#24
初めて己の力で稼いだ五枚の銅貨。
その誇らしい重みを胸に秘め、私は今日も修道院跡地の窓辺で店番をしていた。
澄み切った秋の空の下、シロも立派な門番としてあくびをしながら鎮座している。
「姫君。昨日から一向に客の気配がありませぬな」
「焦らずともよいのです。商いとは、長期戦の構えが肝要ゆえ……おや?」
遠くから、規則正しい馬の蹄の音と、車輪が石畳を軋ませる音が近づいてきた。
やがて我が陣の前に横付けされたのは、街外れの修道院跡地にはおよそ似つかわしくない、豪奢な金細工が施された立派な馬車であった。
シロが「なんだあのきらびやかな箱は!?」と身を乗り出して警戒する中、御者に手を取られて降りてきたのは、見知った気高き婦人――マダム・ベアトリス様であった。
「ごきげんよう、ガラシャ。あなたが自分のお店を開いたと風の噂で聞いたものだから、居ても立ってもいられなくて来てしまったわ」
ベアトリス様は、相変わらずの高貴な白檀の香りを漂わせながら、優雅に微笑んだ。
「ベアトリス様。ようこそ、むさ苦しき我が店へ。お越しいただき光栄の至りに存じます」
私は慌てて店先へ出て、深々と礼をした。
「まあ、堅苦しい挨拶は抜きにしてちょうだい。……それにしても、あなたが作ったというお薬、とても良い香りね。魔力の波長も驚くほど澄んでいるわ」
彼女は窓口に並べた特級認可の『軟膏』の小瓶を手に取り、興味深そうに眺めた。
「このお薬、うちのサロンの奥様方にも配って差し上げたいわ。ここにある十個、全部いただくわね」
「ぜ、全部でございますか?」
私が驚いていると、ベアトリス様は小さな絹の袋から、太陽の光を反射して眩く輝く硬貨を取り出し、コトリと木の台に置いた。
それは、銅貨でも銀貨でもない。
聖都の最高通貨である『金貨』であった。
(うおっ……!)
危うく、大名家の妻らしからぬ奇声が喉の奥から漏れそうになった。
私は咄嗟に袖で口元を覆い、必死に表情筋を引き締める。
銅貨五枚で一つ売れる軟膏に対し、金貨一枚など、過剰な支払いに等しい。
(※相場感はまだふんわりしているが、とにかく桁が違うことだけは分かった)。
前日、クレアから「情に流されてどんぶり勘定にするのは絶対禁止!」と厳しく商いの掟を叩き込まれていた私は、慌てて首を振った。
「ベ、ベアトリス様! これでは過分にすぎます! 今の我が店の財力では、到底お釣りが用意できませぬ!」
「ふふっ。いいのよ、グラティア。お釣りなんて野暮なものは要らないわ」
ベアトリス様は扇で口元を隠し、悪戯っぽく笑った。
「そのお釣りの代わりに……今日の午後、私にあなたの時間を頂戴。さあ、馬車へ乗って」
「……は、はい?」
私が目を瞬かせる間もなく、ベアトリス様は有無を言わさぬ貴族の覇気で私の手を取り、強引に馬車へと乗せこんだ。
「ひ、姫君ーっ! どこへ連れ去られるのでござるかーっ!?」
「留守を頼みます、シローッ!」
取り残されたシロの情けない遠吠えを背に聞きながら、私は豪華な馬車のふかふかの座席で密かに戦慄を覚えていた。
(……金貨を与えられ、強制的に馬車に乗せられる。これは……!)
私の頭の中で、警戒心が警鐘を鳴らした。
かつての世において、天下人や権力者からの過剰な施しや贈り物は、純粋な善意などではない。
それはすなわち「見返り」――絶対的な忠誠や、身内を『人質』として差し出すことを要求する、恐ろしい政治的圧力の前触れであった。
(私が薬師としての才覚を示したがゆえに、有力貴族であるローゼン家による『囲い込み』が始まったのですね。……上等です。いかなる尋問であろうと、明智の女として堂々と渡り合ってみせましょう)
私は悲壮な覚悟を決め、背筋をピンと伸ばして窓の外を睨みつけた。
* * *
馬車が到着したのは、聖都の中心部にある、ひときわ大きく華やかな建物であった。
『王室御用達・高級ブティック兼サロン』とでも言うべきその場所には、美しい絹のドレスや、宝石をちりばめた装飾品が所狭しと飾られている。
「さあガラシャ、遠慮はいらないわ。この店で一番似合うものを探しましょうね」
ベアトリス様の合図とともに、五人ほどの仕立て屋の女性たちが私を囲み、手際よく採寸を始め、次々と美しい布地を私の身体に当てがい始めた。
「まあ、なんて白く滑らかなお肌! この淡い水色のドレスが絶対にお似合いですわ!」
「こちらの真珠の首飾りも! お顔立ちが気品に溢れていらっしゃるから、何を着ても映えますね!」
「奥様、この子をうちの新作の専属モデルにさせていただけませんか!?」
キャッキャと黄色い声を上げる仕立て屋たちと、それを「私の見立て通りね」と満足げに頷いて見守るベアトリス様。
しかし、そのきらびやかな空間の中心で、私一人は血の気が引いていた。
自分の意志とは無関係に着飾らされ、見知らぬ他家の男の元へ送り出される。
武家の娘として生まれた以上、それは避けては通れぬ運命の儀式。
(私がベアトリス様の養女として、どこかの有力貴族に嫁がされるという肚ですか……。まさかこの世界でも、再び輿入れを経験することになろうとは!)
私が内心で激しい葛藤と覚悟を巡らせていると、一人の仕立て屋が髪を整えながらのんきな声で世間話を振ってきた。
「ふふっ。お嬢様は本当に美しいから、聖都の騎士様たちも放っておかないでしょうね。……お嬢様は、どのような殿方がお好みですか?」
(……間違いない。これは他国への政略結婚――『輿入れ』の準備です!)
恋バナのフリである。
だが、輿入れを前にした(と思い込んでいる)私の思考は、極めて実戦的かつ生存戦略に直結していた。
私は鏡の中の己の目を見据え、真顔で答えた。
「そうですね……。寝首を掻かれぬよう、いびきのうるさくない御仁が良いですね。あとは、急な夜襲にも即座に太刀を抜けるほどの胆力がある方を。……ああ、裏切りの兆候を見逃さぬよう、寝言で軍機を漏らすような口の軽い男は論外です。それから……裏切りの兆候を見抜く眼をお持ちであることも大事……後は」
「…………」
仕立て屋の手が、ピタリと止まった。
華やかなサロンの空気が、まるで真冬のシベリア……いえ、北陸のように凍りついた。
「ね、ねくび……? うらぎり??」
仕立て屋が引き攣った笑顔を浮かべた、その時である。
「まあっ! ふふっ、あはははは!」
ベアトリス様が、扇で顔を隠しながら腹の底から笑い出したのだ。
「ガラシャ、あなたったら! その可憐なお顔で、なんて物騒で高度な冗談を言うの! 本当に面白くて退屈しないお嬢さんね!」
(……おや? 冗談として処理されましたか)
私はきょとんと目を瞬かせた。
どうやら、異世界の貴族の奥様には、戦国サバイバルの本音は『秀逸なブラックジョーク』として変換されるらしい。
しかし、ふと冷静になれば私が迂闊だったと気付いた。
この世界の年頃の、女性の恋の話も勉強せねばなるまい。
その後も、私は最高級の紅茶とケーキを振る舞われ、ひたすらに「可愛い」「素敵」と愛でられ続けた。
政治的尋問も、忠誠の誓いも、政略結婚の話も一切出ない。
ただひたすらに、おば様が若い娘を可愛がって着せ替えを楽しむという、究極の道楽の時間が過ぎていった。
* * *
夕暮れ時。
我が修道院跡地の前に戻ってきた馬車から、私は御者の手を借りてフラフラと降り立った。
その両手には、ベアトリス様から「私からの開店祝いよ」と持たされた、美しい水色のドレスが入った大きな箱や、高級な焼き菓子、茶葉の缶が山のように抱えられている。
「ヒィン……姫君、無事でござったか! その大量の荷物は一体……」
心配そうに駆け寄ってきたシロの頭を、私は空いた指先でそっと撫でた。
「ええ、シロ。……いと平和な、人質生活にございました」
私は疲労感とともに、深い安堵の息を吐いた。
かつて日ノ本において「権力者の囲い込み」といえば、常に命懸けの血生臭い政治の駆け引きであった。
一歩間違えれば家が滅ぶ、あのヒリヒリとした緊張感。
しかし、この異世界で出会ったパトロン(おば様)は、ただひたすらに甘く、不器用なほど過保護なだけであった。彼女の強引な厚意の裏には、打算など微塵もない、純粋な慈愛だけが詰まっていたのだ。
「……さても。商いの道とは、かくも予測がつかぬものなのですね」
私は、抱えた荷物の心地よい重みを感じながら、夕焼け空を見上げてそっと微笑んだ。
初めて手にした銅貨の確かな重みと、貴婦人からの圧倒的すぎる甘やかし。
小さな薬師・ガラシャの異世界での商いは、私の戦国マインドをよそに、実に賑やかで温かな広がりを見せ始めているのだった。
「姫、その。少し高貴な香りが……鼻を刺してございます……」
「あぁ、少々芳しすぎる場所におりましたゆえですわ」




