#26
朝日が差し込む修道院跡地の窓辺。
私は、徹夜で練り上げた純粋な知識の結晶――恩寵(祈り)を一切込めずに作り上げた小瓶を並べ、静かな達成感を噛み締めていた。
(これならば、奇跡に頼らずとも民草の痛みを和らげることができましょう)
しかし、その穏やかな朝の静寂は、慌ただしい足音によって破られた。
「ガラシャちゃん! 大変だ、クレアが……!」
駆け込んできたのは、いつも元気なクレアの父親であるパン屋の店主殿であった。彼の顔には深い焦燥が浮かんでいる。
「昨夜から急にひどい高熱を出して、ずっとうなされているんだ。お医者様を呼ぼうにも、今日は大聖堂の施療院が混み合っていて……」
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。
親友の一大事。
「ご安心ください。ただちに援軍に向かいます」
私は即座に『小さな薬師』の看板を裏返し、閉門(休業)の札を掛けた。
「シロ! 出陣です。急ぎ兵糧と丸薬の用意を!」
「ハッ! 姫君、ただちに!」
私は昨夜完成させたばかりの解熱の薬と、消化に良さそうな果物や卵を籠に詰め込んだ。
そして、病魔に対する謎の防衛本能から、腰に細身の剣を固く帯びた。
「……さあ、参りましょう。いかなる病魔であろうと、このガラシャが討ち払ってご覧に入れます」
私は悲壮な覚悟を顔に張り付け、風のように街の大通りを駆け抜けた。
* * *
クレアの家であるパン屋に到着するなり、私は勢いよく扉を開け放った。
「よくぞ持ちこたえられました! これより私が本陣の守りに入ります!」
レイピアの柄に手を掛け、戦場に舞い降りた武将のような気迫で乗り込んだ私に、出迎えたクレアの母親は「ヒッ」と短く息を呑み、完全に怯えた目をしていた。
「あ、ありがとう、ガラシャちゃん……。でも、その物騒な剣は下に置いていってね……?」
「おや。《《病魔》》の奇襲に備えるための護身用でしたが、不要でございましたか」
私は少しばかり肩透かしを食らいつつも、大人しくレイピアを外し案内されるままに二階のクレアの部屋へと足を踏み入れた。
薄暗い部屋のベッドには、顔を真っ赤にして苦しそうに荒い息を吐くクレアの姿があった。
「クレア……」
私は枕元に静かに膝をつき、二つの小さな瓶を取り出した。
「援軍に参りました。クレア、選んでください。一瞬で完治しますが白目を剥いて気絶する恩寵の秘薬(泥ポーション)と、昨日私が徹夜で調合した穏やかな解熱の薬……どちらをご所望ですか?」
熱にうなされ、朦朧としているはずのクレアだったが、私の手にある暗緑色に発光する泥の入った竹筒を見た瞬間、猛烈な勢いで首を横に振った。
「……ふつうの、薬で、お願い……気絶は……やだ……」
「承知いたしました」
私は竹筒をしまい、若草色のエプロンをきゅっと結び直した。
「ご両親はどうか下の店番をお続けください。ここから先は、私がこの本陣を死守いたしますゆえ」
そう宣言し、私は本格的な籠城戦(看病)の態勢に入った。
* * *
私は桶に冷たい水を汲み、手ぬぐいを浸して固く絞った。
クレアの熱い額にそれをそっと乗せ、首筋や腕に滲んだ汗を丁寧に拭い去っていく。
そして、徹夜で練り上げた解熱の軟膏を胸元に薄く塗り、煎じた薬草茶を匙で少しずつ口に含ませた。
一瞬で治る奇跡(魔法)ではない。
ゆっくりと、しかし確実に熱を下げていく、人の知恵による薬である。
静かな部屋にクレアの少しずつ落ち着きを取り戻していく寝息と、手ぬぐいを絞る水の音だけが響く。
看病を続けながら、私はふと、冷たい水で濡れた己の手のひらに視線を落とした。
(前世では、決して許されなかったこと……)
戦国の世。
大坂の細川屋敷において、冬の冷たい風が流行り病をもたらした時のことだ。
私の身の回りの世話をしてくれていた若き侍女たちが、次々と高熱に倒れた。
しかし、大名家の正室である私は、彼女たちの病床に近づくことすら禁じられていた。
『奥方様、穢れに触れてはなりませぬ。奥方様にも移ってしまう故』
そう言い含められ、私は豪華な着物を纏ったまま安全な奥御殿に閉じ込められた。
彼女たちが苦しみに喘いでいる間、私にできたことといえば、冷たい御堂の床に膝をつき、ただロザリオを握りしめて神に祈ることだけであった。
どれほど声を枯らして祈っても、儚き命は私の手の届かぬところで静かに零れ落ちていったのだ。
(祈るだけでは、救えないものがある。触れることすら許されなかった、あの無力感……)
しかし、今は違う。
私は己の手で、苦しむ親友の汗を拭い、自らの知識で調合した薬を与えている。
冷たい水で手ぬぐいを絞るたび私の手を通して、確実に友の命を助け守っているという確かな実感があった。
「……もう、無力なまま祈るだけの姫ではないのですね」
私はクレアの熱を帯びた手をそっと両手で包み込んだ。
静かなる感動と、時を経てようやく得られた『人としての喜び』が、胸の奥底からじんわりと込み上げてきた。
* * *
窓の外が茜色に染まり、やがて夜の帳が下りる頃。
「ん……ガラシャ、ちゃん……?」
ぱちりと目を開けたクレアの瞳には、いつもの元気な光が戻っていた。
私が額に手を当ててみると、あんなに高かった熱はすっかり引いている。
「ええ、私です。もう苦しくはありませんか?」
「うん。体がすごく軽い……。ガラシャちゃん、ずっと看病してくれてたの?」
クレアが体を起こし、不思議そうに私を見た。
「一瞬で治る魔法を使わず、申し訳ありませんでした。ただの薬草の力ゆえ、半日も籠城する羽目に……」
私が目を伏せると、クレアはゆっくりと首を横に振った。
そして、私に向けて柔らかく微笑んだ。
その瞬間であった。
薄明かりの中で微笑むクレアの顔が
不意に、前世の記憶の中にある一人の少女の顔とピタリと重なったのだ。
『奥方様、どうか私のことなどお気になさらず……』
私に最後まで付き従い、流行り病に倒れながらも看病できない私を逆に気遣って笑ってくれた侍女の『お静』。
あの時、触れてやることもできなかった彼女の無念の笑顔が、クレアの顔に重なって見えた。
(ああ……)
気づけば、私の頬を温かいものが伝い落ちていた。
戦国の世でどうしようもなく凍りついていた悲しみと悔恨が、時を越え、ようやく溶け出していくように。
ポロポロと、音もなく涙がこぼれ落ちた。
「……ガラシャちゃん、泣いてるの?」
クレアは少し驚いたように目を丸くしたが、すぐにニコッと、お日様のように笑った。
そして、ベッドから少しだけ身を乗り出すと、熱の下がった柔らかな手で私の涙を優しく拭ってくれた。
「泣かないで。ガラシャちゃんの手、冷たくて、すごく気持ちよかったよ」
「クレア……」
「魔法じゃなくても、ガラシャちゃんがずっとそばで手を握っててくれたから、安心して眠れたんだよ。ありがとう」
その言葉に、私は袖で顔を覆うことも忘れ、クレアの温かい手を両手でしっかりと握りしめ返した。
「……いと、嬉しき言葉にございます」
人の手による温かな看病と友の笑顔。
私は異世界で得たこのささやかで、何よりも尊い日常の幸せを噛み締めながら、静かに、けれど深く、秋の夜の平穏に感謝の祈りを捧げた。




