#20
高く澄み渡る秋の空の下、私は修道院跡地の門前に立ち一枚の真新しい木札を掲げた。
そこには、クロエ教授から教わった文字で、拙いながらも力強くこう記してある。
『小さな薬師』
ついに己の生業と、居場所の証が形になった瞬間であった。
「見事な看板でござるな、姫君。拙者がこの門を鉄壁の守りで固めてご覧に入れましょう」
シロが胸を張り、門番の如く凛々しくお座りをした。
私は満足げに頷き、小袖風の服の裾を整えた。
本日は、職人衆によって見事に修繕された我が城(家)のお披露目の日である。
大名が新たな城に入城した際の「新城入城の宴」、あるいは諸将を招く「軍議」に等しい重要な儀式。主として、隙を見せるわけにはいかない。
昼下がりになると、私が使いの文を出した恩人や友人たちが、続々と我が城に集まってきた。
「ガラシャちゃん、おめでとう! お祝いに、うちの特製パンをたくさん持ってきたよ!」
「お嬢ちゃん、立派な家になって本当によかったねえ」
クレアとヨゼフ殿が笑顔で門をくぐる。
その後ろからは、非番らしく私服姿のアーサー殿と、分厚い魔導書を抱えたエララ殿が歩いてきた。
さらに「やあガラシャ君! 見たまえ、君の庭の土壌分析の結果だが……」と、お祝いの席でも研究の発表を始めようとするクロエ教授まで。
そして、思いがけぬ贈り物もあった。
「お届け物です。マダム・ベアトリス様から」
使いの者が運んできたのは、私の背丈ほどもある、豪奢で美しい花束であった。(これにはアーサー殿やエララ殿も「あのベアトリス様から!?」と目を剥いて驚いていた)。
庭の木陰に設えられた長机に皆が腰を下ろし、賑やかな声が交差する。
私は主としての威厳を示すため、先日購入したばかりの細身の剣を腰に帯び上座の前に静かに進み出た。
「皆々様。本日は我が新城の入城の儀……もとい、お茶会によくぞお集まりいただきました」
私は諸将を見渡す総大将の如き真顔で、レイピアの柄に手を添えた。
「この強固な城と、我が護身の刃のもと、我らの命運を共に――」
「待って待ってガラシャ殿! なぜ町娘の君が、そんな物騒な長剣を帯びているんだ!?」
アーサー殿が、椅子から半分腰を浮かせて叫んだ。
「護身用です。これならば私のような娘でも兜の目穴から脳天を――」
「しまって!! お茶会だから! ここ最前線じゃないから!!」
クレアにも悲鳴混じりに突っ込まれ、私は渋々レイピアを外し、机の横に立てかけた。
(さても。主としての威厳を示すには、少々気風が強すぎたでしょうか)
気を取り直し、私は皆に向けて優雅に微笑んだ。
「さて。日頃の感謝を込めまして、私が自ら仕込みました特製のお茶と、手作りのお菓子を振る舞いたく存じます」
その瞬間。
和やかだったお茶会の空気が、北風が吹き込んだようにピキリと凍りついた。
「えっ……」
アーサー殿の顔から血の気が引く。
ヨゼフ殿は限界まで胃を押さえ、エララ殿は震える手で十字を切った。
あの好奇心旺盛なクロエ教授でさえ、顔を引き攣らせて後ずさった。
皆の脳裏に、かつて私が振る舞った「白目を剥いて気絶する、暗闇で発光する泥の煮汁(激マズポーション)」の鮮烈な記憶が蘇ったに違いない。
「お、お嬢ちゃん……! 気持ちは嬉しいが、今日はクレア君のパンがあるから! 水で! ただの湧き水で十分だから!!」
「そ、そうです! 私、明日は大聖堂で重要な祈りの儀式がありまして、今日気絶するわけには……!」
必死に命乞いをする諸将……もとい友人たちを見て、私は袖口で口元を覆い、コロコロと上品に笑った。
「ご安心くださいませ」
私は台所へ戻り、盆に乗せた茶器と大皿を運んできた。
机の上に置かれたのは、透き通るような琥珀色の『紅茶』ときつね色に香ばしく焼き上がった素朴な『クッキー』であった。
「……え? これ、ガラシャちゃんが作ったの?」
クレアが信じられないというように目を丸くする。
「ええ。先日書店で料理の本を買い求めまして、この世界の茶の淹れ方と、菓子の焼き方を独学で練習いたしましたの」
私が皆の前に紅茶を注ぎ分けると、ベルガモットに似たふくよかで高貴な香りがふわりと広がった。
お祈り(恩寵)はほんのわずかに留め、決して発光しないよう細心の注意を払ってある。
恐る恐る紅茶を口にしたアーサー殿が、ハッと目を見開いた。
「……美味い。いや、大聖堂の来客用の高級茶にも引けを取らない、深い味わいだ……」
「このお菓子もサクサクで甘くて、すっごく美味しいよ!」
クレアが満面の笑みでクッキーを頬張る。
エララ殿もヨゼフ殿も、毒味を終えて安堵したように顔をほころばせ、次々とお茶と菓子に手を伸ばした。
ヨゼフ殿は、温かな紅茶の入った杯を両手で包み込みながら、しみじみと私を見つめた。
「……お嬢ちゃん。君は、私たちが思っている以上に、ずっと逞しくて賢い子なんだね。一人で異国に流れ着いて、こうして自分の足で立ち、美味しいお茶まで淹れられるようになるなんて」
「ヨゼフ殿……」
「ええ、本当に。ガラシャさんの前向きな姿に、私も日々学ばせていただいています」
エララ殿が微笑み、クロエ教授が笑い飛ばす。
アーサー殿は少し照れたように「また、何か困ったことがあればいつでも頼ってくれ」と頷いてくれた。
私は、皆の心からの笑い声と、温かな言葉に包まれながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。
(ああ……)
かつて、大坂の細川屋敷や丹後の城で開かれた宴の記憶が脳裏をよぎる。
煌びやかな調度品に囲まれ、高価な酒が振る舞われても、そこには常に腹の探り合いや、裏切りへの警戒が渦巻いていた。
誰もが仮面を被り、明日の命も知れぬ暗闇の中で作り笑いを浮かべていたのだ。
だが、目の前の宴はどうだろうか。
ここにあるのは、純粋な笑いと、互いを思いやる温かな心だけである。
緊張も、恐怖もない。
これこそが、私が自分の手と足で築き上げた「私の城」なのだ。
私はふと、秋晴れの高い空を見上げた。
死の淵にあった私をこの平和で美しい世界へと導いてくれた、あの温かく不可思議な女性の声。
(……ひょっとして。あの声の主こそが、この国で信仰されている『慈愛の女神』様だったのでしょうか)
確証はない。だが、もしそうであるならば。
(女神様。私に、このような穏やかな日々を与えてくださり、心より感謝申し上げます。私はこの地で、彼らと共に、逞しく生きてまいります)
私は胸元のロザリオをそっと握りしめ、深く、静かな感謝の祈りを捧げた。
異世界に降り立った戦国の姫。
小さな薬師・ガラシャとしての本当のスローライフが、今、温かな紅茶の香りと共に、静かに幕を開けたのである。




