#30
近頃、聖都サン・マリアンヌに不穏な風が吹き始めている。
城壁の警備にあたる騎士たちや、薬を求めに来る民草の話によれば、西の森で魔物の発生数が急激に増えているのだという。
事態を重く見た冒険者ギルドは、大規模な魔物討伐隊を編成し森の掃討作戦に乗り出すとのお触れを出した。
「いよいよ戦の火蓋が切って落とされるのですね」
私は修道院跡地の庭で、小さな手押し車に木箱をいくつも積み込みながら、静かに息を吐いた。
「シロ。此度は我が陣から討って出ます。前線で血を流す兵たちに、十分な薬(兵站)を供給する。それもまた、後方を預かる者の務めにございます」
「承知仕った! 姫君の荷車、このシロめがしかとお牽きいたしますぞ!」
頼もしい門番たるシロの背に手押し車の紐をくくりつけ、私は白地の小袖の裾を整えた。ヨゼフ殿やベアトリス様の計らいもあり、また商務院の認可も得てこの度は出張での販売の許可も得た。
目指すは街の中心、荒くれ者たちが集う冒険者ギルド。
これより『小さな薬師』の出張販売――もとい、陣中見舞いへ出陣である。
* * *
冒険者ギルドの前の広場は、革鎧や鉄の武具が擦れる音、怒号にも似た荒々しい話し声で溢れかえっていた。
これから命懸けの討伐へ向かおうとする血気盛んな戦士たちの群れ。むせ返るような汗と鉄の匂い。
(……さても。かつての陣中を思い出すほどの殺気と熱気ですね)
屈強な男たちの中で、小袖姿の可憐な少女(私)と巨大な白犬は明らかに異彩を放っていた。
しかし、大名家の奥御殿で数々の修羅場を見てきた私に、臆する気持ちなど微塵もない。
私は広場の隅に木箱を並べ、優雅な手つきで自作の『軟膏』や『解熱薬』を並べていった。
「小さな薬師、出張陣所にございます。傷薬や気付け薬はいかがでしょうか」
凛と通る声で呼びかけると、「おっ、薬か!」「ポーションより安いなら貰おう」と、何人かの冒険者が銅貨や銀貨を握りしめてやってきた。
「あっ、お姉ちゃん!」
不意に、人混みを掻き分けて小さな姿が飛び出してきた。
粗末な革の胸当てに短い剣を帯びた、十歳ほどの少年。
かつて、私が店を開いた初日に、スライムの擦り傷の薬を買いに来てくれたあの駆け出しの若者であった。
「おや。そなたも、此度の討伐に出陣するのですか?」
私が尋ねると、少年は誇らしげに胸を張った。
「うん! ギルドのみんなと一緒に、森の浅いところでゴブリンたちを間引くんだ! 俺も立派な冒険者だからね!」
明るく笑う少年の瞳は、希望と無邪気な勇気に満ちていた。
しかし、その小さな体躯と薄い革鎧を見た瞬間、私の胸の奥がチクリと針で刺されたように痛んだ。
(まだこのような童が、死と隣り合わせの戦地へ……)
大坂の細川屋敷や丹後の城で、初陣に赴く若き家臣たちの姿が脳裏をよぎる。
元服を済ませたばかりの十五、六の若武者たちが、勇ましく出陣し……二度と帰らぬ無言の骸となって戻ってくる光景。
そして、大坂に遺してきた忠隆たち、我が息子たちの顔。
彼らもまた、いずれあの凄惨な戦場へと駆り出されていく運命にあった。
『母上、行って参ります』
幻聴のような幼い声が耳に響き、私は思わず袖をきゅっと握りしめた。
まだ年端も行かない子供が、冷たい刃を握り命を懸けねばならない現実。
それがこの異世界の『冒険者』という生業だとしても、母としての魂を持つ私には、見過ごすことのできない痛みであった。
私は木箱の陰から進み出ると、少年の小さな両手を己の白い両手でぎゅっと包み込んだ。
「えっ……お姉ちゃん?」
少年が驚いて目を見開く。
「よいですか」
私は漆黒の瞳で彼を真っ直ぐに見据え、一切の甘さを捨てた真剣な声で告げた。
「戦場においては『必死即生』。死を覚悟した者こそが、逆境を生き残るのです。敵を侮り、生に執着すれば刃は鈍ります」
「え、ええと……?」
少年の顔から笑顔が消え、少しずつ青ざめていく。
だが、私の説法は止まらない。
「決して敵に背を見せてはなりませぬよ。万が一、武器を失い組み伏せられたならば、最後の力を振り絞り、敵の喉笛に噛みついてでも相討ちになさい。その覚悟さえあれば、必ず生きて帰れます」
「…………」
少年の顔が完全に硬直し、周囲で出陣の準備をしていた屈強なベテラン冒険者たちが、「ヒッ」と息を呑んで一斉に一歩後ずさった。
(なんだあの嬢ちゃん……歴戦の狂戦士みたいなこと言ってやがるぞ……)という心の声が、彼らの顔にありありと浮かんでいる。
「お、お姉ちゃん……こわっ!」
少年がようやく絞り出すようにツッコミを入れた。
「ていうかお姉ちゃん、そんな大層なこと言うけど、俺とお姉ちゃん、そんなに年変わらないじゃん! なんで急にお母さんみたいな、歴戦の傭兵みたいなアドバイスするのさ!」
「……はて」
私はきょとんと目を瞬かせた。
(中身は立派な母であり、武家の女にございますが。この十五の可憐な肉体が、いささか説得力を欠いてしまったようですね)
私は小さく咳払いをして、「コホン。とにかく、命を粗末にしてはなりませぬよ」と優しく微笑み直した。
* * *
「さあ、これを持ってお行きなさい」
私は少年に、上質な傷薬と解熱薬の小瓶をいくつか手渡した。
「代金は、出世払いで構いません。必ず無事に生還して、我が陣へ報告にいらしてくださいね」
「えっ、いいの!? ありがとう、お姉ちゃん! 絶対生きて帰ってくるよ!」
少年は照れくさそうに笑い、薬をしっかりと腰の袋にしまった。
「それと……」
私は周囲を警戒するようにスッと目を細め、袖の奥から『暗緑色に発光し、シュウシュウと怪しげな音を立てる竹筒』を取り出した。
「これは、いざという時のための我が陣の『秘薬』です。内臓が飛び出るほどの致命傷を負い、真に死が迫った時だけ、これを一気に飲みなさい」
私はその危険物(泥ポーション)を、そっと少年の袋の底に滑り込ませた。
恩寵を限界まで圧縮した、かつてアーサー殿の腹の穴を塞ぎ、彼を白目にして気絶させた代物である。
「アッ! ガラシャ殿、その子に何を……!?」
遠くでギルドの警備にあたっていたアーサー殿が、不吉な発光を目ざとく見つけ、血相を変えてこちらへ駆け寄ろうとした。
だが、その時。
「討伐隊、出発ーーーッ!!」
ギルドマスターの勇ましい号令が広場に響き渡り、冒険者たちが一斉に鬨の声を上げて大通りを行進し始めた。
少年も「行ってくるね!」と大きく手を振り、仲間の群れの中へと走り去っていってしまった。
「あああ……あの子の胃腸と意識が、森の中で消し飛ばないことを祈るしかない……」
間に合わなかったアーサー殿が、その場に崩れ落ちて頭を抱えている。
私は、遠ざかっていく若き戦士たちの背中を静かに見つめていた。
陽光に照らされる彼らの背中に、かつて散っていった命の残像が重なる。
私は胸元のロザリオを両手で固く握りしめ、目を閉じた。
『主よ、どうか彼らの盾となり、その命をお守りください』
戦国の世で、数え切れぬほどの若き命が泥に塗れて散っていくのを見てきた。
だからこそ、この平和な異世界では、誰一人として欠けてほしくはない。
陣中見舞いを終えた私は、秋の少し冷たい風に吹かれながら、静かに、けれど強い切実さをもって、彼らの武運と生還を祈り続けるのであった。




