#18
夜の静寂が降りた修道院跡地。
職人衆の普請により隙間風の入らなくなった部屋は心地よく暖かで、私は寝台に座りながら日課の祈りを捧げていた。
「主よ、今日も穏やかな一日をありがとうございました」
胸元のロザリオに口付けをし、そっと目を開ける。
縁側に出ると、秋の夜空には見たこともない星座が瞬いていた。
庭の片隅では、巨大な白犬――元・漆黒の魔狼であるシロが、丸くなって夜露を凌いでいる。
「起きておいでですか、シロ」
「おお、姫君。いかがなされました? もしや夜襲の気配でござるか!?」
「いいえ、ただ星が綺麗でしたので」
私はシロの隣に腰を下ろし、そのフワフワとした毛並みを撫でた。
「シロ。以前クロエ教授から、この世界には魔物と呼ばれる外敵がいると教わりました。あなたは元々、その魔物であったのですよね」
「……左様にござる」
シロは少し耳を伏せ、どこか遠くを見るような目をした。
「かつての拙者は、森の最深部を縄張りとする『漆黒の魔狼』。立ち入る者は人間であろうと、他の魔物であろうと、容赦なくその牙にかけ、血肉を貪って生きておりました。まさに弱肉強食、己の力のみが法である修羅の道にござった」
(人を食らい、魔物を食らう……)
その事実に、私はさして驚きも嫌悪も抱かなかった。
戦国の世においても、野に放たれた兵や野伏たちは生きるために略奪を行い、力なき者はただ蹂躙されるのみであった。
生きるための業の深さは、人も獣も大差はない。
「魔物とは、一体何なのでしょうか」
「この世界に『生命』という循環が尽きない限り、澱みのように生まれ続けるもの……とでも申しましょうか。魔力を持つ獣が変異し、ただ破壊と捕食の本能に突き動かされる。尽きることはありませぬ」
「ならば……」
私はシロの柔らかな首筋を撫でながら小首を傾げた。
「他の魔物たちも、あなたのように恩寵(浄化)の光を浴びせれば、このように白く愛らしい姿に生まれ変われるのでしょうか? そうなれば、騎士や冒険者の方々が命を懸けて戦う必要もなくなりますね」
私の呑気な問いに、シロは「ヒィン」と情けない声を漏らして身震いした。
「姫君、それはあまりにご無体な発想でござる……。拙者が斯様に毛並みの良い農具(犬)になれたのは、万に一つの奇跡。通常の魔物は、あの致死量に近い浄化の光を浴びれば、浄化され尽くして消滅するか、耐えきれずに狂乱するのみ。あまり期待なさらぬ方がよろしいかと」
「おや、それは残念です。皆あなたのようにフワフワになれば、いと平和でご近所の方々にも喜ばれると思いましたのに」
「……姫君の御心は、時折底知れぬ恐ろしさを秘めておられる」
シロの呆れたような呟きを聞き流しつつ、私は夜空を見上げた。
魔物という存在。それはこの世界の平和を脅かす、尽きることのない影。
* * *
翌日の昼下がり。
私は街へ出かけた。
身に纏うのは、クレアが見繕ってくれた若草色のブラウスと深い緑のスカートである。
最初は足元がすうすうとして羞恥に顔を赤く染めていたものだが、人間とは慣れる生き物である。最近では肌寒い日に薄手の羽織ものを合わせるなど、ちょっとした異世界の装い(コーディネート)も楽しめるようになってきた。
武家の女の嗜みであった何重にも布を重ねる着物は、帯で体をきつく締め付けるため、平時でも常に気を張っている感覚があった。
それに比べ、この異世界の服はなんと身軽で動きやすいことか。
(いざという時、足さばきを邪魔せず立ち回れるのも素晴らしい利点です)
相変わらずの物騒な思考を心の隅に置きつつ、私は街路を歩く。
まずは『図書館』へ赴いた。
クロエ教授から教わった文字の規則性のおかげで、今では簡単な図鑑や歴史書であれば読み解くことができる。自分で情報を得る喜びは、何物にも代えがたい。
その後、学術院にあるクロエ教授の研究室を訪ねた。
「おお、ガラシャ君! 見てくれ、君の家の土壌サンプルから……」と興奮気味に迫る教授を上手く躱しつつ、冬に向けて植える新しい野菜の種を分けていただいた。
そして最後に、クレアのパン屋へ。
「ガラシャちゃん、いらっしゃい! 今日の服、上に羽織ってる上着とスカートの色が合っててすごく素敵だよ!」
「ありがとうございます、クレア。あなたのおかげで、少しはこの街の娘らしくなってきたでしょうか」
焼きたてのパンをいくつか包んでもらい、私はホクホクとした気持ちで店を出た。
(本を読み、種をもらい、パンを買う……)
ただそれだけのことが、無性に嬉しい。
誰の許可を得ることもなく、供回り(護衛)を連れることもなく、己の足で歩き、一人で用事を済ませられる。
大名家の奥方として常に奥御殿に縛られていた前世では、決して味わうことのできなかった「当たり前の自由」を、私は今、噛み締めていた。
* * *
帰り道。
街の城門へと続く大通りを歩いていると、前方から歩いてくる一つの集団とすれ違った。
革の鎧や布の装束に身を包み、大剣や杖を背負った若い男女たち。
冒険者の徒党である。
魔物討伐の依頼を終えて帰還したところなのだろう。
彼らの装備は泥や魔物の体液で汚れ、頬には生々しい擦り傷もあった。
しかし、彼らの表情は一様に明るかった。
「今日のあのでかい魔物、お前の魔法がなきゃ危なかったぜ!」
「ふふん、私の援護のおかげね。今日の酒代はおごりよ!」
身分も性別も関係なく、対等に肩を叩き合い、笑い合っている。
女性であっても武器を持ち、己の力で金を稼ぎ自分の足でしっかりと立っているのだ。
私は足を止め、彼らの逞しい背中を静かに見送った。
その時、ふと胸の奥に、ある感情が渦巻いた。
(……私は、いつまで守られる立場にいるつもりなのでしょう)
戦国の世において、女はただ庇護されるだけの存在であった。
父・明智光秀も、夫・細川忠興様も、そして仕えてきた者たちも……。常に戦場の最前線で血を流し命を懸けて己の領地(家)を守っていた。
私はその安全な奥御殿の中で、彼らの無事を祈りながら待つことしかできなかった。
守られるということは、己の運命を他者に委ねるということ。
だからこそ、本能寺の変の後、私は裏切り者の娘として幽閉され、最後は人質として利用されるのを防ぐために死を選ばざるを得なかったのだ。
そして今。
この美しく平和な聖都サン・マリアンヌにおいても、アーサー殿のような騎士や、先ほどの冒険者たちが、城壁の外で魔物という外敵と戦い、血を流してくれている。
私がこうして穏やかに刺繍をし、美味しいパンを買い、歌う花を育てていられるのは、彼らが防波堤となってくれているおかげなのだ。
(私の陣中食が彼らの傷を癒しているとはいえ……根本は、前世と何ら変わっておりません)
己の平和のために、誰かが戦い、傷つき、迷惑をかける。
それが彼らの職務(仕事)であると頭では理解していても、武家の女としての誇りが、それをよしとしなかった。
(私はもう、誰の庇護にも依存したくはありません。誰にも縛られない、本当の意味での『自由』を得たのですから)
この平和な日常を、私自身の力で守り抜く。
それこそが、この新しい世界での「自立」というものではなかろうか。
この国で戦うべき相手は「人」ではない。
「魔物」という理不尽な災害である。
ならば、私が武器を手にすることに、何の罪悪感も伴わない。
「……決めました」
私は両手でしっかりとパンの入った紙袋を抱え直し、毅然と顔を上げた。
「私の平和は、私が守ります。……そのためには、最低限自らを守り、敵を討ち払う術を身につけねばなりませんね」
まずは、己の身の丈に合った薙刀を探すべきか。
いや、ここは異世界。
遠当てができる火縄銃に代わる『魔法の杖』や魔道具の方が、後方支援には適しているやもしれぬ。
先日のアーサー殿のような、急所を補強した南蛮胴の購入も検討せねば……。
「近々、武器屋と魔道具屋の市場調査へ参りましょう」
私は十五歳の愛らしい町娘の姿のまま、頭の中で極めて血生臭く、かつガチの実戦を想定した武装計画を練り始めた。




