#23
商務院で正式な認可証を得た翌日。
私は修道院跡地の通りに面した窓辺を改装し、小さな木台を設けた。
そこに、昨日練り上げた特級認可の『軟膏』の入った小瓶をいくつか並べる。
「小さな薬師、いよいよ本日より開門(開店)にございます」
私が凛とした声で宣言すると、店先に鎮座したシロが「ウォォォン!」と勇ましい鬨の声を上げた。近所迷惑にならぬよう、少し控えめな声量である。
「ガラシャちゃん、開店おめでとう!」
朝一番に駆けつけてくれたのは、お祝いの焼き菓子を両手に抱えたクレアであった。彼女は今日、自分の店の仕事が休みだそうで、私の初商いを見届けるために手伝いに来てくれたのだ。
「ありがとうございます、クレア。こうして己の城で商いを開く日が来るとは、夢のようですわ」
私は真新しい若草色のエプロンをきゅっと結び直し、背筋を伸ばして客の訪れを待った。
……しかし。
小一時間が過ぎ、太陽が高く昇り始めても、我が陣を訪れる客は一人としていなかった。
通りを歩く町人たちは、真新しい「薬師」の看板と、店先で尻尾を振る巨大な白犬を遠巻きに眺めるだけで、通り過ぎていく。
「うーん……やっぱり、街外れだからすぐにはお客さん来ないね。もう少し大通りに宣伝のビラでも貼ってこようか?」
クレアが心配そうに眉を下げる。しかし、当の私は至って平然としていた。
「案ずることはありませぬ、クレア。商いとは、いわば籠城戦に同じ」
私は窓辺の椅子に優雅に腰掛け、クレアが持ってきてくれた焼き菓子を一つ手に取った。
「焦って討って出ず、こうして門番を配置し、兵糧を消費しながら、敵……いえ、お客様の動きがあるまで『動かざること山の如し』の構えで待つのです。いずれ我が薬の噂は風に乗り、客は自ずと集まりましょう」
「ガラシャちゃん、たまにすっごく大物みたいなこと言うよね……」
クレアは呆れたように笑いながらも、私の隣でお茶を淹れてくれた。
焦りは禁物である。私は異世界での生活にも随分と慣れ、少しずつこの街の時間の流れを愛せるようになっていた。
ゆったりと流れる秋の雲を眺めながら、私たちは茶を啜り、のんびりとした籠城戦(店番)を楽しんだ。
* * *
昼下がり。
うとうとし始めたシロの耳が、ピクリと動いた。
「……姫君。何者かがこちらへ向かっておりますぞ」
「おや」
私が窓辺から顔を覗かせると、トテトテと足音を立ててやってきたのは、十歳ほどの見知らぬ少年であった。
粗末な革の胸当てに、短い剣を帯びている。
駆け出しの冒険者だろうか。その右腕には、赤い血が滲む生々しい擦り傷があった。
それを見た瞬間。私の頭から「初めてのお客様だ」という浮き立つような思いは、完全に吹き飛んだ。
私にも、遠い日ノ本に残してきた幼き我が子たちがいる。
血を流す子供を前にして、平然としていられる母などいるはずもないのだ。
「まあ! いけません、血が流れておりますよ!」
私は慌ててエプロンを翻し、店先へ飛び出して少年の腕をそっと取った。
「ひっ……!?」
突然飛び出してきた私と、背後に控えるシロの巨体に、少年はビクッと肩を震わせた。
「安心なさい。追手はおりませんね? いかなる曲者に襲われたのですか。ひどい傷……ただちに手当てをいたしましょう」
「え、あ、う、うん……森の浅いところで、スライムの体当たりを食らっちゃって……。大聖堂のポーションを買うお金はないから、安い傷薬はないかなって思って」
「スライム……」
私は先日、森で初めて遭遇したあの不定形のバケモノを思い出した。
「あの急所も首もない恐ろしき化け物ですか! よくぞ無事に生還なされました、若き武士よ!」
「ええっ!? ス、スライムだよ? 一番弱い魔物だよ?」
私が死地からの帰還兵を労うかのように真剣に涙ぐむと、少年は困惑したように目を瞬かせた。
(……おや。少々大袈裟すぎたでしょうか。しかし、私にとっては真の恐怖の象徴にございますゆえ)
「ガラシャちゃん、とりあえず早くお薬を塗ってあげて!」
背後からクレアに急かされ、私は「そうでした」と頷いた。
少年の腕を優しく手ぬぐいで拭い、昨日完成したばかりの『軟膏』を指先に取り、傷口に薄く塗りのばす。
恩寵(祈り)の光は抑えているため、派手な発光はない。
しかし、患部に触れた瞬間、少年はハッと息を呑んだ。
「すげえ……! 塗った瞬間にヒリヒリする痛みが消えた! なんだこれ、魔法みたいだ!」
「ええ。月光草と獣脂を合わせた、ささやかな軟膏にございます」
私が微笑むと、少年は痛みの消えた腕をさすりながら、目をキラキラと輝かせた。
「お姉ちゃん、すごい薬師なんだね! これ、一つもらえる? ええと、お代は……」
少年は腰の布袋を探り始めたが、その顔には焦りの色が浮かんでいた。
どうやら、本当に持ち合わせが少ないらしい。
かつての大名家であれば、このような怪我を負った民草の子供から、小銭を巻き上げるような真似はしなかった。しかし、私は今や自立した薬師である。
(とはいえ、彼も怪我を押して戦う幼き兵。あまり酷な要求はできませんね)
私は少年の布袋の隙間から、赤い綺麗な木の実が覗いているのを目ざとく見つけた。
「そうですね……。あなた、お金はお持ちでないご様子。ならば、その布袋に入っている珍しき赤い木の実と、この軟膏を交換ということでいかがでしょう?」
私が気前よく寛大に提案すると、少年はポカンと口を開けた。
「えっ!? こんなの、森の道端で美味しそうだから拾ってきただけの木の実だよ!? こんなすごい薬と交換でいいの!?」
「ええ。物々交換は楽市楽座……いえ、商いの基本かと存じます。それに、その実はシロのおやつになりそうですし」
私がにっこりと笑って頷こうとした、その時である。
「ダメだよ!!」
横からクレアが猛然と割り込み、私の前に両手を広げて立ちはだかった。
「ガラシャちゃん、商務院でちゃんと定価を決めたでしょ! この軟膏は銅貨五枚! 木の実なんかと交換してたらお店が潰れちゃうよ!」
「おや、いけませんか。私がよいと言っているのですから……」
「ダメ! 情に流されてどんぶり勘定にするのは絶対禁止!」
クレアの厳しい(しかし極めて真っ当な)お叱りに、私はシュンと肩を落とした。
「……承知いたしました。では、誠に心苦しいのですが、銅貨五枚をいただけますか」
私が少年に向き直ると、彼は「銅貨五枚!? そんなに安いの!?」と逆に驚きながら、慌てて袋の底から銅貨を探し出した。
「はい、これ! ありがとう、お姉ちゃん! また怪我したら絶対ここに来るよ!」
少年は私の手にしっかりと五枚の銅貨を握らせると、元気いっぱいに手を振りながら大通りへと駆け出していった。
* * *
客の姿が見えなくなった後。
私は掌を開き、そこに残された五枚の銅貨を静かに見つめた。
異世界の通貨である、小さな丸い金属。
手の中で、それはひんやりとした冷たさと、微かな重みを放っていた。
「初めての売り上げだね、ガラシャちゃん!」
クレアが自分のことのように嬉しそうに微笑む。
「……ええ」
私はそっと目を伏せ、硬貨を指先でなぞった。
前世において、大坂の屋敷や丹後の城で暮らしていた頃。
私の身の回りには、常に豪奢な着物や黄金が溢れていた。
しかし、それらはすべて「大名の妻」として無条件に与えられていたものにすぎない。
己の身を養う金銭が、どれほどの汗と労力によって生み出されているのか、私は知る由もなかったのだ。
クレアの店横で、初めてゲリラ的に行った路面店のような商いとは全く違う。
だが、今は違う。
土を耕し、薬草を育て、自らの知恵と少しの祈りを込めて薬を練り上げた。
そして、それを提供することで小さな兵(子供)の痛みを和らげ、感謝の言葉と共にこの対価を受け取ったのだ。
この小さな五枚の銅貨は、かつて与えられていた千両箱よりも、遥かに尊く、確かな重みを持って私の心に響いていた。
「これこそが、私の手で稼いだ、初めての『対価』なのですね」
私は袖で口元を覆い、コロコロと、しかし深い感慨を込めて笑った。
「えへへ、そうだね。これで今夜は、市場でもう少し良いお肉が買えるよ!」
「はい。シロにも、うんと褒美の肉を焼いてあげねばなりませんね。……クレア、本日は商いの厳しい掟を教えていただき、真にかたじけなく存じます」
「もう、ガラシャちゃんたら大げさなんだから」
秋の心地よい風が、修道院跡地の庭を通り抜けていく。
歌う花たちが、私の初めての商いを祝福するように、微かなハミングを奏でていた。
私は胸元のロザリオにそっと触れ、この平和で自由な日々に、深い感謝の祈りを捧げた。
異世界の小さな薬師としての、本当の自立。
その確かな第一歩が、手のひらの銅貨と共に、力強く刻まれたのである。




