#32
大聖堂へ陣を移してから数日が過ぎた、ある日の昼下がり。
静寂に包まれていた大聖堂の回廊に、慌ただしい足音と怒号が響き渡った。
「西の森の討伐隊が帰還したぞ! 負傷者多数! 施療院のベッドを空けろ!」
その知らせを聞いた瞬間、私は手元で読んでいた植物図鑑をパタリと閉じ静かに立ち上がった。
「……いよいよ、戦の決着がついたようですね」
私は若草色のエプロンの紐を背中で強く結び直した。前線で血を流した兵たちが戻ってきたのなら、次は後方を預かる私たちの戦い――すなわち、野戦病院での戦の始まりである。
「ガラシャさん! 施療院の手が足りません、手伝っていただけますか!?」
青ざめた顔で駆け込んできたエララ殿に、私は力強く頷いた。
「ええ。これより私が、施療院へ援軍に参ります」
私はあらかじめ持参していた自作の薬草や軟膏の入った籠を提げ、急ぎ施療院へと向かった。
* * *
大聖堂の奥にある施療院は、まさに野戦の陣中そのものであった。
血と泥と汗の匂いがむせ返るように充満し、呻き声を上げる冒険者や騎士たちが次々と運び込まれてくる。
神官やシスターたちはその凄惨な光景に顔を引き攣らせ、右往左往してしまっていた。
(……さても。いささか乱れておりますね。これでは救える命も救えませぬ)
私は大坂の細川屋敷で、戦から戻った兵たちが運び込まれてきた光景を思い出していた。あの頃の私は、穢れを避けるために近づくことすら許されなかった。
だが、今は違う。
「エララ殿! 狼狽えてはなりませぬ!」
私は凛と通る声で、施療院中に響き渡る号令をかけた。
「まずは兵たちの選別を行います! 自力で歩ける軽傷の者は回廊の壁際に座らせ、傷口を湧き水で洗い流して清潔な布を当てておきなさい! 手をかけるのは後回しです!」
「えっ、でも……!」
「案ずるな! その程度の傷で武士は死にませぬ!」
私の只ならぬ気迫――大軍を指揮する総大将の如き覇気に圧され、エララ殿をはじめとする神官たちが「は、はいっ!」と条件反射で動き始めた。
「出血の酷い者、意識の混濁している重傷者をこちらのベッドへ集めなさい! ヨゼフ殿、煮沸した湯と布を! 私は傷の縫合と止血にあたります!」
私は袖をまくり上げ、自らの手が血や泥に塗れることも厭わず、次々と負傷者の傷口に自作の薬を塗り込み、適切な処置を施していった。
必要な箇所には、ほんのわずかに恩寵(祈り)を込め、即座に血を止める。
戦国仕込みの非情にして合理的な選別と、私の迅速な手当てにより崩壊しかけていた野戦病院の陣形はみるみるうちに立て直されていった。
「お嬢ちゃん、見事な采配だ。長年軍医をやっている者よりも余程手際が良いぞ……」
ヨゼフ殿が血塗れの布を洗いながら、呆れたような、しかし頼もしげな声を漏らした。
「ただの見様見真似にございます。生き死にの境界線は、かつて幾度となくこの目で見てまいりましたゆえ」
私は額の汗を袖口で拭い、次なる負傷者の手当てへと移った。
* * *
やがて重傷者たちの峠を越えさせ、施療院に少しばかりの落ち着きが戻り始めた頃。
「ガラシャ殿! 手当ての加勢、感謝する……!」
泥だらけの銀鎧を引きずりながら、アーサー殿がフラフラと施療院へ入ってきた。
彼自身も腕や頬に傷を負っているが、目は不思議なほど見開かれひどく疲弊した顔をしていた。
「アーサー殿。見事な凱旋にございます。そちらの椅子へ……おや?」
私はアーサー殿の背後に、ある奇妙な人影を見つけた。
「……お姉ちゃん。俺、ちゃんと生きて帰ってきたよ」
アーサー殿の後ろからひょっこりと顔を出したのは、先日ギルドで陣中見舞いをした、あの十歳程度の駆け出し冒険者の少年であった。
「おお! 無事でしたか! よくぞ生還なされましたね」
私がパァッと顔を輝かせて駆け寄ろうとした、その時である。
私は思わず足を止め、目を瞬かせた。
少年の体には、傷一つなかった。
しかし――彼の全身からは、シュウシュウと微かな音を立てながら、不吉な暗緑色の光が猛烈な勢いで立ち昇っていたのだ。
「え、ええと……これは、一体いかなる妖術でしょうか……?」
あまりに禍々しい発光体に成り果てた若武者を前に、私は引き攣った笑いを浮かべるしかなかった。
アーサー殿が、頭を抱えながら深い、深い溜息を吐いた。
「……彼が森で、突如現れた巨大な魔熊に腹を抉られ、真に死にかけた時のことだ。俺が駆けつけるよりも早く、彼は君から渡されたという『竹筒の薬』を一気に飲み干したのだ……」
アーサー殿の顔が、恐怖の記憶を反芻するように青ざめていく。
「傷は一瞬で塞がり、内臓すら元通りになった。そこまでは良かった。だが……突如として彼の全身からこの暗緑色の光が噴き出し、彼は白目を剥いて立ち上がったのだ。その禍々しい魔神の如き気迫と発光に、群がっていた魔物たちが『ヒィィッ!』と悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げていったのだぞ……!」
「お、俺……傷が治ったのはいいんだけど、なんか体がずっと光ってて熱いし……他の冒険者のおじさんたちも、俺を見ると『近寄るな! 呪われる!』って逃げていくんだよぉ……」
少年が暗緑色に発光しながら、涙目で訴えかけてきた。
(……はて)
私は首を傾げた。
「恩寵を限界まで圧縮して練り込んだがゆえに、体内に取り込まれた余剰な光が外へ漏れ出している状態、といったところでしょうか。……しかし、魔物を退けるほどの威嚇効果があったのなら、陣中食としては大成功ですね」
私が「結果良し」とばかりに優雅に微笑んでみせると、アーサー殿が「良くない! 討伐隊の半数は、魔物よりも彼の姿に恐れをなして陣形を崩したんだぞ!」と悲鳴のようなツッコミを入れた。
「まあまあ、アーサー殿。必死即生と申した通り、彼は死の淵から蘇り、見事に生還したのです。これ以上喜ばしいことはありませぬ」
私は発光する少年の頭を、優しく撫でてやった。
少しばかり熱を帯びているが、命に別状はないだろう。
二、三日もすれば光も収まるはずである。うん、はずである。
その様子を少し離れた場所から見ていたヨゼフ殿が、静かに歩み寄ってきた。
そして、私の肩にポンと手を置き、いかにも長老らしい深い諭しの声で言った。
「……お嬢ちゃん」
「はい、ヨゼフ殿」
「君が皆を救いたいという気持ちは痛いほどよく分かった。本日の施療院での働きも立派だった。……だが、あの『竹筒の薬』だけは、しばらく封印したほうがよいかもな。この聖都に、魔王が降臨したという新たな伝説が生まれてしまう前に」
「…………」
私は暗緑色に発光する少年と、疲労困憊のアーサー殿、そしてドン引きしている周囲の神官たちの顔をぐるりと見渡した。
そして、袖口で口元を覆い静かに、けれど深く頷いた。
「……確かに。いささか、恩寵を圧縮しすぎたやもしれませぬ」
かくして、聖都サン・マリアンヌを脅かした魔物の群れは討伐され、大聖堂の野戦病院は私の采配によって見事に守り抜かれた。
しかし、それと引き換えに『暗緑色に輝く不死身の少年』という新たな都市伝説がギルドで囁かれることとなるのだが……それはまた、別の話である。
私は平和な日常への帰還を喜びつつ、自らの『秘薬』の威力を静かに反省するのであった。




