#21
透き通るような秋晴れの朝。
私は修道院跡地の門前に立ち、腰に帯びた細身の剣の柄を静かに握りしめた。
本日は、薬師としての本格的な商いに向けて、自らの足で薬草を採取しに向かう日である。目的地は、聖都の城壁の外に広がる「静寂の森」。
すなわち、私にとっては初めての「敵地への行軍」であった。
「シロ。此度の出陣、そなたを先鋒に任じます。周囲の索敵を怠らず、伏兵の気配あらば即座に知らせるように」
「ハッ! 姫君の御命、しかと承りました。このシロの嗅覚、いかなる曲者の匂いも逃しませぬ!」
勇ましく前足を鳴らす巨大な白犬(元・魔狼)を従え、私は気を引き締めて大通りを歩き出した。背中の籠には、兵糧としてクレアの店で買った固焼きのパンと、水筒を忍ばせている。もちろんケガをした時の自作の薬も準備している。
城門へ辿り着くと、槍を携えた門番の騎士が目を丸くして立ち塞がった。
「おいおい嬢ちゃん。いくらそのデカい犬が一緒でも、城壁の外は危険だぞ。冒険者でもないのに、森へ入るつもりかい?」
「ご安心くださいませ。浅い森の入り口付近で薬草を摘むのみにございます。それに、護身の備えもございますゆえ」
私が腰のレイピアをちらりと見せると、門番は呆れたように息を吐いた。
「……まあ、その犬ならそこらの野犬より強そうだし、日の高い内なら浅い森に魔物は滅多に出ないが。気をつけてな」
「かたじけなく存じます」
重厚な城門をくぐり抜け、私はついに城壁の外へと足を踏み入れた。
目の前に広がるのは、豊かな緑に覆われた深い森である。
(……さあ、ここからが正念場です)
「シロ、陣形を『長蛇』から『鶴翼』へ移行。木々の陰に潜む伏兵を警戒しつつ、ジグザグに進むのです」
「承知! ……って、姫君。ただの薬草摘みに随分と物騒な気構えでござるな。先ほどからすれ違う農民たちが、不審な目で我らを見ておりますぞ」
「油断大敵です。いつ何時、木の上から鉄砲で狙い撃たれるやもしれませぬ」
「この森に鉄砲足軽はおりませぬよ……」
シロの呆れたような呟きを聞き流しつつ、私は神経を尖らせて森の入り口を探索した。
幸い、クロエ教授から教わった薬草はすぐに見つかった。
「これは『月光草』ですね。傷の治りを早める効能があるとか」
私はレイピアを置き、持参した小刀で丁寧に根元から切り取っていく。
静かな森の空気と、土の匂い。
前世の幽閉生活では味わえなかった、自分の足で大地を踏みしめる確かな手応えに、私の心は静かに弾んでいた。
だが、その平穏は長くは続かなかった。
ガサッ……。
不意に、背後の茂みが不自然に揺れた。風ではない。明確な「何者か」の意思を持った動きである。
(曲者っ……!)
私は瞬時にレイピアの柄に手を掛け、身を低くして振り返った。
「シロ、敵襲です! 構えなさい!」
草むらを掻き分けて現れたのは、私の膝丈ほどの大きさの、半透明な水色の塊であった。
ポヨヨン、と奇妙な粘着音を立てて蠢いている。
クロエ教授の図鑑で見たことがある。この世界における最も弱き魔物、『スライム』である。
「……はて。例えるならば……煮こごりのようですが」
私は剣を正眼に構えたまま、その異様な姿をまじまじと観察した。
(敵と対峙したならば、まずは喉元か、鎧の継ぎ目を狙うのが兵法の定石。しかし……)
私の背筋に、じわりと冷たい汗が伝った。
(……兜の目穴も、関節の隙間も、心臓の位置すら見当たりませぬ。そもそも、どこを斬り落とせば『首級』を上げたことになるのでしょう!?)
目の前にいるのは、その理が一切通用しない形なき怪物。
人間でも獣でもない、まったく未知の生命体という存在の不気味さに、私は武家の女としての胆力を持ちながらも本気で戸惑い、足がすくんでしまった。
「シ、シロ! 敵の急所が分かりませぬ! 水攻めにするにも川がなく、火攻めにするにも火種が……!」
「姫君、お下がりくだされ!」
シロが風のように飛び出し、巨大な前足を勢いよく振り下ろした。
ベチャッ!!
哀れなスライムは、元・魔狼の圧倒的な質量と力のもと、一瞬にして水の飛沫となって弾け飛び、跡形もなく消え去った。後に残されたのは、小さな水色の魔石だけであった。
「……討ち取ったり、でござるか?」
シロが前足の汚れを払いながら首を傾げる。
「見事な一番槍です、シロ! そなたの武功、決して忘れませぬぞ」
私はホッと胸を撫で下ろし、袖で額の汗を拭った。
(これが、魔物……。最も弱いとされるスライムでさえ、人の理が通じぬとは。異世界の外敵とは、かくも恐ろしきものなのですね)
私は己の無知と、実戦経験の乏しさを深く恥じ入った。
自立への道は、まだまだ険しいようだ。
* * *
夕刻。
無事に行軍を終えて我が城(修道院)へ帰還した私は、さっそく採取した薬草の調合に取り掛かっていた。
「今回は、陣中食のような過剰な恩寵は込めず、平時の民草が安心して使える『軟膏』に仕立てましょう」
すり鉢で薬草をすり潰し獣脂と混ぜ合わせる。
最後にロザリオを握り、ほんの微かに「傷を癒したまえ」と祈りを込める。
発光しない、安全で確かな効能を持つ傷薬の完成である。
「さて、本日の恩賞(夕食)といたしましょうか」
私は竈に火を入れ、シロのためには市場で買っておいた大きな肉を焼き、自分用にはクレアのパンと野菜を煮込んだ温かなスープを用意した。
ヨゼフ殿の直伝により、私の料理の腕もずいぶんと(気絶者を出さない程度には)上達している。
「美味いでござる! 姫君の手料理、五臓六腑に染み渡りますぞ!」
庭で肉を平らげるシロの満足げな声を聞きながら、私も縁側でスープを一口すする。
心身の疲労が、温かな湯気と共に溶けていく。
(……この傷薬があれば、聖都の民草の痛みを和らげることができるはず)
私は机の上に並べた、竹筒に入った軟膏を見つめた。
これを街で売り出し、薬師としての生業を確立する。
それが、誰の庇護にも頼らず、この平和な世界で自立して生きていくための第一歩である。
「クレアが言っておりましたね。きちんとした商いを行うには、街の『商務院(商業ギルド)』へ赴き、正式な登録をせねばならないと」
私はスープの椀を置き、静かに居住まいを正した。
「明日は、その商務院とやらへ乗り込みましょう。いかなる関所であろうとも、このガラシャ、堂々と押し通ってみせます」
修道院の夜風は冷たかったが、私の心には、新たな陣取り(ビジネス)に向けた熱い決意が静かに燃え上がっていた。




