#25
「ガラシャさん、この前の軟膏のおかげで息子の擦り傷がすっかり良くなったわ。今日は私の腰痛に効くお薬をいただけるかしら?」
「ええ、もちろん。こちらの湿布薬などいかがでしょう」
窓辺の小さな店先に、今日も穏やかな声が響き交う。
『小さな薬師』の看板を掲げてから数週間。
はじめは一日に一人か二人だった客足も、今では五人から十人程度にまで増えていた。
我が陣を訪れるのは、駆け出しの見習い冒険者や、城壁の警備にあたる騎士たち、そしてその家族である街の民草たちだ。
薬を渡し、対価として銅貨や銀貨を受け取る。
その短いやり取りの中で、「西の森で新しい魔物が出たらしい」「大通りの八百屋に珍しい南蛮野菜が入荷した」といった、街の様々な情勢が私の耳に入ってくるようになった。
(……さても。私もすっかり、この聖都サン・マリアンヌの住人として根付き始めているようですね)
客の背中を見送りながら、私は静かな感慨とともに微笑んだ。
奥御殿という閉ざされた鳥籠の中で、ただ外の世界を想像するしかなかった前世では得られなかった社会との確かな繋がり。
だが、順調に商いを重ねる中で、私の中には一つの懸念が黒い墨のようにじわりと広がり始めていた。
(私の薬がこれほどまでに効くのは、ひとえに私が込める『恩寵(祈り)』の力があってこそ。しかし……)
もしも、この異世界の女神の加護が突然失われたら。
あるいは、何らかの理由で私が祈りの力を使えなくなったとしたら。
私の薬はただの青臭い泥に戻り、痛みに苦しむ者たちを救うことはできなくなる。
魔法という見えざる奇跡に頼り切ることは、城の土台を砂上の楼閣とするに等しい。
「私は、真の意味での『薬師』にならねばなりません」
私は胸元のロザリオをそっと握りしめ、静かに決意を固めた。
奇跡がなくとも命を繋ぎ止める、純粋な医学と薬草学の「知識」を得るのだと。
* * *
翌日、私は店を半休とし、大聖堂の書物庫と学術院を行き来していた。
ヨゼフ殿からはこの国の基礎的な医学書や古い薬方の写本を借り受け、クロエ教授の研究室では、より実践的な薬草の講義を受けていた。
「いいかい、ガラシャ君。薬草というのは、ただ単体ですり潰せばいいというものではない。この『太陽の葉』と『清流の根』を七対三の割合で掛け合わせることで、成分が互いに作用し合い、全く新しい治癒効果を生み出すんだ」
クロエ教授は、試験管の中で色を変える液体を指さしながら熱弁を振るった。
「ほう……複数の草根木皮を掛け合わせることで、未知なる効能を導き出すのですね」
私は手元の羊皮紙に炭筆でメモを取りながら、深く頷いた。
「なるほど。それはまるで、我が国に伝わる『香道』における『薫物合』の如き理ですね。沈香や丁子といった香木を絶妙な塩梅で練り合わせ、互いの香りを殺さずに深みのある新たな薫りを生み出す。あるいは、茶の湯において主客の心が交わり、一つとなる『一座建立』にも似て……」
「こ、こうどう? お茶……? ま、まあ、言わんとしていることは概ね合っていると思うが」
私の武家の姫としての高度。しかしこの世界じゃ異端な教養に、クロエ教授は眼鏡を押し上げながら少し戸惑ったように頷いた。
「そして、ここからが錬金術の奥義だ。この癒やしの調合液に、猛毒を持つ『紫蛇の毒草』の絞り汁を一滴だけ垂らす。すると……見てみろ。毒の成分が反転して刺激となり、薬効が数倍に跳ね上がるんだ!」
「……!!」
私は息を呑み、目を輝かせて身を乗り出した。
「毒を以て毒を制す……! 調合の配合をほんのわずかでも誤れば、たちまち相手の内臓を溶かし、血を吐かせて絶命せしめる暗殺用の猛毒(鴆毒)となるわけですね! 実に奥が深きこと!」
「いや、違う! これはただの胃腸薬だからね! まったく、なんで急にそんな物騒な目になるんだい!?」
全力で突っ込むクロエ教授の言葉を背に受けながら、私は知識という名の新たな武具を手に入れる喜びに震えていた。
* * *
その夜。
修道院跡地の自室には、トントン、ゴリゴリと、薬草をすり潰すすりこぎの音が静かに響いていた。
机の上には、ヨゼフ殿から借りた医学書と、クロエ教授から分けてもらった数種類の薬草が広げられている。私はランプの灯りを頼りに、恩寵(祈り)を一切込めず、己の手と知識の配合のみで薬を練り上げていた。
ふと、私の手が止まる。
乳鉢の中で泥状になった薬草を見つめていると、不意に、遠い前世の記憶が脳裏に蘇ってきた。
(……大坂の細川屋敷は、いつも血と死の匂いがしておりましたね)
戦国の世。夫である忠興様や父上の軍勢が戦から戻るたび、屋敷には手足に深い傷を負った忠実な家臣たちが運び込まれてきた。
時には、冷たい冬の風が流行り病をもたらし、私の身の回りの世話をしてくれていた若き侍女たちが、次々と高熱に倒れることもあった。
しかし、大名家の正室である私は、彼らの病床に近づくことすら許されなかった。
『奥方様、血や死の穢れに触れてはなりませぬ』
『医者と祈祷師に任せ、奥に引っ込んでおいでくださいませ』
高貴な女は、自ら泥や血に塗れて看病をすることなど許されない。
それが、武家社会の掟であった。
私は豪華な着物を纏い、安全な奥御殿の御堂に籠もり冷たい床に膝をついて、ただロザリオを強く握りしめることしかできなかった。
いずれその祈りも、隠れて行わねばならなくなったのだが。
『主よ、どうかあの子を、あの者をお救いください……』
どれほど声が枯れるまで祈っても。どれほど神に縋っても。
医者の首振りと共に、儚き命は私の手の届かぬところで次々と零れ落ちていった。
(祈りだけでは、救えぬ命があったのです)
その無力感と静かなる悔恨は、私が己の命を散らすその瞬間まで胸の奥底に重く燻り続けていた。
「……ですが、今は違います」
私は顔を上げ、ランプの光を真っ直ぐに見つめた。
今、私の手は泥に汚れ、爪の間には薬草の青汁が染み込んでいる。
大名家の姫の白く美しい手ではない。
労働と探求によって汚れた、一人の薬師の手である。
私は再びすりこぎを握り、力強く薬草を練り始めた。
祈るしかできなかった過去の私への、これは静かなる弔い合戦なのだ。
神から与えられた奇跡(恩寵)にあぐらをかくのではなく、自らの手で草を摘み、自らの頭で理を導き出し、薬を作る。
知識という名の『力』を手に入れて、今度こそ、私は自分の手で命を繋ぎ止めてみせる。
「この紫の草は熱を下げ、こちらの根は痛みを和らげる……。香道の薫物合のように、見事に調和させてみせましょう」
私は医学書をめくり、分量を量り、幾度も調合を繰り返した。
窓の外の夜空が白み始めるまで、私の集中が途切れることはなかった。
* * *
「……ふぁあ。姫君、おはようごさ……ヒッ!? 姫君、いかがなされました!? 目の下に、恐ろしき漆黒の隈ができておりますぞ!」
翌朝、寝床から這い出してきたシロが、私の顔を見るなり悲鳴を上げて飛び退いた。
「おや、シロ。おはようございます。少々、医学書の解読に熱中しすぎてしまったようです」
私は袖で口元を覆い、少し重い頭を振りながらも、満足げに微笑んだ。
机の上には、一晩かけて練り上げた、深い緑色をした軟膏が小瓶に詰められている。
もちろん、一切の発光はない。
祈りを一滴も込めていない、純粋な私の知識と技術の結晶である。
私は小瓶の蓋を開け、そっと匂いを嗅いだ。
森の土と、草の青い匂い。そして、いくつもの成分が複雑に絡み合った、確かな『薬』の香りがする。
「……見事な一座建立(調合)です」
私は、誰に褒められるでもなく、一人静かに目を細めた。
この薬がどれほど効くのかは、これから試していかねばならない。
しかし、確かなことは一つ。
私はもう、ただ祈るだけの無力な姫ではないということだ。
自らの足で立ち、自らの手で命を救うすべを学ぶ。
徹夜明けの心地よい疲労感の中、私は『小さな薬師』としての本物の誇りを胸に、朝日が差し込む店先の窓を大きく開け放ったのである。




