#29
裏庭の新田開発から数日。
耕された畝には、見事な青葉を広げた薬草たちがすくすくと育っていた。
本日はシロに市場への使い(クレアの店へのパンの買い出し)を頼んでおり、私は孤児院の子供たちと共にのんびりと草むしりに精を出していた。
「お姉ちゃん、この草も抜いていいの?」
「ええ、それは雑草ですね。根からしっかり抜いてくださいな」
秋の心地よい風が吹き抜け、子供たちの笑い声が響く。
まさに豊穣の領地、平和なスローライフのひとときであった。
――だが、その平穏は突如として破られた。
メシャァァッ!!
裏庭を囲む木の柵が、凄まじい音を立てて粉砕された。
「キャアッ!?」
子供たちが悲鳴を上げ、尻餅をつく。
土煙の中から姿を現したのは、大人の腰ほどもある巨大な猪であった。
ただの獣ではない。
額には禍々しい赤い魔石が埋まり、口からは湾曲した巨大な牙が突き出ている。
クロエ教授の図鑑で見た、『牙猪』と呼ばれる魔物だ。
どうやら、恩寵を吸って育った薬草の豊かな魔力の匂いに惹かれ森から迷い込んできたらしい。
「ブルルルゥゥッ!」
牙猪は血走った目で周囲を見回し、そして、逃げ遅れて足がすくんでいる小さな女の子へと狙いを定め、前足を掻いて突進の構えを見せた。
(曲者……!)
私は咄嗟に、腰に帯びていた細身の剣――レイピアの柄を握りしめ、女の子と猪の間に立ち塞がった。
「お姉、ちゃん……!」
背中から、子供たちの震える声が聞こえる。
シロは不在。防衛隊を呼ぶ暇もない。
私が、この身一つで彼らを守るしかないのだ。
チャキ、と金属音を立ててレイピアを抜く。
しかし。剣先は、私の意志に反してカタカタと情けない音を立てて震えていた。
私は戦国の世を生きたとはいえ、武将ではなく奥御殿の姫君である。
剣の稽古は遊び程度。少しだけ受けたが、当然ながら自らの手で生き物の命を奪う「真剣勝負」など経験したことがない。
巨大な魔物の殺気を正面から浴び、全身から冷たい汗が噴き出す。
怖い。逃げ出したい。
だが、背後には私を頼る小さな命があるのだ。
(かつて、私は何もできず、ただ祈ることしかできなかった……。ですが、今は違う!)
「私が、守るのです……!」
私は奥歯を強く噛み締め、胸元のロザリオを左手で固く握りしめた。
『主よ、光あれ』
牙猪が地を蹴り、猛烈な勢いで突進してくる。
その瞬間、私の祈り(恩寵)がロザリオからレイピアの刀身へと流れ込んだ。
「ッ!?」
白銀の刀身が、真昼の太陽すら霞むほどの強烈な『浄化の光』を放った。
「ブギィィィッ!?」
邪悪な気配を宿す魔物にとって、私の過剰な恩寵の光は劇薬に等しい。
牙猪は突如として現れた目眩ましの閃光に悲鳴を上げ、突進の勢いを削がれて大きく体勢を崩した。
(――兜の目穴が、留守ですね)
恐怖で震えていたはずの私の身体が、武家の女として叩き込まれた実戦の『型』に従い無意識に動いた。
体さばき一つで猪の突進をひらりと躱し、すれ違いざま、無防備に晒された喉元――鎧の継ぎ目とも言える唯一の急所へと、レイピアの鋭い切先を真っ直ぐに突き入れた。
スッ……。
何の抵抗もなく、細身の刃が急所を深く貫く。
短い断末魔と共に、牙猪はドドォォンと重い音を立てて崩れ落ち二度と動かなくなった。
「……はあ、はあ……。討ち、取ったり……」
私は荒い息を吐きながらレイピアを引き抜き、刀身の血振りをピシッと行った。
手はまだ微かに震えていたが、胸の奥には、自らの手で領地(陣)と領民を守り抜いたという確かな達成感が広がっていた。
「お、お姉ちゃん……すごい! 剣のお姫様みたいだ!」
「かっこいいー!」
子供たちがワッと駆け寄り、歓声を上げて私の腰に抱きついてくる。
「皆、怪我はありませんか。……ええ、もう大丈夫ですよ」
私は子供たちの頭を優しく撫でながら、そっと目を細めた。
* * *
さて。討ち取った巨大な魔物(牙猪)を前にして、私は思案に暮れていた。
日ノ本の古い教え(仏教)においては、四つ足の獣の肉を食すことは穢れとして忌避されていた。
しかし、私が帰依した南蛮の教え(キリスト教)では、宣教師様方が「神の与えたもうた糧」として、牛や豚の肉を食しておられた記憶がある。
「この世界の冒険者たちも、倒した魔物の肉を糧としていると聞きます。郷に入っては郷に従え、ですね」
私は腕まくりをして、若草色の割烹着を身に纏った。
「それに、育ち盛りのそなたたちには、血肉となる栄養が必要です。この命、無駄にはいたしません」
戦国の世において、狩猟で得た獲物を無駄なく陣中食にするのは兵站の基本である。
私は物置から解体用の鉈と包丁を持ち出し、ためらうことなく血抜きと解体の作業に取り掛かった。
(※子供たちには少し刺激が強いため、薬草の収穫をして待つように指示をした)。
数十分後。
「ガラシャ殿! 魔物が出たと聞いて駆けつけたのだが、無事かっ!?」
血相を変えたアーサー殿が、銀の鎧を鳴らして裏庭へと飛び込んできた。
その後ろからは、シロと共にクレアも息を切らしてやってくる。
「おお、アーサー殿。クレアも。ちょうど良いところへ参られました」
私は手ぬぐいで額の汗を拭いながら、竈でグツグツと煮え立つ巨大な鍋をお玉でかき混ぜていた。
「ま、魔物は……? ガラシャちゃん、その鍋、お肉がいっぱい浮いてるけど……」
クレアが引き攣った顔で鍋と私を交互に見る。
「ええ。我が陣を脅かした賊(魔物)でしたら、私のレイピアの露と消え……今は、こちらの特製シチューの具となっております」
私はお玉を掲げ、満面の笑みで答えた。
「獣特有の臭みを消すため、香草(薬草)をふんだんに効かせた『猪鍋』にございます。さあ、皆様も補給といきましょう」
「…………」
アーサー殿はポカンと口を開け、かつて牙猪だったものの残骸(毛皮と魔石)と、鍋から漂う恐ろしく良い匂いを前にして、完全に言葉を失っていた。
「魔物を単独で討ち取り……即座に、鍋に……? 君は、本当に町娘なのか……?」
* * *
庭にゴザを敷き、皆で大きな鍋を囲む。
私が医学書や料理本から得た知識を総動員し、恩寵を少しだけ込めて煮込んだ猪鍋は、驚くほど柔らかく、深い旨味に満ちていた。
「美味い……! 悔しいが、兵舎の食堂で出る肉料理より遥かに美味いぞ!」
アーサー殿がハフハフと熱い肉を頬張りながら感嘆の声を上げる。
「ガラシャちゃん、お料理の腕、本当に上がったね! すごく美味しい!」
クレアも、持参してくれたパンをシチューに浸して笑顔を見せた。
子供たちやシロも、夢中になって鍋をつついている。
「お気に召して何よりです」
私は自分の椀のスープを一口すすり、心地よい温かさが胃の腑に落ちていくのを感じた。
敵として現れた命を、自らの手で討ち取り、血肉へと変えて明日への糧とする。
残酷にも思えるが、これぞ自然の理であり、サバイバルの真髄でもある。
何より、こうして皆で同じ鍋を囲み、美味しいと言い合える時間が、たまらなく愛おしかった。
「命をいただくとは、こういうことなのですね」
私は胸のロザリオにそっと触れ、大いなる自然と神の恵みに静かな感謝を捧げた。
初めての剣での防衛戦と、初めての解体。
小さな薬師・ガラシャの領地(陣)は、今日も賑やかな笑い声と美味しいシチューの匂いに包まれて、平和な秋の夕暮れを迎えるのであった。




