。
「……そのような異常な愛を受け続けた貴婦人は、武家の妻の誉れと頭では理解しつつも、さぞ窮屈で、腹立たしい日々を過ごしたことでしょうね」
「ガラシャちゃん……その遠い国の貴婦人さん、絶対逃げたほうがいいよ……」
クレアが震える声で呟き、アーサー殿は額を押さえて深い疲労の息を吐いていた。
どうやら、戦国大名の『愛』は、この平和な異世界の常識とは大きくかけ離れているらしい。
* * *
「こ、コホン。ともかく……」
私は気を取り直し、クレアの手元にある手紙を指差した。
「では、彼からのお誘いの手紙の返事を書きましょう。いかなる暗号を用いますか?」
「えっ? 普通に『嬉しいです、一緒に行きましょう』って書くつもりだけど……」
「いけません、うかつすぎます。万が一、その手紙が敵の密偵に奪われたらどうするのですか。見せかけの季節の挨拶の中に、裏の意味を持たせた暗号を織り交ぜ……」
「もういい! ガラシャちゃんには手紙の書き方は相談しない!」
クレアは真っ赤になった顔で手紙を引っ込め、ぷいっとそっぽを向いてしまった。
「ガラシャ。君のその……まるで乱世? を前提とした思考は、どうか書物の底にでも封印しておいてくれ。君の恋愛観は、あまりにも物騒で血生臭すぎる」
アーサー殿にまで窘され、私はシュンと肩を落とした。
「……よかれと思ったのですが。男女の機微とは、戦の駆け引き以上に難しいものなのですね」
私が落ち込んでいると、クレアが少し申し訳なさそうに私の袖を引いた。
「ご、ごめんね、怒ったわけじゃないの。ただ……私はもっと、普通でいいんだ。領地がどうとかじゃなくて、彼が笑ってくれて、ただ一緒に祭りの夜店を歩いて、美味しいものを食べて……そういうのが、いいの」
クレアの言葉は、とても小さく、けれど透き通るように純粋であった。
家と家とを繋ぐための政略(道具)でもなく。
相手の寝首を掻かぬよう警戒する腹の探り合いでもなく。
血生臭い嫉妬や、自由を奪う執着でもない。
ただ、互いの心だけを見つめ合い、並んで歩きたいと願う、純粋な恋。
「……ただ、共に歩くためだけの誘い」
私はその言葉を反芻し、ふと、自身の胸の奥に新鮮な風が吹き込むのを感じた。
前世において、私の婚姻は織田信長公の命によるものであった。
夫である忠興様との間には、確かに深い情愛があった。
共に過ごした歳月を悔いたことはない。
けれど、最初から「惹かれ合った」わけではない。
運命と家という重い鎖に縛られた上での、激しく、時に息苦しい絆であった。
「……いと平和で、美しいですね」
私は、クレアの赤らんだ頬を見て、自分でも気づかぬうちに少しだけ頬を染めていた。
政略もない、純粋な恋愛。
誰の指図も受けず、ただ己の意志で誰かを想い、手を取り合うという経験。
(……私も、一度くらいは、そのような恋を経験してみたかったやもしれませぬね)
私は袖の奥で小さく息をつき、柔らかな微笑みを浮かべてクレアの両手を握った。
「私の物騒な手解きは、忘れてください。そなたのその純粋な思いを、ただ真っ直ぐに文字に認めるのが一番の良策でしょう」
「うん……! ありがとう、ガラシャちゃん!」
満面の笑みを浮かべたクレアは、手紙を胸に抱きしめながら足取りも軽く帰っていった。
「やれやれ……。君が変なアドバイスで若者の恋をぶち壊さなくて安堵したよ」
アーサー殿も、苦笑いを浮かべながら見回りに戻っていく。
私は一人残された縁側で秋の高く澄んだ空を見上げた。
人を想うという、最も古く、最も新しい感情。
異世界の穏やかな風に吹かれながら、私は友のピュアな初恋の成就を、心から、そして少しばかりの羨ましさを込めて祈るのであった。




