#31
西の森への大規模な討伐隊が出発した日の夕刻。
私の修道院跡地を訪れたヨゼフ殿とアーサー殿は、険しい顔つきで私に告げた。
「魔物の群れがどこから街へ溢れ出るか分からない。街外れのこの場所は危険すぎるから、事態が落ち着くまで大聖堂の客室へ避難しておくれ」
その言葉に、私は静かに頷いた。
「承知いたしました。地の利なき場所での籠城は下策。ここは速やかに陣を払い、より強固な大聖堂へと本陣を移しましょう」
私は直ちに小袖の袖をたすきで縛り上げ、「撤退戦こそ名将の腕の見せ所にございます」と気合を入れた。
貴重な薬草の種や調合の道具を木箱に隠し、窓には分厚い板を打ち付け、万が一の賊の侵入に備えて扉の裏に(少しばかり物騒な)仕掛けを施す。
「シロ、そなたには殿を任せます。我らの撤退を見事援護なさい」
「ハッ! このシロめが、背後はしかとお守りいたしますぞ!」
「いや、ただの戸締まりだから。なんで君たちはいつも戦場みたいな空気を出すんだ……」
疲れたように額を押さえるアーサー殿の護衛を受けながら、私とシロは夕闇が迫る街を抜け、街の中心にそびえる大聖堂へと無事に「陣地転換」を完了したのである。
* * *
翌朝。
宛てがわれた清潔で豪奢な客室で目覚めた私は、シスター・エララ殿の案内で、大聖堂の内部を見学することとなった。
「ガラシャさん、こちらが大聖堂の回廊です。この壁画には、我がサン・マリアンヌの成り立ちと、慈愛の女神様の伝承が描かれているんですよ」
エララ殿に促され、私は高くそびえる円花窓から差し込む光の先を見上げた。
その瞬間。私の歩みは、まるで魔法にかけられたようにピタリと止まった。
「……おお」
私の唇から、感嘆の吐息が零れ落ちた。
高い天井から壁一面を覆い尽くすように描かれているのは、天上の光を纏う女神と、それを仰ぎ見る人々の姿であった。
かつて大坂の城や寺院で、当代一流の絵師たちが描いた金碧障壁画(の数々を目にしてきた私だが、それらとは全く異なる美しさがそこにあった。
空の如き深い青。血のように鮮やかな赤。
そして、ステンドグラスから降り注ぐ光の束と計算し尽くされたかのような、立体的な陰影。
「なんという……恐るべき色彩の奔流。まるで、絵の中の神々が今にもそこへ舞い降りてきそうなほどの生命力です。生前……いえ、かつて京の都で南蛮寺の御絵を拝見したこともございましたが、これほどまでに圧倒的な筆致は見たことがございませぬ」
私はエララ殿の解説も半ば耳に入らぬまま、フラフラと壁画へ近づいていった。
(この衣のひだの滑らかさは、いかなる顔料で……。そしてこの光輪の金箔の散らし方……!)
「あ、あの、ガラシャさん? 話、聞いてます?」
「ええ、聞いておりますとも。……素晴らしい。実に素晴らしい」
私は目を輝かせ、壁の絵に鼻先が触れるほどの至近距離まで顔を近づけた。
「ちょっと! ガラシャさん、近いです! 近すぎます! 絵の具の匂いを嗅ごうとしないで!」
「おっと、失礼いたしました。あまりの美しさに、つい我を忘れて乱してしまいましたね」
私が慌てて一歩下がると、エララ殿は呆れたように息を吐きながらも少し嬉しそうに微笑んだ。
「ふふっ。でも、そこまで感動していただけて嬉しいです。この壁画は、昔の偉大な芸術家たちが、女神様への信仰の証として人生を懸けて描き上げたものなんですよ」
「女神様、ですか」
私は壁画の中心に描かれた、柔らかな微笑みを浮かべる女性の姿を見つめた。
片手に天秤を持ち、もう片方の手から温かな光を注ぐその姿は、確かにこの聖都の平和を象徴しているかのようであった。
* * *
(……私が前世でオルガンティノ神父様から教えを受けた、唯一絶対の主の教えとはやはり異なりますね)
日ノ本において、キリシタンの教えは他国の神仏を否定する側面を持っていた。
異教の神を信仰することは邪教であると撥ね付けるのはたやすい。
しかし、私はそうは思わなかった。
私を死の淵から掬い上げ、この美しく平和な世界へと導いてくれたのは、間違いなくこの世界の神(声の主)である。
私はこの地で土を耕し、人々と交わり、ここで生きていくと決めたのだ。
ならば、この地を慈しむ神のことも、等しく敬い学ぶのが人としての誠というものではなかろうか。
(主の教えでも『隣人を愛せ』と説かれています。この女神様の御心も、人々の安寧を願うその根本においては、きっと同じなのでしょう)
私は静かにそう咀嚼し、心の内で二つの信仰を優しく折り合わせた。
そんな私の思索を破るように、回廊の奥から、香水の強い匂いと絹の擦れる音が近づいてきた。
見れば、豪奢な衣装に身を包んだ貴族の一団が、高位の神官たちを引き連れて特別礼拝室へと入っていくところであった。
「……また、ローゼン伯爵家の寄付(お布施)か。最近の信仰は、どうにも形ばかりでいかんな」
いつの間にか私たちの背後に立っていたヨゼフ殿が、少し寂しそうな目で貴族たちの背中を見送った。
「寄付の額で祈りの序列が決まるとでも思っているのだろうか。神聖な場が、まるで見栄の張り合いだ」
ヨゼフ殿の呟きを聞き、私は目を伏せた。
黄金の装飾に彩られた祭壇と、見栄を張るための祈祷。
(……前世でも、似たような光景を目にしたことがございましたね)
武将たちが己の権力を誇示するために建てた、巨大な仏閣の数々。
しかし、私が本当に心打たれた祈りの姿は、そのような煌びやかな場所にはなかった。
「ヨゼフ殿。神はおそらく、黄金の祭壇や硬貨の数ではなく……人々の静かなる心の内におわすのでしょう」
私は、遠い日の記憶を辿るように、ゆっくりと口を開いた。
「私の知る国では、かつて新しい信仰が厳しく弾圧された時代がございました。見つかれば命を奪われるという恐怖の中……それでも彼らは、泥に塗れた土間の片隅で、粗末な木彫りの十字架を握りしめ、静かに、けれど熱烈に祈りを捧げていたのです」
私は胸元のロザリオにそっと触れた。
「誰に見せるためでもなく、ただ己の魂の救済と、愛する者の無事を願う純粋な祈り。それこそが、いかなる権力者のお布施にも勝る、真の信仰の姿であると、私は信じております」
私の静かな、しかし確かな重みを持った言葉に、ヨゼフ殿とエララ殿はハッと息を呑み、言葉を失ったように私を見つめた。
「……お嬢ちゃん。君は本当に……時折、私よりもずっと長く、深く世界を見つめてきたような顔をするね」
ヨゼフ殿が、目尻の皺を深くして優しく微笑んだ。
* * *
その夜。
大聖堂の客室は、街外れの修道院跡地とは比べ物にならないほど暖かく、静かであった。
暖炉の火がパチパチと爆ぜ、絨毯の上ではシロが安心しきった様子で腹を見せて眠っている。
私はベッドの端に膝をつき、胸元から木彫りのロザリオを取り出した。
前世から私と共にある、私を私たらしめる唯一の核。
「……天にまします我らの父よ。そして、この美しき世界を護り給う慈愛の女神様」
私は両手でロザリオを包み込み、そっと目を閉じた。
呼び名や姿形は違えど、願う平穏は同じ。
西の森へ赴いたあの十歳の少年と、アーサー殿たち防衛隊の無事を、私はただ純粋に願う。
(どうか、彼らの盾となり、無事に我が陣へお返しください)
冷たい石の床ではなく、柔らかな絨毯の上で。
異教徒として排斥するのではなく、真面目にこの世界を学び、共に生きる決意を胸に。
小さな薬師・ガラシャの静かな祈りは、ステンドグラス越しに降り注ぐ月光に溶け込み、どこまでも清らかに、天へと昇っていくのであった。




